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あの日から50年経てど・・・ 
三田村 良子(みたむら よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市(東観音町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市東観音町
一・二キロメートル自宅外で被爆。建物、土塀の下敷になり助け出され母と二人濡らした夏フトンをかぶり午後遅くまで天満川ですごしました。

一九九五年 夏
被爆時、六歳になったばかりの私は、翌年四月小学校入学の年齢でした。一九八八年町田市非核平和事業として発刊「ふたたびくりかえすまい 私の戦争体験記」に駄文を載せましたが、何年経ても書けない、書きたくない体験です。医学の進歩した現在でも、放射能の体内に及ぼす影響が分からない部分が多く、治療法のない中、チェルノブイリ原発事故から九年、国柄多くは報道されませんが、放射能汚染、胎児の異常、子供を産む不安が続いているとのこと、病に侵され髪の毛の抜けた子供達の写真、当時の私たちの姿と重なり心痛みます。

八月、真夏の気象条件、風向きまで考慮、非武装市民の最悪悲惨状況を出す為の原爆投下、放射能による人体実験場になった広島。三日後長崎までも。薄着、炎天下、生きたまま腐敗する人々。歴史上、戦争終結。私は、あの日から生きている限り続く戦いが始まりました。

八月六日、広島一中一年在学中の兄が、母手作りのゲートルを巻き、勤労奉仕に早朝元気に家を出た姿が最後でした。七日夕方だったそうです。即死なら苦しまずに済みましたものを、待つのは死だけ、大火傷の少年が治療をうけている写真パネル、兄。多くの方々があの様であったかと。

八月三〇日、被爆二週間後、外傷もなく無事を喜んだ父が全身のだるさを訴え、倒れ、医者のなす術もなく冷たくなっていくのを目の当たりにし、父母、私と同一場所近距離被爆昨日まで元気でおられた周囲の方々の死。母、私も死を覚悟の毎日でした。ただ、左右も分からぬ私は、母が目の前から消える(死)ことを怖れました。母は私以上に、折角助かった私を死なせてはならない、残しては死ねないと、どんなに思ったことでしょう。被爆後に続いたこの思い、不安、等しく受忍、一言では片付かないことでした。

世の中には、警鐘ともなり伝えなければならない被爆体験、写真パネル、絵画展、被爆報道が、これから結婚、子供を産み育てなければならない頃の私には、大変辛く厳しく、又、手帳取得、小頭症等のことが重くのしかかりました。決して、どの様な戦争もあってはならなかったことですが、一般戦災なら頑健な、父兄多くの方々が助かり、生存した者の苦しみも少なかったと思いますし、私も結婚、子供を産み育てる人生の選択をしたと思います。

あれから五〇年、奇蹟的に生き残りましたが、一日として心から喜び、笑う日は無く、今、又、国内外で、紛争、核実験、再開が続き、天災、経済優先がもたらした弊害、自然環境破壊、人の温かさを感じさせない複雑な事件の多発、原爆に限らず、あの頃の多くの犠牲者の方々が安らかに眠れる、過去を反省した五〇年に、なったでしょうか。日本トキ絶滅と共に、子孫を残せなかった被爆者として、一層悲しさが募ります。

世界、日本は二度と私たちをつくり出してはなりません。

悪夢のような過去に戻してはなりません。

次世代の平和の為に、戦争、核被害の無い心温かな世の中になります様祈ると共にまだまだ、努力を続けなければと思う夏です。


  

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