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体験記を読む
未来への伝言 被爆の体験と証言 
山口 勝信(やまぐち かつのぶ) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 福済寺(長崎市下筑後町[現:長崎市筑後町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎東陵中学校1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)

昭和二十年八月九日 長崎原爆被爆記

私の生家は、長崎原爆中心地から約四・五キロ北にある、時津町(当時村)元村□□□□□です。

私は当時、東陵中学校の一年生(十三歳)で、学徒動員により三菱造船所に勤務して約二週間が経っていました。勤務といっても、まだ金槌の打ち方を練習していました。確か八月一日頃、三菱造船所も爆撃を受け、私達は、裏山に掘られた防空壕の中で、約五〇米の所にも爆弾が落ちました。防空壕の中には人間魚雷のようなものが作られていましたが、私達はその傍らに蹲んで、爆弾が落ちる度に凄まじい振動に震えていました。

八月九日は、朝から快晴の暑い日でした。朝八時頃警戒警報のサイレンが鳴ったままになっていました。私の当時の勤務は午後一時からになっていました。通勤列車の時間も考えながら、森淳之輔という友人の家に立寄ってそこで弁当を食べて出勤するのを常としていましたので、その日も出掛ける支度をしていました。すると、病気療養中の兄が言いました。
「午後の出勤なのにもう出掛けるのか。それに警戒警報じゃないか。六日に広島に新型爆弾が落とされたそうだ。多分原子爆弾らしいぞ。」私は格別意にも介せず、「午後どうなるか分らないし、早めに友人の家に寄って行くから。」と言残して時津の家を出ました。

森淳之輔の家は、長崎駅から左手の山手にある福済寺の裏山の小高い所にありました。長崎港が眼下に見えて、長崎駅が真下にありました。家の裏は段々畠で山が迫っていましたが、港の見える南側は、庭のようなかぼちゃ畑になっていました。その先は、家々の屋根が連なり、緑色をした福済寺の瓦屋根が一際大きく、長崎港に浮かんでいるようでした。その港の対岸がこれから出勤する三菱造船所になっていて、クレーンが動いたり、時々白い煙が立上ったり、様々な町の騒音が反響したりして、田舎育ちの私にはとても魅惑的光景でした。畑の傍らの水道で手を洗うとまるでお湯のようでした。

真白くピカピカと輝く港を見ながら早めに弁当を縁側で食べ終えた頃、ラジオが空襲警報を告げました。

島原上空を北上中の敵大型二機あり―殆ど同時にカンカンと敵機来襲を告げる鐘がけたたましく鳴りました。
「森君!防空壕はどこ!」
と叫ぶや否や、兼ねて聞覚えのあるB29の爆音が南東の空から響き渡ってきました。私は咄嗟に白いシャツの身を隠さなければならないと思い、下駄を脱いで縁側に上ったそのときでした。ピカッ!!と目の眩む閃光と、フワァッとした熱風のようなものを感じ、私は無我夢中で家の中の暗い方に駆込みました。

多分十歩も走ったのか台所みたいな感じがした瞬間、ガーンと顔に砂が滅り込む気がしました。

一瞬真暗闇となり静寂な時が続いたようでした。『見えない、聞こえないどうしたのだろう』と思っていると、
「淳ちゃん」という声が聞こえ「ハーイ」という声に続いて「お友達は?」という声が聞こえました。私はハッとして
「大丈夫です。私はここにいます。」と答えました。それでも闇が続いていたので、「どこ」「どこ」という声を頼りに、少し明るい方に歩いていって、三人が手を取合って「怪我していない?」「良かったね」と喜び合いました。煤や埃で真暗だったのだと気付いたとき、お互いの顔が煤で真黒のほかは元気そうでしたが、小母さんの足から血が流れていました。

家の中はすべてが滅茶苦茶でよく見ると柱が歪んで今にも潰れそうなのに気付きました。怖くなって外へ飛出ると不思議な光景を見ました。真青な空の下は一面真黒い煤煙の海が静かに視界を広げて行くのを見ました。汽車や電車やクレーンなどの町の騒音が一切消えて水を張ったような静かな瞬間がありました。

