子の被爆記録
私が旧制佐賀高等学校(文科)に入学したのは終戦も間近の昭和十九年四月のことであったが、その年の暮の十二月には早くも学徒動員令がくだり、私共は長崎の三菱兵器製作所に行く事になった。兵器製作所の西郷寮は徴用工や動員学徒を収容するために急造された二階建のバラックで、居間はだだっ広い二十畳位の部屋、寝室は二段になった蚕棚の部屋であった。風呂もあるにはあったが月に二回程度で、工場で汗と油にまみれた人達が一度に入るのだから、すこし遅れて行こうものなら垢と油で下水のようになった湯に入るハメになる。しかも多くの人が一度に浴槽につかるのだから、人と人との間にどす黒い湯がチョロチョロ這いまわっているという感じで、それに得も知れぬ悪臭が漂っている。そんな具合だからみんな不潔になり虱が湧く。毎晩寝る前に虱退治をしないと痒くて寝つかれない。毎日工場から帰るとみんなで蚕棚の寝室の上に一列にならんで、虱とりに励んだ。肌着の縫目に沿って一筋に並んでいる虱を二本の指の爪で挟んでプチッと潰すと、中からドス黒い血が吹き出してくる。
この工場は海軍の管理工場になっていて、所長は海軍中将、所内のところどころに銃剣をつけた水兵が監視していた。作っていたのは空中魚雷で、開戦当初マレー沖でイギリス東洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを仕止めたのは、この工場で作ったものだ、ということだった。私の仕事は材料置場の倉庫番みたいなものだったので仕事自体は大したことはなかったが、何分にも戦争末期のことで食事は極端に悪く、朝晩は海草で作ったパンか脱脂大豆で固めたご飯、昼は小さい乾パンが十二、三個という有様だったから、みな体調をくずし、私も動員されてから半年ばかりした昭和二十年の七月頃、当時両親が疎開していた出雲の家に栄養補給に帰ったことがある。だが何時までもそこに止っているわけにもいかなくて一週間ばかりで再び動員先の長崎の工場に戻ったが、体調がまだ充分でないという理由で工場の寮の留守番役に替えて貰った。留守番役というのは部屋の掃除をしたり、食券を配ったり、煙草の配給を一括して受けてきて、それを皆に分配するといった軽労働である。(当時は驚いたことに我々未成年者にも公然と煙草の配給があった)
そうしたある日、いままでほとんど空襲らしきものを受けなかった長崎の空に、二度三度と敵機がやって来るようになった。それも二、三機で来てはビラを撒いたり偵察をしたりしている様子であった。そのビラには「即刻都市から退去せよ」と書いてある、という噂がどこからともなく耳に入って来た。
いよいよ八月九日のことになるのだが、その日私はだだっ広い居間の方で夜勤明けの友人二人と三人で寝ころんでいた。夏の真盛りのことだから三人とも越中フンドシ一つで寝ていた。その間警戒警報が出たり解除になったりしていたが、今までにもよくあったことなのであまり気にしていなかった。その時突然、鈍い爆音がどこからともなく聞えて来た。私の右側に寝ていた友人が「なにか来たぞう」と言いながら、窓から外をのぞいたようだった。その途端である。私の目の前にサーッと黄色い幅広の光線が走った。それと共にジーッと音を立てて頭髪が焦げるような音がした。それが原爆炸裂の瞬間であった。私は思わず立ちあがり隣の寝室に行って衣服を着ようとしたが、気があせってとても着るどころではない。ともかくもこの場を去らなければという思いで戸を開けてみて驚いた。私共は二階にいたのだがそれが落ちて一階になっている。外へとび出してみてまた驚いた。一階にいた佐賀商業の生徒達が圧し潰されて「助けてくれ」とわめいている。だが私は彼等を見捨てた。この罪悪感はその後長く私につきまとう。なぜ何とかして救い出そうとしなかったのか。なんとか出来たのではなかったか。ともかくも私は逃げた。必死の思いで逃げた。やっと土手の上に這いあがりホッと一息ついた頃、「ガーン」という大音響と共に建物がくずれ落ち、下から火を吹き出してあっという間に灰燼と化してしまった。私の側でそれを眺めていた人達は誰も彼も、男も女も半裸の姿である。そして両手をダラリと垂れている。よく「原爆の図」などで幽鬼と思しき人達が描かれているが、あれと全く同じである。