会報第十五号に記載と重複する個所も有りますが、ご容赦ください。昭和二十年六月末、二期生と入れ替り、四期生が小豆島から、転入して来ましたが、私は二班付(班長中村軍曹)で三班(左京栄軍曹)付の高藤兵長(少通同期)と合同して通信教育に従事して居ました。十月になればコ隊は山陰の正明市に移動すると云う、情報があり、噂さとして、海に近いので、毎日魚が食べられる、白飯も腹一杯に、と云うことで、その日が待ち遠しい毎日でした。
七月になり、或る日、外出者が、伝単を拾って来ました。上質の紙で、崖上の家をロープでわが身と共に、谷底に引き落とそうとしている、財閥、軍閥、の漫画でしたが、財閥とか軍閥に認識は無く、勿体ない、アメリカは馬鹿な事をする、と思ったものです。また、七月末には、校庭の藤棚の前で、班全員の記念撮影がありました。その頃井ノ口に撃墜された敵機から、仲上上等兵が、機関砲弾と共に、変形した?缶詰(後年、コンビーフと判る)を持ち帰り食べたことも、ありました。一班は(二瓶班長)召集兵のものばかりで、(六月一日に初年兵、大正十四年生れ、二名入隊)比治山の防空壕掘り、食事の運搬、被服兵器係、が主な任務でしたが、宮越一等兵(高等学校数学教授)とか、近衛兵、砲、工、騎兵出身者も居て、高齢者が多かった様です。週一回位の、衛兵下番の日、私は一班に行き喫煙、(特幹生は少年のため禁煙)雑談をすることが有りました。
八月になり、扶援隊(非常持出し、消防要員)として、二、三度来ていた、宇品船舶司令部へ、非常通信分隊(空襲による有線不通の場合)として派遣され、隊員六名と共に、九四式五号機を使用して、参謀富田少佐の指揮下に入り、㋹部隊、二葉山の第二総軍(杉山元師司令官)第二船舶司令部(井ノ口の物資保管所?)楽々園(戦前後の海水浴場で舟艇基地)の五所一系、勿論、乱数表による、暗号数文の交信だった筈です。
八月五日、又は四日、私は㋹部隊の佐藤正(少通同期)分隊と交替、(佐藤分隊はコ隊に帰り、被爆)六日、B29が投下した落下傘を、伝単だ、と思ったのは、前述の漫画の印象が残っていたので?ピカーッと巨大な光を壕底で感じた時も、瞬間航空写真を撮ったため、と思ったし、校庭ではマグネシュームは使用しなかったのに、と一瞬思ったりした。通信壕に急いで来られた二人の将校は、部隊長と週番士官だったろうか?
船舶司令部からは電話で、「㋹部隊は救援隊を出動され度い」と富田少佐からの指示は命令か要請だったかは不明、㋹部隊の装甲艇出動は、無線による通話では状況が不十分であるので直接偵察の要ありとの判断だったと思はれ、私としては通話が数十分も、不通だったことと併せて面目を失した感じであった。「コ隊は全滅した模様」の通報から、あの巨大な煙は、ガスタンクに爆弾か、焼夷弾が命中したのか、と思った。便乗した艇が似島に寄港した時、向い側の桟橋に着岸していた舟からは、歩行可能の負傷者が上陸しつつあったので、三月の東京空襲が想い出された。
が、宇品大桟橋に着岸した時、その想像は一変した。死体、重傷者で溢れて居り、足の踏み場もなく、その人々の上を踏み越えて通信所へ急いだ。伊藤君等二名が居て、「富田少佐は負傷出血されて居り、あの短い司令以外は何も(状況等)無かった、中村班長は猿橋三期と共に第二総軍へ行った」とのことで、たぶん無線が不通になり連絡のために行ったのでは?と思はれる。(無線が不通になる想定は全く考えられていなかった)
