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四十九年めの書き初め 
間野 絢子(まの あやこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1996年 
被爆場所 広島文理科大学(広島市東千田町[現:広島市中区東千田町一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島文理科大学 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
仏教では五十回忌にあたる被爆四十九年めの初夏、奇しくも八月六日の朝、非業の死をとげた母校、広島市立第一高等女学校の一、二年生の書き初め三十五枚が発見された。そのうちの二枚は、下半分が千切れているために氏名がなく、誰が書いたものか、不明であった。

端正 簡素 優雅

と、普通の半紙に、三文字、二行に書かれた楷書は、いずれも十三、四歳の少女としては見事な筆致で、原爆が投下された、昭和二十年初春の書であった。

優雅のかけらもなかった戦争末期に、彼女たちの書いた六文字は誠に端正である。簡素だけは有り余っていた日の続く夏に、少数の欠席者を残し全員、命を落とすことになるとは、その時、誰一人思わなかったであろう。

この書き初めは、指導にあたられたM先生の、広島市郊外、自宅客間の違い棚からご長男により発見された。

M先生も生徒たちと共に死亡された。

あの日は、朝から太陽がぎらつき、じっとしていても、汗が流れるほどだった。少女たちには夏休みもなく、軍都広島の重要施設を焼夷弾の延焼から守るため、付近民家を倒壊する作業に、連日動員されていた。家屋倒壊作業は容易ではない。中学の男子生徒が、まず屋根にあがり、上から下ろした瓦を、下で待ち構えている生徒にリレー式に渡す。それを別の所に運んで積み重ねる。残る生徒たちは、畳、雨戸、ガラス戸などを運び出した。

各隣組から動員された大人たちが、大黒柱を切り、それに太綱をつけて、エイヤーと引くと土埃を舞いあげながら、家屋は倒壊した。少女たちに与えられたのは、あたりが見えないほどの埃の中で、壊された家の木材を拾い集めて運び、それを燃やす仕事だった。

酷暑の中、皆どんなにかその熱さを耐えていたことだろう。

広島の街を潤す太田川は、中国山地の水を集め東より、猿猴川、京橋川、元安川、本川、天満川、福島川、山手川の七つの支流に分かれて瀬戸内海に注ぐ。

元安川と本川の分岐点には、全国でも珍しいT字型の相生橋が架けられ、原爆搭載機エノラ・ゲイは、この橋に照準をあわせて、午前八時十五分、原爆を投下した。

相生橋の間近で働いていた少女たちは、ひとたまりもなく、熱線をあびて一瞬のうちに黒焦げの塊と化した。駆け付けた肉親にも、誰であるのか見分けもつかぬほどにひどい遺体であった。その数は、職員も併せて六百七十九柱で、広島の中学校、女学校の低学年生徒中、最も多くの犠牲者数となった。

私の家と家族ぐるみでの交際をしていた近所のK子ちゃんも、この中にいた。

狂気のように探すお母さんにも死体の山の中から我が子を識別することができなかった。けれどもお母さんは、K子ちゃんがその日の朝はいて出かけた、下駄の鼻緒の端切れを見つけた。ぼろぼろに焦げてはいてもそれは確かにこの手で縫い、すげた我が子の物だ。それを胸に抱き、
「あった、あった。見つけた」
と叫びながら、帰って来た。
「K子のだ。確かにK子の鼻緒だ。可哀相に、どんなに熱かったろう」
へたへたっと地面にくずおれながら、おば様が泣いた。みんな泣いた。

焼け焦げの弁当箱を形見に残した子もいる。ひとりとして、親元に戻れた者はいなかった。私の母も、この日、作業に従事するはずであったが、翌日の当番にあたっていた方から、「明日は差し支えるので代って欲しい」
と頼まれて交替した。その女性は即死した。

母は爆心地から二キロメートルの自宅門前で、熱線により重い火傷を負ったが、命は得た。

父は爆心地より五百メートルの土橋、市電停留所にいて、全身を焼かれ死亡したから、もしも母が、家屋倒壊作業に赴いていたなら、私たち姉弟は孤児になるところだった。

この年の春、政府は軍需生産をさらに高めるために、五年制の中等教育を四年に短縮して私たちを繰上げ卒業させ、挺身隊員として、昼夜を分かたぬ三部交替での勤務に当たらせた。

虚弱な私は、一学年下の生徒たちと共に、陸軍被服廠の下請けとなった学校工場に残り、働いていた。

木造校舎の二階、机、椅子を取り除いた空間には、南方戦線へ送る蚊帳の製作のため、各家庭から供出された足踏みミシンが並び、痛んだ床には緑の麻が波打つ。無言の生徒たちの髪の毛は耳たぶの線で切り揃えられ、尽忠報国の四文字が黒く染め抜かれた鉢巻きが白い。

その時、学徒出陣のために、人手不足となった広島文理科大学(現広島大学)地学科から副手の要請があった。私はI教授の面接を受けて合格し、七月から大学に勤務していた。そこには、荒々しい外の空気とは無縁のように、静かな学問の香りがまだ残っていた。油にまみれて働いている学友たちに済まないと思いながらも、その幸せをかみしめていた。十六歳の私のつかの間の安らぎだった。