私は一人離れて大きな木の陰にへたりこんだ。と同時にいままで張りつめていた気持ちが一気に緩んで、強い恐怖に襲われ身体がガクガクと震え出した。このままここに座り込んでいたら確実に死ぬ。何とかしなければ、という思いでヨタヨタと歩き出した。フト足許を見ると幼児の真っ黒焦げの死体が転っている。それを見てもこちらの頭も気が転倒しているから「ほう、転っているな」という鈍い感じしかしない。やっと長崎本線の土手のところまで歩いて来てしゃがみこんだ。フト見ると目の前にタンスが一棹、焼け残っている。そのそばには牛が一匹つながれてこちらを見ている。一面焼け野原で人の子一人いない荒野のような光景の中での異様な対面であった。私は素足素裸で何も身につけていなかった。それに原爆の影響からか、いままで晴れて輝いていた日の光が、ちょうど日蝕の時のように弱々しくなって肌寒くなって来たので、何か着るものはないかとタンスの抽出しを開けた。中には反物がぎっしりとつまっている。それを一つ失敬して体にグルグルと巻きつけた。そしてまた線路の土手にしゃがんでいた。するとそこへ線路伝いに救護班らしき人がメガホンで「道の尾から列車が出るぞう」と叫んでやって来た。そうか道の尾まで行けば汽車に乗れるのか、それじゃともかくも道の尾まで行こうと思い線路沿いに歩き出した。原爆の熱というのは強烈なものらしく、線路の枕木からところどころ火を吹いている。線路の脇のところを歩いていけばよいのだが、溝や小川を線路がまたいでいるところはどうしてもその火を吹いた枕木の上を歩かねばならぬ。素足なのでところどころ足の裏をヤケドした。それに私は頭に大きな傷を負っていた。どうして受けた傷か皆目見当がつかないのであるが、右の後頭部が直径二センチ位の範囲で陥没して、そこから血が大量に流れ出してくるのである。フンドシをはずしてそれで頭をきつくしめて血が流れてくるのを防いでいたのだが、それでも滴り落ちる血で次第に私は貧血状態になり、歩いているうちに意識がモウロウとして来た。それで危うく倒れそうになった時にすれちがいにやって来た人か、後からつけて来た人かわからないのであるが、「おっと危ない」と言って私に手を貸してくれて、原爆負傷者が大勢たむろしている照円寺という寺の前の広場の大きな木の下に寝かせてくれたのである。木陰に横たわってしばらくじっとしていたらまた頭に血がのぼって来たと見えて薄っすらと目が見えるようになった。そうこうするうちに「速水、速水、速水はおらんか!!」と呼ぶ声がすぐ頭上で聞えた。私の友人達が行方不明になった私を探しに来ているのである。「オーイ」と声をかけると、二、三人が駆けよって来て、担架に乗せて私を救援列車に運びこんでくれた。その貨車の中は呻き声と何ともつかぬ臭いで充満していた。すでに日は落ちてとっぷりと夜の闇に包まれた中を救援列車は北へ北へと大村湾に沿って佐世保の方へ走っていく。途中の町々で少しづつ負傷者を降しながらゆるゆると進んで行くのである。私は千綿という小さい古くからの宿場町で降された。国防婦人会の白いタスキをかけた人達や警防団の男の人達が駅に出て、私達六人を担架に乗せて丘の上の小学校の裁縫室に運びこんだ。一緒に降された六人の中には全身にガラスの破片がささった中年の女性、真黒に焼け爛れて腹部が異常に脹れた長崎医大の学生などがいた。千綿というのは小さい町なので医者も一人いるだけで、それに戦争中のこととて薬も充分でなく、市販の膏薬を白い布に塗って胸のヤケドのところにはりつける。はる時にはよいのだが、翌日それをはがして交換するときはまるで生身を剥がされるような苦しみであった。ここに三晩いるうちに六人の中の二人が死んだ。四人になって我々はまた担架に乗せられて駅まで運ばれ、この町より十キロほど北にある川棚というところへ移された。この町には海軍病院もあるが、ここはすでに原爆の負傷者で一杯で私たちは町中の常楽寺という寺に運びこまれることになった。川棚の駅からその寺まではかなりの距離があった。もうすっかり日は暮れていた。担架に乗せられて運ばれる私共の真上には、満天の星が輝いていた。この星を見ている中に何か宇宙の神秘に吸いこまれるような不思議な開放感に襲われたことを覚えている。救護所に充てられた寺の本堂の中もまた地獄であった。朝鮮の人がかなりいるようで、「アイゴー」「アイゴー」と叫びながら本堂の中を転げまわっている。また本堂の手すりの欄干にもたれて悄然としている人もいる。ようやくここにきて包帯をしてもらったが、包帯の中に蝿が卵を生みつけるらしく蛆が湧き出してくる。