しかしそれもアッという間のことで、俄に人の悲鳴や泣声、物の燃える音の渦に巻込まれました。煤煙の海の中に緑色の福済寺の崩れた屋根が見えました。
「寺に爆弾が落ちたのでは」「それにしてもあの光はなんだったのだろう」と言合っているうち煤煙の中に長崎駅の屋根やビルが現れ始めて、あちらこちらに真赤な炎があがりました。群衆の悲鳴が私達の山手の方に段々駆け登ってくるのが解りました。
「小母さん、もう火の手が近ずいています。逃げましょう。」と叫んでも、呆然と佇む親子には通じないようでした。そこへ一人の少女がずきんを被って息を弾ませて登ってきました。

「お母さん」と叫んで少女は小母さんに抱つきました。「洋子ちゃん」「姉さん」と言いながら三人の親子は抱合って無事を喜んでいました。森君の姉で活水女学校の三年生であることを初めて知りました。

私は一刻も早く家に帰りたくなって、北の方向の長崎NHKの方へ行こうとしましたが、血相を変えて泣き喚く人達がどんどんこっちの方へ逃げてくるのです。やむをえず、私は森君の一家と逃げるほかはありませんでした。森一家は裏庭の小さな池の中に、なにやらどんどん投げ込んでいました。そのうちいろんな人から「浦上方面は全滅だ」とか「早く逃げないと危ない」とか「寺町のほうは安全らしい」とか情報が伝わってきました。

私達は福済寺に火の手が上がり黒煙が天を覆う頃、燃える家を見捨てて諏訪神社の方へ人波に沿って逃げました。西坂町の方から山越えで逃げてくる人達は、血を流しながらドヤドヤと集まってきました。その中に十人くらいの白人の捕虜が手錠を掛けられて、日本刀を引抜いた憲兵に引率されていました。群衆の中から「こんな奴らは殺してしまえ」と怒鳴る人がいました。

私達は森家の墓地のある寺町の山裾に行くことになりました。西坂町の方向は、天に届くような真赤な炎の壁がゴーゴーと轟きパチパチパンパンという音を交えて凄まじい炎の嵐を見ているようでした。墓地には沢山の人が集まっていて、水やおにぎりの配給が行われていました。私は時津の家が心配でしたがどうすることもできず、山陰の墓地で西北の空が炎に包まれ天にゆらゆらと動く様子を見ていました。下の町の方では消防車の音や人の叫び声が渦のように沸起こっていて、山に抱かれた様な墓地では蝉が泣いていました。私は訳もなく涙が流れて仕方ありませんでした。

暗くなっても西の空は赤々と燃えていました。敵機来襲を告げる鐘が鳴り私達四人は骨を納めてある「セコ」の石蓋を開けました。中は結構広くて持参した蚊帳を下に敷きました。小母さんは「先祖と一緒に死ねたらいいわ」と言いながら親子三人一緒に入りました。「山口さんも入りなさい」と言うので、私は爆弾が怖くて必死に潜りこみました。黴の異臭が鼻を突き、周りは水が滴っていました。お骨を入れた壺が私の首の傍にありました。

敵機来襲は二回くらいありました。

カンパンを二三個食べ水筒の水をすするように飲んで毛布に横になっても、蚊がいたりしてとても寝ることはできなかったようです。町の中が静かになると、夜が明けるのを待兼ねて、朝四時頃だったのでしょうか、四人は森君の家に帰りました。跡形もなく焼けつきて、バラバラに割れた瓦と台所の流し台だけが残っているように見えました。畑のかぼちゃが焼けて半分くらい食べられました。どこからともなくニャーンと猫がすり寄ってきました。
「玉ちゃん、生きてたの」洋子さんは猫を抱きしめました。猫は尾を火傷していました。森君一家は、諫早の親戚に行くことになり、私はまた会う日を誓って西坂町の方へ向かいました。

