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私と私の生家の原子爆弾体験記録 
永原 誠(ながはら まこと) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1998年 
被爆場所 広島高等学校(広島市皆実町三丁目[現:広島市南区翠一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島高等学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私の生家は一九四五年八月六日まで、広島市鉄砲町四六番地の三にあった。広島城に近く、泉邸の南手のもともとは武家屋敷だった住宅地域の一角で、広島女学院の西門と向かい合っており、昼間には音楽教室からトルコ行進曲など、ピアノの練習曲の物憂いメロディーが届いたりしていた。裏には広島税務署の印刷所があって、活版印刷機の騒音が絶えなかったが、「中井の籔」と呼ばれた広い茂みや女学院のポプラの立つ校庭、いちじく、びわ、ざくろほかの果樹が塀ごしに見えるあちこちの家の庭など、ひろい空間が残っていたので、一帯の閑静を破るほどのものではなかった。しかし戦争の敗色がつよまるにつれ、一九四五年に入ったあたりから疎開のための転居で、たしか十一軒あったかと記憶している隣組にも空き家が目立つようになっていた。

私は八人家族の長男として育った。家族は両親と五人の子供、それに私が生まれる前から父親が引き取っていた彼の長姉、身よりのない不幸な老女から成っていた。父敏夫は四五年当時四九歳、広島高等師範学校の英語科教授の身分だったが、その前年から学校が受け入れていた南方特別留学生のための寮の「学監」を仰せつかり、万代橋東袂に近い興南寮で留学生たちと起居をともにしていたので、めったに家に戻ることがなかった。母の嘉子は三十九歳、子供は上から順に私(十七歳)、裕(十五歳)、信子(十二歳)、珠子(九歳)、道子(五歳)、父の姉石川さきは石川のおばあちゃんと呼ばれていたが、明治五年生まれの七三歳であった。原爆投下の日、広島高師付属小学校四年の珠子は集団児童疎開で比婆郡西条の全政(ぜんしょう)寺に起居し、道子も石川伯母と東志和村上尾の縁者米光(よねみつ)家に疎開していたので、広島に在住していたのは残りの五人である。

広島高等学校文科二年生であった私は、六日当日、爆心の東南二・五キロメートルの学校に登校して約二〇分後に被爆した。北校舎の南際の芝生のうえで、担任の中原与茂九郎教授による氏名点呼を受けている最中に、突如目の前に広がる夏空、講堂、南校舎、地面のすべてが異様な色に染まった。赤、黄、橙、青、緑のどの色でもあるように見えてどの色ともいえない、まことに不思議な色であった。まるで何百万のカメラのフラッシュが一度に光ったような、という形容が瞬間的に頭をかすめたのを忘れない。横一列で点呼に参加していた十名余の級友と、いっせいに二、三歩後退したとき、灰色の雲霧をともなって衝撃波が足をすくい、私たちはその場にかねて教えられた要領で伏せた。目を四指で、耳の穴を親指でかたく押さえながら、体を芝草の地面に押しつけているあいだ、すぐ背後の北校舎がけたたましい音を立てて大破するのが聞こえていた。その間に一度、片目を開けて見たが、五センチメートルばかり前の黒灰色に染まった芝の一葉がちりちり揺れているのを目にした以外、視界はゼロに等しく、あわててまた指で目を覆った。数分たって、視野がやや開けてきたので、全員いっせいに南方の学校グランドに作られた防空壕まで走って退避し、一〇分ばかりそこで息をひそめていた。あまりに静かな外の気配に壕から出てみると、空は嘘のように晴れ上がっていたが、グランド南の民家の並びは申し合わせたように西方向に三十度ばかりも傾き、空には原子雲がむくむくと膨れあがりながら発達中で、頭上までのしかかってこんばかりの真っ白な入道雲様雲塊のあちこちの窪みには、箇所によって異なる緑、紫、橙、黄、桃色などの色がぽっ、ぽっと現れてはたちまち消える、なんとも不気味な眺めであった。