この本堂で始めて名前と住所を聞かれた。それで連絡がいったのか、ちょうどその川棚にある軍需工場に佐高から派遣されていた私より一年後輩の、やはり私と同じ長崎の瓊浦中学出の人が二人、私を介抱しに来てくれた。その人達の口から始めて日本の敗戦を知ったが、あまり感慨も湧かなかった。空虚な心でそれを聞いた。学校からの報せでそれから二日ほどして両親もこの寺に駆けつけて来た。
両親が来たその日のことであった。海軍病院のベッドにようやく空が出来て私共も病院に入れてもらえることになった。そうして何日か経ったある日のことである。私につき添っていた母の様子が何だかおかしい。ひどくショックを受けた様子で、その顔は半分泣いているようであった。後でわかった事だが、担当の医者から白血球の減少が限界点を大きく割っていて、この子はとても助かるまい、と宣告されたからであった。それからがまた大変であった。太いリンゲルの針を両ももに突き刺される日々が続いた。その痛さといったらなかった。結局これは白血球の数値の計かり間違いということが判明し、リンゲル地獄から解放されてホッとした。しかしまだ頭の傷が残っている。ある日、佐高の先輩だという若い軍医がやって来て「お前こんなことをしていると取返しのつかぬことになるぞ。俺がよく消毒してやるから我慢しろ」と言って、私の頭の傷の中にメスをつっこんでかきまわしていたようであったが、頭にはあまり神経が来ていないらしくさほど痛さを感じなかったが、そのあとで「これでいいと思うが、四十位になったら頭がおかしくなるかも知れん」と捨てゼリフらしきものを残して出て行ったのである。この「捨てゼリフ」がその後長く私を悩した。
とにもかくにも原爆は私の一生に大きな爪あとを残した。あの日、見た一面の焼け野原、燃えさかる巨大な火の玉のような炎、あたり一面に立ちこめる死臭に似た異様な臭い、これらは私の脳裡に深く刻まれ、五体にしみついている。それからいろいろなものに出逢った。もがき苦しみ助けを求めて叫んでいる佐賀商業の生徒達を見捨てた私、意識を失いかけた私をそって支えてくれたあの手、足許に転っていたまっ黒こげの幼児の死体、一面の焼け野原の中に一匹だけつながれていたあの牛の顔、川棚に運ばれる担架の上で仰向けになった私の全身にそそがれた満天の星の輝き、それから数しれぬ多くの人々から受けた厚情。また奇蹟も多かった。寒気を感じて鉄道線路の土手にしゃがみこんだ私のすぐ目の前に、お誂えむきに反物がぎっしりはいったタンスが置かれていたこと。それにあの牛はいったい何だったのだろう。タンスもそうだがあの一面の焼け野原の中でよくも生きて立っていたものだ。あるいは私の幻覚であったのか。それに鉄道線路を歩いている中に意識を失いかけた私を「あの手」が支えてくれなかったとしたら、私はおそらく線路ぞいの溝にでも落ちこんでそのままになったにちがいない。また友人の叫ぶ声がちょうど私の頭上で聞えたということも不思議といえば不思議である。もう少し距離が離れていて、意識がもうろうとしていた私がそれに気付けなかったらどうなっていたであろう。あれこれ考えると、奇蹟と奇蹟とが結びあって今の私が存在している、そんな気持ちにさせられるのである。
母の記録
母のこの記録は母が八十五才で倒れて寝つく、そのすこし前に書き残した遺筆に近いものである。母は私が昭和二十年八月九日長崎で原爆にあい重傷だという電報を終戦の翌日の八月十六日に受け取り、夫と共に終戦直後の混乱を極めた列車を乗り継いで、当時被爆した私が収容されていた川棚の常楽寺という寺まで来てくれた。母は生来病弱であった。その母がそれこそ死力を尽くして車を乗りついで川棚までたどりつき、私を看病した様子が克明に誌されている。母はこの体験を生きているうちに書き残しておきたいと思ったのだろう。