電車路を北上中、電線は路上に垂れ下がり、負傷者は、ぞろぞろと、宇品へ向かい、道端の防火水槽には、覗くように人々が重なり合い、死体となって、固まって居たり、幼児と共にへたり込む様に夫人が絶命しても居た。ガスタンク横で、五号機携帯者交替、爆発して居ないのが不思議で、それでは段原の弾薬庫が爆発したのでは、と思った。
御幸橋は渡れず、比治山の部隊から防空壕に入り、右折して、段原側の上に出て、二瓶班長と再会。(氏は扶援隊帰路の電車電鉄本社前で被爆の中に居て、左手を外に出していたので、手の甲だけが火傷)。二名の二期生以外の健在者は各所の収容所へ、看護の任務に出動する。比治山中腹の天幕での起居は、六日~十七日迄で、部隊本部との連絡を二瓶班長が、私たちは昼間各所を巡り、夜は幕舎へ、持帰った五号機で、サイパン放送を聞く、女性の声で、「朝鮮の人々は今こそ独立をせよ、とか、台湾の民衆は決起しなさい、と述べ、間に、支那の夜、蘇州夜曲のレコードが聴けた。」
又ある日、長崎にも原子爆弾を投下した、と報じていた。(原子爆弾、少通校で、マッチの頭で戦艦が吹飛び、マッチ箱で富士山が吹飛ぶ、と電子理論で聴講したことがあったが?)我が国の放送は、大本営発表で「特殊爆弾が・・・・・・」と繰返していた。(対日放送は短波で一般国民は受信出来なかった筈。)或る日、五歳位の男児(背中に負傷していた)を二期生が、拾って来、共に起居していた。(後日救護所へ届けた由。)十六日頃,コ隊防空壕保管の私物類を、比治山に運び、(上部の指示で)焼却をする、軍隊手帳、典範令、等々、その中で、私のアルバム一冊と、今里四期(船練で死亡)のアルバムの中から二枚を剥し保管。(遺骨と共に一枚、昭和六十二年墓参の時に一枚、ご遺族に返す。)
コ隊は校庭に於て、朝礼中、伊藤准尉は壇上で正面より、幹部を除く隊員は左後方より被爆、したがって左頭部、左側の身体、脚を火傷して居る。数日間は頭が西瓜の腐った様に右側も全部膨張し、氏名確認は出来難かった。被爆直後、主体は御幸橋を渡り、部隊(倒壊)から比治山の壕に行ったそうであるが、私は毎日市内外を巡る。先づ氏名掌握は無理でも、収容所毎の人数だけは、と思ったが、それも不可能で、結局は死亡者の確認だけになった。コ隊では、練兵休で二階の図書室で就寝していたと思はれた。外川三期他の遺骨を探したが、隣りの理科室の瓶類、硝子類の溶解が山の様で、道具も無く発見出来ず。(後年ご遺族から問合が有りあり、状態をご返事した。)
その時、井ノ口から撤収して来た高藤兵長と再会、「コールタルを混ぜた爆弾であった。(云はゆる黒い雨)」と言って居り、二人で芋を掘り出し、煮汁を飲む。(彼とはその後逢っていない)相生橋を渡り左側の小学校(本川)は鉄骨だけが残って居り、その先,己斐方面には行かず、横川は手前の鉄橋迄、それから浅野泉庭へ、家屋は倒壊し、樹木の下、池に、死体、重傷者が溢れて居り、コ隊員は居ない。広島駅には行かず、段原小学校へ、(宮川、新家、前崎曹長等は船舶練習部へ移動した由、八月十八日以後と推定)大河、丹那は坂を上り民家を探した。