私も級友も、校舎が防壁となって熱線に曝らされず、倒壊物による打撲もなしにすんだので、肉体的被害を免れた。爆発にともなう大火災も学校までは届かなかった。私はずっと広島の中心部に九月中旬まで滞在して、中島本町の親戚高橋写真館の焼け跡に八月八日ごろ訪れて遺骨の捜索をするなど、市中を動きまわっていたので、二次被爆までしているのは確実だが、放射線による障害も幸いほとんどなしにすんだようである。深刻な被害を体験したのは、ほかの四人の家族である。

敏夫はマレーシア学生ニック・ユゾフと午前八時前に寮を離れ、学校に向かって元安川沿いの道を学校に向かっていた。原子爆弾破裂の瞬間には、爆心から七ないし八〇〇メートルの距離にいたと思われる。熱線の直射を受け、爆風波によってなにかに叩き付けられて負傷した。ユゾフともども血まみれになり、肩を抱き合って学校目指して歩いていたのを、学校から寮の救援に向かっていたマレーシア学生アブドゥル・ラザクによって目撃されている。「われわれは大丈夫だ、それより寮に行ってみてくれ」とラザクにいったよしである。そのあと二人は己斐方向に脱出をはかったが、敏夫は力尽きて明治橋上で倒れ、一斉炎上の火に焼かれて、学校の捜索隊によって翌日に収容されたときは、手足は付け根から消失し、性別も人相もわからぬ、焼け棒杭さながらの死体と変わっていた。たまたまうつぶせになって倒れたので、バンドのバックルのみ焼失を免れて死体に付着しており、これによって敏夫と確認された(このバックルは原爆資料として、京都市立命館大学平和ミュージアムに収蔵されている)。死体は学校の手で九日、構内の一隅(当時の付属国民学校北裏の空き地)で、ほかの爆死教職員の遺体とともに荼毘に付された。ちなみにユゾフはひとまず楽々園まで逃れることが出来たが、翌日急性原爆症によって死亡している。墓は五日市の光禅寺にあると聞く。

敏夫に次ぐ近距離で被爆したのは信子である。爆心から九〇〇メートル前後か。山中高等女学校一年生の彼女は、一週間の予定で動員された建物疎開作業の初日に当たり、雑魚場町の現場で、すでに取り壊されていた家屋の瓦を胸にかかえて運んでいる最中に被爆した。正面から熱線を浴びて前半身を火傷し、明治橋近くの川土手に逃げて救援を待った。やがて一斉炎上の火が迫ると川に入り、一時は炎が川面を嘗めるまでになったので、「その時は川のなかにもぐって、時々鼻だけ出して息をしてはまたもぐり、五分ほどそうしていた」そうである。暁部隊の舟艇によって昼過ぎに拾われ、似島の検疫所に収容された。一切のコミュニケーション手段が破壊された広島では、身内の所在を知るには足ひとつに頼って行方を探すほかなく、信子の消息も不明のままで数日を過ごしていたが、たまたま九日午後、敏夫の火葬に母親と立ち会ったあと、私だけ当てもなく宇品港まで足を伸ばしたとき、港の入り口に、「似島に収容しある患者」約二〇〇の氏名を墨書した掲示に信子の名を発見して、陸軍のはしけに便乗して渡島し、彼女と再会することができた。似島は一万を越える被災者を抱えることになり、阿鼻叫喚の様相を呈したといわれているが、もっとも初期に入島したひとりとして検疫所構内の兵舎に収容された故か、信子は板敷きの高床に隣りの患者と一メートル強のゆとりある間隔を隔てて、藁むしろのうえにきちんと横臥しており、枕もとに齧りかけの大豆入りむすび一個を入れた皿も置かれていた。検疫所全体が、秩序立って静かな雰囲気だったと記憶している。顔は真っ黒に焼けただれ、汚れて焼け焦げたもんぺと白シャツを着たままの見るも無残な姿であったが、「おにいちゃん」と声をかけてき、意識はまったく明瞭であった。上記の爆撃直後の彼女の行動も、このときに聞き取ったものである。中途で係りの軍医に挨拶に訪れると、「かなり重い症状だから、お母さんが元気でいらっしゃるなら、付き添いに連れておいでなさい」といわれたので、明日母と再訪することを彼女に約して、一時間ほどで島を去った。別れしな、わたしをじっと見ていた信子の澄んだ目の表情がいまだに忘れられない。