「令息出勤先において被爆、重傷の見込」という電報を私共が佐高から受け取りましたのは、昭和二十年八月十六日の朝、終戦の翌日でございました。私の三男の能人は当時旧制佐賀高等学校文科二年生で、長崎三菱兵器製作所へ学徒動員で派遣されておりました。九日に長崎に原爆が落されたというニュースを聞きました時、私は直ちに長崎へ飛んで行きたいと思いましたが、家には東京から戦禍を避けて疎開して来たばかりの私の両親や、勤務先から一時帰っておりました夫がおりまして、なかなか許してくれません。「この混乱の中を女の身で」と言うのです。そこにこの電報です。私は兵器工場にいて無事な筈はないと思っていましたから驚きませんでしたが、両親はオロオロして「自分達はここでご近所の方々と暮しているから、早く能坊のところへ行っておやり」と申します。それではというので、もう手廻りのものも早くから整えていましたからすぐにでも出立しようとしますと、夫も一緒に行くと申します。九州にはもう敵軍が上陸しているという噂だからというのです。思った通り駅はもう大変な人でひしめき合って居りました。乗車券など持たない人なんかでも先を争って車に乗り込み、とても二人一緒になどは乗れるものではありません。「下関で逢いましょう」と私は夫に声をかけて、ちょっとの隙間を見つけて飛び乗りました。
ところがそこは貨車だったのです。無理に入り込んだ私を見て、中にいた駅員が「どこへ行くんだ」と申します。私はもう必死になって「九州まで、アノ長崎まで」と申しますと、黙って頷きました。「ではここにかくれるんだぞ。ここは人は入れないから首を出すんじゃないぞ」と言って荷物の蔭へ入れてくれました。私は感謝してかくれました。荷物の間から覗くと外の海が見えました。見るも無残な山陰の海。あちらにもこちらにも撃沈された船が船体を半分海の中に沈めて無惨な有様です。寒々とした敗戦の風景は胸迫る思いです。そして列車が駅に着く度に乗車しようとする人とそれを拒む人でもみ合い、女や子供の泣き声で悲惨な有様です。荷物の蔭から私はじっと天井を見つめ残して来た父母のこと、これから行く長崎の能人の容態のことを思いました。重傷と言ってどこを傷つけられたのだろうか、生命に別条はないのだろうか、あゝ早く行きたい、夫はどうしただろう、この列車に乗っていると思うのだが無事であろうか、あゝ神様と祈りを捧げますと、私の胸の中に何処からか「大丈夫だよ」というお声が聞えて来るような気が致します。それは私が家を出る時から聞えて来ていたお声でした。「大丈夫だ、早く行きなさい、きっと助かっている」と言うのです。
下関で夫と逢って長崎本線の列車に乗りました。ここまで来ますともう原爆の噂は大変なものでした。山の形まで変ってしまっているとか、血だらけの人が逃げのびて来たとか、口々に長崎の噂をしています。「私は長崎で子供が怪我をしたと言うので行くのですが」と私が申しますと、人々は驚いて「なに、学校から通知が来たって。それでは学校へ先にいらっしゃい。いま長崎へ行ってもとても探せるものではありませんよ。佐高へ行って電報を打たれた先生に確かめられる方が行先がわかりましょう」と申されるのです。おゝ確かにそうだ。私共はこんなことさえうっかりする程うろたえていたのか、と思っていると、かたわらの夫が何だか急に気分が悪いと言って俯いてしまいました。そして「あゝ自分はもう二人の子を無くしてしまうのか、二つの位牌を眺めて暮すのか」と申します。「何をおっしゃるのですか。まだ誰からも何処からも死んだという通知は貰っておりませんよ。これから間もなく佐賀に着きますから駅前で待っていて下さい。私が佐高を訪ねて先生にお目にかかって参ります」と申していますうちに佐賀に着きました。佐賀に着くとそこにその頃「厚生車」という自転車の横に人が一人乗れる位の箱をつけた車がいたので頼むと、ちょうど佐高の方向に自分も帰るところだからと言って乗せてくれました。タイヤが不足しているので帰りは断ると申しますので、行きだけでいいからと言って乗りました。佐高へ着くと大変でした。学校の中は兵隊でいっぱいです。「先生方はどこにいらっしゃるのですか」と聞きますと、小使いさんが出て来て案内して下さいました。