もう六時か七時頃だったでしょうか、裏山を少し右手に回ると見晴らしが急に開けて、浦上方面の緑一つなくなった西北の山々が絵で見た砂漠のようでした。昨日と打って変わり、殆ど人影が見えませんでした。NHKの近くで下の道路に出る道を捜しても瓦礫ばかりで、いたる所で火が燻っていました。思起こせば、私はそのとき下駄履きだったのです。方向を定めて飛びながら進みました。赤毛の馬が真青な腸を出して道に横たわり行く手を遮っているのを見たときギョッとして足が竦んだばかりか、本当に家に帰れるだろうかと思うと心細くなって座り込み涙が出てきました。それからどのようにして下の大通りまで出たか覚えていませんが、遠くの方で人影が動いたり人の声を聞くたび『ああ、生きている人がいる』と思うと勇気が沸いてきました。

電車通りに出ると車輪だけ焼け残った電車を見て汽車も電車も自動車も全滅したことを知り、これは兄が言っていた新型爆弾に違いないと思いました。茂里町の三菱兵器の所で私は愕然として立止まりました。ここには私の姉が働いていました。鉄骨がぐにゃぐにゃと押し潰され、焼け焦げた工場は無残でした。『こんな惨状で姉が生きているはずはない。もし生きていたとしてもどこかで怪我をして苦しんでいるに違いない』と思って、近くの防空壕を探さなければと考えました。茂里町から長崎医大に通ずる旧道があり、ここは小高い丘が迫っていて横穴式の防空壕が沢山ありました。近くの防空壕に行こうとしたら、血塗れの憲兵がサーベルで半身を起こし「水、水をくれ」と必死の叫び声を上げました。もう一人の憲兵が、「馬鹿野郎、水を飲むと死ぬんだ」と怒鳴り私が中を覗こうとすると駄目駄目と手を振りました。防空壕の中は暗くて呻き声が聞こえていました。

私は怖くて逃げるように医大の方に走りました。医大前の電車の停留所の角に浜崎という靴屋がありましたが焼け野原でした。この靴屋さんの若夫婦は時津の私の家の離れに疎開して靴を作っていました。ここではおばあちゃん夫婦と女学校生のお嬢さんが住んでいたはずですが、人影はありませんでした。電車と自動車道路の交差する浜口町で初めて歩いている人に会いました。頭髪はなく顔は墨のように黒く、二つの目がふしぎにギョロギョロして、白い歯が見えました。着物はボロボロで杖をついてまるで影法師のように私の方に近ずいてきて、
「ぼっちゃん、怪我はしとらんとね。よかったね。先へ行けばもっとひどかとばい」と言いました。私は恐ろしくて逃げようと思っていましたが、本当にホッとしました。私はなにも言えず急に足がふらふらになり座り込みました。

「どこまで行くとね」と尋ねられて、時津の家に帰るところだ、と言うと、
「ほう、そりゃ危なかばい。横穴のある処ば行かんとね」と優しい小母さんの声でした。

そのとき晴れ渡った青空に飛行機の爆音が聞こえました。その場に二人は死んだように伏せて飛行機の去るのを待ちました。多分十時か十一時頃だったでしょうか。爆音が去ると小母さんは、自分の身体を見せるような仕草をしながら、
「見てみんね、こぎゃんやられて憎らしかね。仇ば取ってくれんねよ。」と言って立上がりました。私が大きく頷くと、
「皆心配して待っとるばい、早よう帰って安心させてやらんね。」と言いました。

私は黒焦げに半崩した鎮西中学校のビルや稲佐山から城山方面の山々がすっかり焼け盡して、長崎がこんなに広かったのかと初めて赤茶けた砂漠のような町を見て、人々は皆死んでしまったのではないか、と思いました。長崎刑務所の前の石垣が下がえぐれて上に吹き飛んだようになっているのが不思議な光景に見えました。至る所に黒焦げになって死んでいる人がいましたが、動いているものは殆ど見当たらなかったのです。こんな光景の中で、不思議に、『自分は生残ったから、この様子を皆に話したい。生きて帰りたい』と激しい衝動が沸くものであることを知りました。