仁保小学校は講堂に収容されて居り、右隅で戸川、村田三期(扶援隊の帰途電車被爆で外傷無し)君等が葡萄をガーゼで漉し汁を患者に与える。粕は自分たちが食べる。との事であった。中隊長以下主体は船舶練習部で、他部隊の被爆者も別棟に収容されて居り、遺体安置室とは扉と区切りがあっても、患者の臭いと共に悪臭に満ちて居り、誰れかが「番号といえば、一、二、三、五まで位が続き、一つ軍人は・・と云えば、第三条位、各方から称する者があり、母を呼ぶ声が時々発声され、一人、お経を一心に唱える者があった(後年山崎四期と判る)、船練では屋外の足洗場の水滴の音を頼りに這い出て、中途で絶命する者があり、朝見付けても看護者を責めることは出来なかった。
水、水は出来る限り与へるな、最期、と思はれる者には仕方ないが、と各所で言った。それは相生橋の下、浅野泉庭で見る様に、充分な水のある処、水道の漏水のある場所で、殆んど絶命している現実、又毎日下痢が続くのは、敵機が牛田の水源地に、チフス、コレラ菌を投下したからだ、と思はれたからである。(後年火傷には水を与へること、と聞いて、大変申し訳ないことをした、と思う、が、正明市には元気になった者しか、連れていかないぞ。と激励したことも、精神的な面で、民間人と比較して、コ隊の死亡率は少なかった、と思う)
似島へは宇品経由で収容されたのか、疑問であったが、(後年伊藤准尉等は御幸橋近くから舟で渡った由。)御幸橋の川上は橋桁に関止められて、百米位、廃材、遺体等々が積み重なり、川下には電線が水面に垂れ下り、遺体、衣類が十数体引掛かって居り、したがって海面からは乗船出来たと推定される。桟橋から上陸して直右側の、収容室の窓から、「空襲だー」と叫び、その朝絶命した、仲上上等兵を、舎外の防空壕に埋葬(当時数千人の火葬は不可能で殆んどが埋葬された。
後年整地の際大量の人骨が発掘され、奥の一隅に慰霊碑が建設された。)広陵中学にもコ隊員が収容されて居り、したがって確認(人員)は出来ていないが、コ隊員は、日赤を通じて大野分院へ収容された者、仁保、段原小学校、船練、似島、宇品を通じて大野へ、広陵中学、及び海田市地区へ収容された者(大島三期)知恩院(比治山の登り口横)に分散して収容されたし、健在者は無線分隊に派遣されて居た者と、扶援隊帰途中の電車内の半数位の者だったと推定される。
八月十五日朝、多量の血便が出る。一日休養の予定。が、昼頃陛下の声?で放送があり、終戦?寝ても居られず、船練と広陵へ行き、看護者へ放送があったことを告げ、患者は落胆するので言ってはならぬ、と命じる。(当時市内は停電して居りラジオを聞いた人は居ないのでは?)ところが十六日に、船練で数名の死亡騒ぎがあったと言う、行ってみると、倉敷から来援の女子工員が、患者にも敗戦のことを言ったと云う。
私は二瓶班長に「民間の女共に特幹隊員の看護は託せない。何とも腹立たしいが」と話す、二瓶氏は、部隊本部と連絡したのか?八月十八日、船練のコ隊全員を、日赤へ移動することになり、血便後も帯革を強く締めて活動していた私へ、「病院に行くのだから、ついでに指揮をして行け」とのことで、応援のトラックへ、痛がる患者を、無理でも乗せて、北三階へ運ぶ、中隊長、平林区隊長は中二階、看護者は三階踊場で起居、死体は東南角の門横で、トタン板を敷き並べ、廃材を積み、レントゲンの油?を振り掛けて焼く、も仲々良く焼けず、したがって、子供の頃の思い出、田舎の火葬場或いは炭焼き釜の如く上にトタンを覆せると、割合完全に焼骨となる、も咳仏は分り難いので、適当に採骨して封筒に収めた。