先生方はお二人で「おゝよく来て下さいました。大変でしたでしょう。実はお宅へ電報を打ったあとで本人の行く先がわからなくなり心配をしていたところ、今さっきわかったところです。川棚という所へ移されたというので、うちの教官もいま出掛けて行きました。お疲れでしょうから、ここでお休みになって行かれたら」と言われましたが、「駅前に連れを待たせておりますので失礼させて頂きます」と言って、もう暗くなりかけた道を引返しました。空には美しく星が輝き始めてやがて満天の星空となりました。やはり能人は生きていた、私の思った通りだった、私は胸をはずませて道を急ぎました。
駅に着くと主人はすっかり元気を取り戻して宿屋を頼んで今夜のとまりを用意していてくれました。「能人は生きていますよ。川棚のなんとかいうお寺にいるそうですよ。明日そちらに行きましょう」と言っていると、宿屋の人が私を見て「オヤ、ご婦人が今頃この様な時に。近々敵兵が上陸するというので、このあたりはみな女房や娘をかくしてしまいましたよ。うちでも男ばかりで仕事をしています」と申します。「もう敵がきたのですか」と聞きますと「いやまだです」と申します。「では私は明朝早くここを出ますから」と笑って床につきました。
翌朝一番の汽車と思っていますと主人が、ここで弁当をこしらえて貰って行くと申しますので、「それでは私は先に出ますから」と申しまして乗車しました。やっと座席があってホッとしましたが、川棚の二つ手前の早岐という駅まで来た時、どうしたことか列車が止り乗客はみな降されました。それからがもう大変でした。後から来る列車はみな超満員です。それも窓枠にまで人がぶらさがっているのです。次々に列車は入るのですが、どの列車も同じで屋根の上まで人が登っています。
どうしたしたことかと先に降された人々は躍起になって焦らだっていますがどうすることも出来ないのです。私はもう何とかして隙を見てと思っていますと、かたわらにいた娘さんが「もう駄目です。ここから歩きましょう。川棚はこの二つ先ですから歩きましょう」と申しますので、私も「それでは連れていって下さい」と申しますと、それを聞いた別の男の人が「あなた、この暑さの中をあなたのような方が歩いたら弱ってしまいますよ。もう一列車待ってごらんなさい。今度は私が何とかしてあげますから」と言われますので待っていましたが、今度来た列車もまた一杯の人でした。するとその方が私を抱き上げて「オーイ、この人を一人乗せてくれ!!」と機関車に向って呼び掛けました。すると機関士が顔を出して「ここに乗れ」と言って私を受け取ると自分のかたわらに乗せてくれました。娘さんも続いて乗りました。それから二人はもうお互いにしがみついて振り落されないようにと一生懸命になってやっと川棚の駅に着きました。私は「あゝここです、有難うございました、本当に。どうぞ降して下さい」と申しますと、「なあんだ、ここか。世話のやける奴だな」と降してくれたので「本当に有難うございました。助かりました。御恩に着ますわ」と申しますと「あゝ気をつけて行けよ。また逢おうぜ」と言って手を振って列車は走り去りました。
原爆患者収容の場所はすぐわかりました。大勢の婦人会の方が出て案内をして下さり、お茶を出してねぎらって下さいました。
さて現場へ足を踏み入れてみますと、何とまあ想像した以上の悲惨さで眼をおおうばかりです。血にまみれた人々の呻き声にまじり手足のちぎれかかった人、髪の毛が血で固った頭で小児を抱いて乳を呑ませている若い母親、それをいちいち婦人会の人々がいろいろと世話をしてあげています。痛ましさに我を忘れている私の声に聞こえて来ましたのは「あゝお上の偉い方々が早く戦争をやめて下さってたら私共はこんなことにならなかったのに、何故いつまでも戦争を続けていたのか、私共の苦しみがわからないのか」「そうだ、自分達の体面ばかり取り繕って止めようとしなかったのだ」という怨嗟の声でした。