母の嘉子はひとりで鉄砲町の宅にいた。爆心から一・一キロメートルの地点である。彼女が台所口から一歩出て、下駄履きで腰をかがめ、手箒でそのあたりを掃除している最中に原爆が爆発した。熱線は母屋によって遮蔽され、その母屋は次の瞬間につぶれたが、外にいたので圧死を免れ、納屋が倒れてきて出来た三角形の密室空間にすっぽりはまるかたちになって、かすり傷ひとつ負わなかった。「真っ暗ななかで無我夢中でもがいていたら、さいわいすぐに外に出られたが、あたりはまるで瓦の海じゃったんよ。その海のあちこちから、たちまち火の手があがったので、泉邸に逃げ、そこも火がまわってきて、また〔白島の川洲まで〕逃げた」とあとで私に語っていた。正午前に下校を許可された私は、午後三時半ころに、饒津神社西の太田川対岸にあるその川洲で彼女と再会したのだが、そのとき嘉子は腰に両手をあてがった姿勢で、ただ呆然と水際に立ち尽くしていた。この川洲には、まもなく黒い雨がぱらぱらと降った。かつて未見の大粒の雨滴で、ゆっくりと落ちてくると、まるでコップいっぱいの溶けたアスファルトを投げ付けたように、黒いしみが差し渡し数センチの円形を砂上にぺたりと描いた。「さっきはこれが土砂降りしたんよ」と彼女はいった。小さな印刷店を営業していた同じ隣組の石仏(いしぼとけ)家「石仏のおばさん」がそこに居合わせたが、大きなカボチャ大に腫れて膨らんだ顔を川水に映して、「ああ、ああ、こんな顔になってしもうて」と大きな声で嘆いていたのを憶えている。私たち両人は、四時半過ぎに白島の土手に上がり、土手沿いにかねて避難先として指定されていた緑井の国民学校まで逃げた。西に進むにつれ、土手の斜面には無数の半裸体の兵士たちが座ったり横たわったりしており、なんども「学生さーん、水くださーい」と元気の失せた声をかけられた。携えていた水筒は、たちまち空になった。そこから緑井までどの経路を辿ったのか、いまでは記憶を失っているが、その夜は避難者たちでごったがえす学校の体育館倉庫内で、藁束の山のうえに寝た。おびただしい蚊でよく眠れなかった一夜であった。

嘉子は翌日以後も、一見したところ元気であった。七日には私とふたり、牛田の塚部家(敏夫の教え子)の大破したお宅を訪問して、ご好意によりしばらくの仮寓先とすることを得、八日にようやく火災の収まった市中に入って鉄砲町の自宅跡に立ち、後述裕が板切れに書き残していたメッセージによって、彼の生存を確認した。敏夫の骨を受け取って塚部家に戻った九日の翌日から八日間、嘉子は私といっしょに全精力を信子の再捜索に費やす。十日早朝、宇品港まで連れ立って徒歩で到着してみると、新しい掲示が張り出されており、似島の「収容患者は再度の空襲のおそれあるにつき、広島湾岸一帯に疎開せしめたり」とあったのである。委細を知ろうと渡島を願い出たが、似島への渡航はいっさい禁止されていると申し渡され、やむなく嘉子と私は呉の手前の天應を手始めに、広島湾西端の大竹まで、部分的に動きはじめていた汽車を乗り継ぎながら、湾岸の収容所という収容所を連日尋ねてまわり、学校や寺を転用した施設で呻吟する被災者の群のなかに信子を発見しようとしたが徒労に終わった。金もなく、食料は随所で配られていた炊き出しのむすびに頼るだけの捜索行であった。精魂尽きて十七日にいったん塚部家に引き揚げた翌十八日の午後、信子死亡の報が届いた。信子は似島にとどまったまま、母が来るのを待っていたのである。私が彼女と九日に面接した際、彼女の隣に収容されていた別の女学校の被爆生徒には、いち早く母堂が来島して看護しておられたので、去りしなに塚部家の住所を残しておいたところ、この方が信子の死去に立ち会って、その死にざまを紙片に記し、遺髪を添えて、所用で広島に出かける知人に託されたのであった。小さな紙片には、信子が「我慢強いお嬢さまで、けなげにひとりで耐えておられましたが、お母さまをひそかに心待ちされておられた様子でした」と書かれていた。