大橋の欄干に真赤に焼け爛れた男の人が瞳を半開きのまま全裸で座ったまま死んでいるように見えました。大橋の鉄橋にかなりの人が集まっていました。橋の下や川の中にも人が動いていました。私は初めて生きて帰られるかもしれないと思いました。よく見ると憲兵が怪我をしている人を列車に乗せている所でした。私は憲兵に、「汽車はすぐ出るのですか?」と聞くと、
「怪我をしていないのなら歩け。汽車は当分出ないぞ」と答えました。

私は線路の上を走るように道ノ尾の方へ急ぎました。その頃から人の往来がかなり見受けられました。線路の土手は夏草が見え初め、六地蔵の辺りは青い夏の田圃が広がっていました。

漸く時津の入口、打坂の堀り切りにさしかかったときでした。家に疎開して靴屋を営んでいた浜崎の若主人が私の目の前で棒立ちになって、暫く呆然としていました。
「勝信さんじゃなかね。」
「はい。」
「皆んな心配しとらすよ。早よう行って安心させんね。」私はつぶさに、「おじさん、浦上から全滅ばい。おじさん家もなんもなか。おばさん達もどこへ行ったか探しようがなかばい。」と言って別れました。

私は渾身の力をふりしぼって、坂を転げるように走りました。継石まで来ると青々と広がる田圃の中に我家が見えたとき、母に飛付いて泣くかもしれないと思いました。

家の前の道路には母や長女の姉や疎開人の木原さん達が皆んな手をあげて待っていました。
「お母さん、帰って来たよ。」
と言うと、母は声を出して泣きながら私を抱きました。母が私を抱いたのは、後にも先にも人生の中で唯一度だったと思います。姉も木原さんも声をあげて泣いてくれました。

私は真先に流し台にいって水を飲みました。すると、南向きの流し台の前のガラスがみんな割れていました。二階のガラス戸も南側は爆風で吹き飛び、その後キノコ雲が出たことを初めて聞かされました。

何よりもびっくりしたことは、茂里町の三菱兵器で勤務していた姉が全く無傷で家に帰って眠っていたことでした。姉は工場の水槽の傍らで水を被り、工場をすぐ逃出して、近くの山を伝って山越えで夜中に帰ってきたのだそうです。

疎開人の浜崎靴屋の主人は家族の行方を捜すことができず、その日の夜遅く憔悴しきって帰ってきました。後で聞いた話ですが、お嬢さんが半身黒焦げに火傷して帰ってきたが話すこともできず、気が狂った様に苦しがっていた、と。そして数時間後急に跳起き、ずきんを被って外へ飛出すと、側溝に身を丸めると「怖い、怖い」と叫びながら死んだということです。

城山町に住んでいた従兄弟が十一日の午後無傷で元気にひょっこりやってきました。長崎西枝(旧璦浦)グランドで被爆して吹き飛ばされたが、怪我はなかったそうです。彼は叔母(母のこと)が自宅で顔や手足を火傷し、家は全焼、父は三菱長崎製鋼所で即死、次女は城山中学校で教鞭中即死したこと、弟達が近所の人と川辺のテントにいること、その他、そのケロイドの母が今朝長崎市民病院に入院したこと等を話しました。それから私は兄と二人で、その全焼した叔母の家を片付けたり、バラックを建てるため、リヤカーを引いて何回となく城山の焦土へ行きました。

それからその従兄弟は私の家にいて米を搗いたり、草を取ったりして手伝っていたのですが、二週間もしない頃から元気がなくなり、腕などに小豆大の赤黒い斑点が出て、頭髪が気味悪くボソッと抜けました。九月二日のことでした。ミズリー号上で終戦調印式が行われるその日でした。食事もしなくなって、急に「お母さんに会いたい」と言いながら、長崎の市民病院に歩いて出掛けました。これも後で聞いた話ですが、青ざめて母の病室に入るなり、「お母さん」と言って伯母に抱着いたそうです。叔母が「苦しいね」と尋ねると、「苦しいさ」と答えたまま、息が切れたということでした。
おわり