うちの子はと見渡すと、はるか向こうの部屋の隅で白線帽をかぶった学生達にみとられている患者が目につきました。おゝあれではと近よる私に「よく出てこられたね」という能人の声が聞えてその顔が見えます。私はすばやく目を走らせました。顔に傷は受けていないなと近寄る私にまわりの学生達を指さして「この人達にはずいぶん世話になったんだ。夜も寝ないで看病して貰った。よくお礼を言って」と申します。側にいた土地の人らしいおばさんも「本当にこの学生さん達はよく看病をしてあげましたよ。どこが苦しいのか、水は呑みたくないかなどと言ってね」と申しました。これを聞いて私は初めて涙を流しました。あゝ何という有難いことでしょう。こんなに大切にして下さったとは。何とお礼申し上げていいのか。「あなた」と主人の方を見ますと、主人も眼をうるませて感謝いたしておりました。そして「先生にお目にかかって来たい。どこにいらっしゃいますか」と聞いて出て行きました。
そこへ中年のご婦人がいらっして「お母様でいらっしゃいますか。この学生さんは実に静かな方でいらっしゃいましてね。皆さんが苦しい苦しいと言ってあれあの様に騒いでいらっしゃるのに黙って寝ていらっしゃるので、もう駄目になったのかと思ってお顔をのぞきに行きますと、パッと目を開いて「おばさんはこの町の方ですか」と聞かれるので「ハイ私はこの寺の住職の家内でございます」と申しますと「お世話になります」と言ってまた目をとじて休んでいらっしゃるのです」と申されました。私はちょっと気になってどうしたのだろう、苦しくはないのだろうか、ひどい苦しみに堪えるほど我慢強くもない筈だが、などと考えている時、主人が先生をお連れして現われました。先生は私に「よく出て来て下さいました。わりと元気ですし大丈夫でしょう。学生達がいま帰りました。お礼などは頂けないと辞退いたしましたが、折角のご両親のお心持だからと言って無理に受け取らせました。これから患者を海軍病院の方へ移すそうでいま担架が来る筈です」と申されたのとほとんど同時に担架が運ばれて来て、患者は四、五人づつ別れ別れに海軍病院の方へ運ばれて行きました。私も能人のそばにつき添って病院へ着きました。そこで早速着ているものを取り去り持参しました衣類に替えたのですが、着衣を脱ぎますと驚いたことに丸いピンポン玉のようなすき通ったものがコロコロと転がり出ました。それが十二、三個もございましたでしょうか。これは蛆虫がウミを吸って丸くなったのだと聞かされました。つまり夏ですから傷口に蝿がついて卵を生み蛆になったその蛆がウミを吸ったとかで、よくわからないのですがあまり汚いものではありません。それを取り除いてお湯で体じゅうを清め塗り薬を傷口につけ、今まで着用していた衣類(これはほうぼうの方々から恵んで頂いたものでしょう。裸で逃げたのですから)は病院の人が焼却場にもって行きました。動員学徒の着衣には虱がついているので始末すると言うのです。
やっと落ちついて夕食をとった時、私は先ほどから聞きたかったことを背すじをさすりながら問いただしました。「先ほどお寺の奥さんがおっしゃったことだけど、皆さんが苦しんでいたのにあなたはあまり苦しまないで寝ていたと言われたけれど本当に苦しくなかったの」と聞きますと「そんなことはない、治療をしてもらう時は痛いよ。でも僕はみんなのように血も吐かないし血便も出ない。それに食欲もわりとある。いま考えると現場を逃れる時、方々で「水を飲むな、水を飲むな」という声を聞いたので一口も水は飲まなかった。それが良かったのかな」と申しました。私は「何をしてあげようかね。もう一度きれいなお湯で拭いてあげましょう」と言って衣類をはがしますと、今まで気がつかなかったのですが、体中に一面に紫色の黒味を帯びた斑点がいっぱい出ています。何だろうと思いましたがその時はさほど気にせずにいましたが、実はこれがたいへんなことだったのです。
わたしはそれから毎日、暇があるごとにマッサージを続けました。そしてまぶしい光線はなるべく避けて部屋の中をうす暗くして静かに休養のとれる様に心を配りました。このようにして看病をしていました何日目かのこと、新聞紙上に次のような原爆患者についての記事がのっていました。「体中に紫色の斑点が出て髪の毛がぬけ落ちる様になればそれはもう重態なのだ」というのです。能人の体にもつい先頃まではその紫色の斑点が背中いっぱいに出ていたのですから。しかし今は一つも見当たりません。まあよかったと思いましたが、あれがどうして消えたのだろう。