嘉子は八月二四日消印の東志和村石川さき宛はがきに、「姉上様、信子はとうとう亡くなりました。去る一七日似ノ島の病院で死にました。(中略)重体なのでやはり残されて居ったのでせう。どんなにか母を待ち母の来ぬのを恨みつつ死んだかと思へば知らなかったとは云ひ乍らすまない思ひに堪えず晝間はさほどにないですが夜床に入れば先づあの子の顔が目に浮び涙が出てたまりませぬ」と書いている。ちなみに信子は、一度石川さき宛にはがきを似島から書き送ったらしく、さきが八月二四日消印で嘉子の実父森繁夫(大阪府八尾市在)に書いたはがきには、「信子も一昨日当地へ母さん早く来て下さい、歩くことも出来ず丸はだかですから早く早くと十五日の日附のをよこしました」とある。この利発だった妹との約束を果たせなかったことは、私の心深くに突き刺さった棘となって今なお疼きを覚えさせている。

裕は広島高師付属中学校の四年生で、特別科学学級に属し、爆心より一・三キロメートル見当にあった校舎の二階教室で授業を受けていた。建物は瞬時に倒壊して、教室の真下の教官室では居合わせた教員三人が圧死し、教室でも生徒一人の死者が出たが、裕は運よく無傷であった。しかしまもなく、軽度の原爆症状に見舞われている。七日に自宅跡に立ち寄って無事であるむねの伝言を板切れに書き残したあと、東志和村に赴いて、そこで静養につとめた。信子の死を知って後ほどなくして、嘉子と私が段原日ノ出町の親戚小川家に居を移したとき、裕も再入市してこれに合した。小川家は比治山の東陰にあり、平屋の屋根がふっとぶ大破状態にあったが、焼失は免れていたのである。嘉子の実家は上記のように八尾にあり(大阪空襲で大阪市粉浜の邸宅が焼かれた疎開先)、また末子であった敏夫の永原本家(敏夫長兄が当主)も枚方市に居を移していた(これも大阪空襲で焼け出されて)ので、今後のことを相談すべく連絡につとめたが、当時の郵便や交通の事情の悪化のため、八月が終わっても大阪からの救援が途絶したままでいるうち、九月一日、嘉子は突然高熱を発して、人事不省におちいった。皮膚に紫色の斑点があらわれ、歯茎から出血するなど、典型的な急性白血症であった。一キロメートルあまりのところに広島被服廠があり、旧軍医が収容者たちの診療に当たっていると聞いて、私が翌日出かけて往診を懇請したが、数百の患者を医者ひとり、看護婦ひとりで手当てしているのでとても、と断られ、諦めて帰宅したところ、その日の深更になって、「こんばんは」と来訪されたのが自転車に乗った当の旧軍医の方であった。往診鞄から聴診器を取り出してひととおり診察されたあと、嘉子の皮膚の斑点を目にとめると、「ああ、これだ。これでうちの収容所でもばたばた倒れています。なにか新種の、伝染性の敗血症だと思うけど」といいながら、出血患部にヨードチンキを塗り、ビタミン注射を打ったあと、「申しわけありません。薬も切れかけているので、私に出来ることはここまでです」と詫びて辞去されたが、昼夜を問わぬ診療活動の合間にわざわざ足を運んでいただいたこの方には、今でも無量の敬意と感謝の念を抱いている。なるべく栄養の高い食べ物を上げてください、ということだったので、裕が工夫した仕掛けでとらえた鼠の肉をスープにしたり、近所の畑のトマトを無断で失敬してジュースを絞ったりして与えようとしたが、嘉子は受け付けず、人事不省のまま四日後に黙ってこと切れた。