牛缶と葡萄酒は吉島飛行場の特攻隊用だったと聞いた。井ノ口へは毛布類を受領に行ったそうである。(私は病院外には行かなかった)コ隊員は前田兵長(正面被爆で視力が無く上を向いたまま)を除き、各々左後方被爆で帽子の下、左耳付近から顎、左肘より先、左膝より下、の熱傷で、右側を下にして伏せた形で、文字どおり呻吟して居たが、日赤に移動した頃は頭部の膨張も、元に戻りつつあり、チンク油(白色の軟膏)を刷毛で塗布する治療を行った。看護者も日夜を問はず大変だった。患者の給食、排便、数日毎の塗薬の交替(蛆が大量に発生して居り竹箆で落す時、患者は大変痛がった。)毛布は膿汁で、ベトベトになって居たが交換も出来ず、窓は吹飛び、病院とは云え、大量の蛆が発生し、船練と似たりよったり、と思えたが、
八月二五日の夜、中央の看護婦詰所から、レコードが聴こえて居た。「煙草屋の娘」と「逢いたいわ」と云う唄と共に、看護婦と看護者の笑い声が聴こえて居た。私は腹部が膨れて居たので、痛みに耐えて居たが、「あれは何だ!通信兵の責任を忘れたのか・・・・・・」と佐藤兵長が唸るような怒りを私に呼び掛けた。
私は剣を引抜き、看護婦も看護者も殴り、「戦いは終っては居ないぞ、正明市に行き最期の一兵まで戦うんだと叫んだ。暫らくして、医師二名が来て、「どうしたのか」と聞くので、「狂ったのでは無い。腹がこの様にあるのでいつ死んでも良いが、患者を放置して騒いで居たので叱った」と説明したら、診察をして、二人で相談して居られたが、「野戦病院では患者をずらりと並べ、一人が切開し一人が縫って行く、それでも良いか、」と聴くので、「お前たちが切らなければ俺が切っても良い」と云う(軍医だったらこの様な問答はあり得ない。民間の医者の様だった)
翌二十六日朝、卓球台の様な台に寝て、看護婦が手足を押しつけ、クレゾールで消毒しただけの、窓のない、北三階の隅で、あまりの痛さに、歯を食い縛り、十糎位開腹された瞬間、悪臭の膿汁が吹き出し、皆が一瞬、手を放す、腹内に手を入れた。(盲腸を切除して、と思った)縫合が出来ない、とかで赤色のゴム管を内にいれて、膿汁の自然流出にする、その為に、床に寝せる解にゆかず中二階のベッドに移る。(中二階は将校病棟)数日後、腹に痛みがあり腹帯を外すと、切開口、その十糎内の回りに、ピクピクと三耗位の白い、蛆が数十匹、発生して居り、ピンセットで、引張り出す、一糎位で、医師(後年大島先生で山口日赤より応援に来て居られた方で面白い先生だったとか)に聴くと「中に入り込んだ奴は窒息して死ぬから心配ない」との事だったが、数日して又、発生する、と云う状態で、親の蝿は見掛けないのに、不思議でもあった。勿も、リバノールガーゼを取替えるだけの治療ではあった。固形物が、十一月頃まで、両顎が痛くて食べられないのには困った、が(後年盲腸は切除されては居なかったのが判り、それが逆に良かったのでは、と思はれる)
その頃、外傷が無いのに、口から出血があり、脱毛したり、又体内に化膿があり、で多くの人々が死亡した(服部日赤外科部長の著書に記載)のは、結果的には、事実として、コ隊員の如く外傷から多くの膿汁流出した方が存命したと思はれる。(放射能が排出)