もしかしたら私が毎日毎晩かかさずにしていたマッサージのためではないかしら、と思いました。そのうえ、能人もずいぶんと元気になり食もすすみ、どこから持って来たのかよく読書をするようになりました。そして「僕ね、大変よくなったと思うんだけどちょっと先生に聞いてみてくれない」と申しますので、早速診察室に言って先生にお尋ねしました。すると全く意外なお話で「お気の毒ですが、どうもいけないのです」とおっしゃるのです。私は目をみはって自分の耳を疑いました。だって素人目にも日一日と元気になって自分でも自信がついたればこそ、先生に聞いてみてくれと言ったのだと思うのですから。これは何かの間違いではないかと私は目を見開いて先生を見つめました。先生は私を慰めるように、「いやお宅ばかりではありません。患者には栄養が第一なのですが、最近のような食糧事情では難しいのです」と言われます。なるほどこの病院の食事は冬瓜とか南瓜のおみそ汁だけだもの、そうだ、いつかお寺でお友達と一緒に看病して下さったおばさんが「私の家に来て下されば差しあげられるものもあるかも知れない」と言っていたが、あの人の家をこれから訪ねてみよう、そして何でもいいから少しでも多くの食料を手に入れようと思い、能人には「先生は大変よくなったがもう少し栄養をつけた方がいいとおっしゃるから、これから私、いつかのおばさんに頼んで買ってくるから待っててね」と言い残して病院を出ました。病院を出るとすぐ登り道の丘が見えました。するとどうでしょう、その中程にあのおばさんが野菜をたくさんかついで歩いているではありませんか。おっーと駆け寄る私に先方でも気づいてくれて久しぶりの挨拶をかわしました。そこで私は子供の容態を話し「何でもいいからお宅で手に入るものがあったら買わして下さい」と申しますと、「そうですね、私の家に来て下さい。いま家にあるものの他は明日にでもいろいろと考えてあげましょう」と言って、ゆで卵やさつまあげなどいろいろ取りそろえてくれました。果物も柿などまだやっと渋のとれたものも貰って来ました。
帰ってみますと看護婦さんが「さっきからお待ちしていました」といってリンゲルの道具を運んで来ました。そして「病人のももへこの針をさすと痛みますから針をさしたところを熱い湯をしぼっておさえて下さい」と言うので、針をさした両方のもものところを熱い布でおさえていました。こうしておばさんの家へ買物にいくこととリンゲルのお手伝いをすることが日課になりました。
ところがそれから何日かたって回診に来て下さった小さい方の先生が先日能人が重態だと言ったのは看護婦がはかった白血球のはかり間違いで、本当は無事だったとのこと。それで今日からはリンゲルも必要がなくなった、とちょっとおどけて知らせて下さいました。まあ、と私は驚くやら嬉しいやらで、「どうも私も始めから変だ変だと思ったのですが、お医者様が悪い悪いとおっしゃるので」と胸をなぜおろしました。
間もなくこの病院の患者はみな大村の海軍病院に移されるという話になり、それを機会に私共も退院して出雲へ帰ることにいたしました。ここに運びこまれて以来、お互いに苦労を重ね助けあった方々とのお別れは悲しく、お互いの住所をしるしあってお別れしました。
(完)
いま長崎三菱兵器製作所西郷寮の跡地には長崎拘置所の不気味な建物が立っている。それに隣接して白鳥公園というのがあるが、ここが私共がいた第二西郷寮のあとである。第二西郷寮というのは主として動員学徒が入っていた寮で、私共の階下には佐賀商業、別棟には鹿児島の七高の生徒達がいた。本文にもふれたように爆風のために一階が潰れて二階がそのまま下に落下したために、一階にいた人達は逃げ出せなくて死んだ人が多かった。私共は二階にいたので比較的、被害が少なかったが(私のとなりに寝ていて爆音と共に起きだして窓から身をのりだして敵機を見上げたと思われる友人は、強い直射光線を浴びて火傷がひどく、二十日位で息をひきとったが死者はその一人だけだった)、七高生には十数名の死者が出ている。彼等の多くは夜勤あけで階下に寝ていたものと思われる。いま白鳥公園には彼等を偲ぶ石碑が立っている。
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