嘉子の遺体は、小川家の老夫婦からの助力を得て、息子ふたりの手で火葬に付した。猿猴川のずっと下流、人家から離れた川岸まで大八車で嘉子を運び、穴を掘って、手に入ったわずかな量の古新聞紙と枝切れの類で焼き尽くすことにつとめたが、九月に入って以来降り続いていた秋雨のなか、作業ははかどらず、なかば土葬という結果に終わった。裕は最近、「亡き母は/四十路も知らず/広島忌」と句にうたっている。私自身が古希に達した現在から振り返って、あまりにも不条理な早逝であった。

このあと、私は東志和に出かけて石川伯母と道子を引き取り、三次の学童疎開先の寺から珠子を連れ戻したあと(私が行った時、寺には三人か四人ばかりの児童しか残っていなかったが、たぶん迎えにくる親を失っていたのだろうこの数人が、しょんぼりと本堂正面の縁に肩を寄せ合って腰掛けていた情景は、今でも脳裏に焼き付いている)、九月中旬のかかりにやっと来広を果たせた本家当主の幹彦伯父の引率で、枚方市出屋敷在の伯父の家に一家で引き取られることになった。山陽本線の汽車は、車窓から乗り降りしたほどの超満員で、用便も意のままにならない旅であった。わが一家の最後の死者は道子である。疎開先の農村で比較的にゆたかな食生活を送っていた彼女は、広島ついで枚方の劣悪な都市部食料事情に適応できず、枚方に落ち着いてまもなく疫痢にかかって、九月一九日にわずか五年の短い生涯を閉じる。私だけは母方の森家に世話になることになったので、彼女の死の数日前に枚方を去った際、虫が知らせたか私を後から追っかけて来、「誠にいちゃん」と遠くから叫んだ声が道子との別れとなった。私はこのいちばん下の妹も、原爆死者のひとりに数えることにしている。

私と私の生家の原子爆弾体験は、ざっと以上のとおりである。原爆による被害が、とりわけ放射線の破壊的効果をともなうことによって、たとえ爆発そのものによる死を免れても、いつまでも被爆者につきまとって苦しめるものであることを、わが一家の体験は如実に示している。原爆の体験者として、原子核分裂のエネルギーが二度と兵器として用いられてはならないこと、人類を核戦争の脅威から解放する唯一の道が一切の核兵器の早期の廃絶にあることを、声を大にして訴えたい。ちなみに裕はやがて建築設計士となったが、中年に入ってから、原爆に基づく疾病として国が認定している白内障をわずらい、最近これの悪化と緑内障併発とにより、ほぼ視力を喪失するにいたっていることを付記しておく。

私たち八人は、死者も生存者も、これらの不幸や苦痛にたいしてどんな謝罪のことばも受け取っていない。広島と長崎の惨禍に帰結した無謀な戦争の張本人である日本国家も、直接原爆を行使したアメリカ合衆国政府も、これまでそれぞれの責任を認めることを拒否している。しかしわが家の三人、道子を加えるなら四人の家族の死は、両国家が率直にその罪を詫び、核兵器廃絶に向かって真剣な一歩を踏み出すまでは無意味の死にとどまりつづけるであろう。幸運に生き延びた者のひとりとして、両親と妹の死を意味あらしめるために、命ある限り核兵器のない世界の実現を主張しつづけることにしたい。
(一九九八年八月)


  

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