九月になり、北三階の内海、江畑看護婦が来て、「私たちは規律も厳格で兵士と変らぬ服務をして居る―」と抗議に来る。私は船練での軟弱な、兵隊を駄目にする女共、と云った見識が間違って居たと感じた。又或る日、外人が数人各病室を見に来たので、せめて一太刀、と思ったが、上野看護婦は、「あの人たちはスイスの中立国の方で患者の状況を見に来られて居る―」との事で、白人でも米英と区別が出来にくいと思った、その後、十月二十日、気性の荒い、鬼が島の鬼の様な豪州軍が上陸して来るので、婦女子は暴行されたり、男は去勢されたり、で不測の事態予防のために、要員外の看護婦、動ける兵隊は、帰郷するように、との指示があり、私は未完治ではあったが、綿入りの白衣姿で、看護者の江上二期、大場、原田三期、服部四期と、今里四期の遺骨と共に退院する、が鷹の橋迄約百米位で、歩けず、通行中の老婦人にお願いして、リヤカーに乗せて貰い、横川駅に着く、お礼に、食べられない私の乾パン二袋を進呈、列車は小郡迄、「夜駅前の広場で過ごし、翌日門司にて、江上君等と別れ、大場君宅へ行き、数日間、母上と姉の方から看護を受け、郷里の八女郡へ帰る。
母は、広島で毒を飲んだので、と云い、朝昼晩「毒だみ」を煎じて無理に飲ませる。(毒だみは多くの被爆者が有効だったと言っている)十一月中旬になると、切開傷、蛆跡も殆んど閉鎖し、食事も、お粥になった。が全身の倦怠、無力感(広島ではブラブラ病と称された由)は仲々完治せず、したがって農作業の手伝いも、九州電力への復職も不可能で、それに加えて脱毛防止?のポマード使用が―
翌年三月、父が「村の人々はお前のことを油虫(ゴキブリ)のようだと言っている」
私は肉親にも理解されない、怒りに逆上して飛び出すようにして家を出る。(都市は食糧難でも、眼中になかった)村田三期の紹介で、東芝門司工場変電室に就職、九月工場閉鎖、十二月、広島三菱造船就職、咽頭炎、肺侵潤、腫瘍、二十四年十月「当社で被爆したのであれば会社に責任があるけれども、大変気の毒ではあるが―」の職長の話しは、退職の理由ではあったが―昭和四十年、私は匿名で「被爆者を救援せよ」と新聞に投書を重ねた。
広島に居住した(昭和二十五年三月迄)間、通院以外にも日赤北三階より屋上に登ることもあった。二十三年には、大場君のケロイド整形手術入院をお願いしたこともあった。
門司に定住してからも、度々広島を訪れたが、被爆者の会事務局を担当してからは、原水禁大会に出席すると共に、被爆者と共に、市内の証人を探し訪ねたり、日赤事務長氏には当時の看護婦名簿の照合をお願いしたこともあり、四十五年には当時のカルテの所在を調査して貰い(柳井市の国立保養所に保管)コピーを取寄せた。(虫様突起炎切除、十月二十日帰郷のため退院と記述あり)
その頃、若松区の薬剤師会長である、古賀哲弥氏が、コ隊の名付中隊長であったことが判り、被爆者の会長に就任して貰い、私と共に、懸命の活動を行ない、昭和五十一年には、地方自治体としては初の?二世検診を実現したが、(五十二年の総会で、会長と私は退任、五十三年の総会は流会となり、以来北九州市の会は分裂状態)以来個人的に、被爆者の相談に応じて、手帳の取得等々。
昭和六十年八月六日、松本さん(当時の看護婦)を訪れ、大場君の在広を知り、千田町小学校を訪れ、コ隊慰霊碑の建立を知る。続いて爆死名簿から、少通同期の所在等々を。
現在少通十一期コ隊八名中、高藤、佐藤、近藤喜作、近藤馨、山口六名は他界し、前田所在不明、大峰、と私が存命中である。
追記
私共八名は少通十一期生出身であり通信教育訓練、指導教官を目的として第一六七一〇部隊コ隊に配属された。
〒七八二 高知県香美郡土佐山田町北本町□□□□□□□
大峰 元 君にも連絡して下さい。
中島 睦男
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