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)

原爆被爆当時手足に斑点が出た。頭髪が抜けた。
現在は白内障で右視力〇、左〇・〇八程度

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)

別添「老人の主張のとおり」


世界平和祈念巡礼都市構想にご理解を
山口勝信(五十九歳)

一九四五年八月六日と八月九日は、広島市及長崎市に原子爆弾が投下された日です。この両日は、文明が一瞬にして人類を滅亡させることができることを実証した最初の出来事であります。そして同時にこの出来事は、人類の歴史において二度と再びこの惨禍が繰り返されることのないことを、世界中の人々が悲願する日となったのです。

私は、八月九日、長崎駅近くで被爆し、山裾の墓地で、火山の如く燃え盛る街を見ながら一夜を明かし、その翌朝燃え尽きた爆心地を縦断して、四キロメートル離れた自宅へ帰りました。その途上、当時十四歳の少年であった私が、そこで見た光景は、余りにも残酷な地獄絵でありました。私は心の底から戦争を呪いました。「仇ば取ってくれんねよー」と云いながら、歩いて行く私の足もとに蜒蜒と横たわる被爆者の臨終の叫びを振り切って、私は逃げるように帰り続けました。私の家は残っているのだろうか、母は生きているのだろうかと案じながら、火の残ったガレキの中を必死に急いだのです。

しかし、今もその声が追い迫ってくるようで、こうした被爆者の呪いを私たちは弔わなければならないのです。世界の人たちに向かって、一人一人がもう二度とこのような非人道的な戦争を起こすことのないように、広島市及び長崎市を訪れ悔恨の涙を流し、平和の祈りを奉げてくれることを願わないではおられないのです。そのために、広島市及び長崎市の人々は勿論、日本中の人たちが、世界中の善意ある人々に対して、平和祈念巡礼に訪れてくれるよう呼びかけていただきたいのです。

この悲願を達成するために、戦争を起こした日本人の義務として、われわれは、「平和に通ずる巡礼の道―ピースロード」を創り上げるべきであると思います。

これを実現するためには、財政的に多くの方策を講ずる必要がありますが、私は、そのために次の方法を提案します。

広島市及び長崎市は、一体となって「世界平和祈念巡礼基金(一兆円)募金」の事務局を設置し、募金活動を始めることです。そしてこの一兆円に達するまで、幾年の歳月がかかるか知りませんが、世界に呼びかけその達成の暁に、世界各国の平和運動功労者をできるだけ多く招待し、記念講演会その他のイベントを実施することです。

そのために両市に、祈りの殿堂を建設することと、無料の宿泊施設を設置運営する必要があります。

世界各国の航空会社、船舶会社、旅行関係業者、JRなど大企業の協力が必要です。しかし、これが二十一世紀に向けての日本の永遠の事業となれば、世界の平和と日本の繁栄につながるものです。このことによって日本人は、世界の人々に貢献することができると思います。

こうした発意は、平和を愛する善良な世界の人々のボランティア活動として、地道な努力が払われることを期待するものです。私は今まで、戦争の廃墟の中に育ち、生きるためにガムシャラに働き、漸く、生涯とは何かを振り返るときが来ました。社会のために何か役に立ちたい、一人でも多くの人たちの幸福のために何かを為したいと考えるようになりました。そのとき私は、原爆被爆者の一人として恒久の平和を念願して死んでいった人々の悲壮な叫び声が聞こえてくるような気がするのです。それはきっと神が私に与えた余生を、地球上に永遠の平和をもたらすために命を奉げるべきであると信ずるようになりました。

町田市の皆様、こうした努力は、一人一人の優しい心から生れるものです。二十一世紀につなぐ純粋な被爆者の一人の小さな叫びを運動の一つとしてご理解ご協力をいただくことを願って止みません。
(出典『老人の主張』町田市公民館編・刊)
  

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