私は鉄筋校舎三階建て二階、I教授研究室で被爆した。爆心地から一・三キロメートル。キャンパスの木造建物内、及び校庭にいた人たちは助からなかった。

窓の外に閃光を見、炸裂音を聞き、と同時に物凄い爆風ではね飛ばされ、床に叩きつけられて気を失っていた時間が、どの位であったかは知らない。真夏の太陽を奪われた闇の中で、手探りでドアを求め、階段を降りると、黄昏のような中庭一面に人が倒れて、色彩を奪われ、ペシャンコに押しひしがれた地上は、ブスブスと燃え始めていた。訳が分からなくても逃げなければ火が追ってくる。いつの間にか私は、全身を焼かれ、皮膚をぶら下げて歩く幽鬼のような人々の行進にまじって、海に向かう道を歩いていた。気がつくと私の体中に、無数の尖ったガラスの破片が、鋭利な刃物となって突き刺さっていた。特に左頸部の裂傷は深く大きくて流れる血は足まで染めている。引きちぎられて少しだけ体に張り付いているブラウスを裂いて、夥しく流れる血を押さえながら歩いたが、これ位の傷は傷と言えぬほど、火傷の人たちは人間の姿とは思えないまでに傷つけられていた。動けぬ人たちが「水を下さい。水を」と訴えている。ああ、その声を聞きながら、今の私に何ができよう。

這うようにして夕方辿り着いた我が家は、軒も梁も落ち、満身創痍の姿でやっと焼け残っていた。

翌年、母の実家を頼って上京してから、私は、広島を忘れることによって生きようとした。忘れなければ生きられない。が、忘れようとしても、あの地獄絵が夢に現れ、「水を、水を」の声が耳の奥で鳴り、びっしょり汗をかいては目覚めた。

劫火に焼かれた少女たちも、きっと水が欲しかったことだろう。この朝、家屋倒壊作業現場で少女たちが斉唱したのが「海ゆかば」であったという。

海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍。
大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ。

原爆までも所有する国を相手にして、日本はなぜこんなにも無謀ないくさを続けたのだろうか。

こんなに惨い死にかたをさせてはいけなかった。若い尊い命を無残に焼いてはならなかった。十五年戦争という狂気の時代に生まれ育ち、果ては原爆の坩堝の中で殺されても、ひとことの抗議さえ出来なかった少女たちの、無念を抱き続けて、私はその後の五十年を生きた。黙ったまま死んではならないと思う。戦後十二年もたった一九五七年(昭和三二)やっと原爆医療法が出来、これを軸として、各地で被爆者の会が結成され、中野区では長崎、広島の頭文字から長広会が生まれた。

私は長広会に入会してから、東友会(東京都原爆被害者団体協議会)へと入り、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の一員として、国家補償に基づく、被爆者援護法制定、核兵器廃絶を求める運動の輪の中に入って行った。さまざまな矛盾を感じながら、その中で、私自身が体験を通して、被爆者運動の意義を学び取って行った。

人間が人間の上に絶対行ってはならないこと、それが原爆投下であり、その凄惨さの中から立ち上がり歩いてきた被爆者が、「こんなことがあってはならない」と訴えることが、被爆者運動の原点だと思う。

戦争はそれ自体があってはならないものだし、無差別に非戦闘員を殺戮した上に、放射能の後遺症を負わせる「核兵器」を否定し続けることに被爆者運動の意義があり、また、紙一重の差で生き残った者には、それを後世に伝え、訴える使命があると私は考える。

人間の叡智を破壊へではなく、共存へと向けたならば、美しい地球が守れるはずだ。賢い人間が犯す最も愚かなものが戦争であり、中でも核は底知れぬ恐ろしさを秘めている。今や世界は、地球を破壊しつくすほどの「核」を持ってしまった。

私たちの願いと逆行している。その中にあって、生き残った私たちの叫びは、人間への「愛」であって、イデオロギーや、権力闘争を超えたものなのだ。

戦後五十年、日本人の中には戦争を知らない世代が増えているが、世界のどこかでは、常に戦争が繰り広げられ「核兵器」が、力対力の均衡を保っているなどという、とんでもない錯覚が通用している。絶対あってはならないものが「核兵器」であることを、身をもって証しようと決め、真剣に「核」の問題に向き合っているうちに、私の内部で、大きな変化が生じていることに気付いた。

最初は忘れることによって生き、また、未来を明るく展望出来ないために、非常に醒めていた私が、こんな私でも被爆者運動の中から、国会へ、日本へ、世界へと訴え続ける時私自身は、地に落ちた小さな一粒の麦にしか過ぎぬかもしれないけれども、全世界の良心を揺さぶる力となることも知った。

すぱっと断ち切ってくれていたら、あの時終わったはずの命だ。そうであったら、意識も無いまま、研究室は猛火に包まれた。

しかし、生きよ、そして証しせよと命じられた命なのだろう。

世に言う戦後五十年は、被爆者にとっては被爆五十周年なのだ。国家補償を求め、核兵器廃絶を訴え続ける私たちに対して、政府はいまだに曖昧な態度を取り続けている。

六月某日、広島市内の寺で遺族会が五十回忌の法要を営み、身元の判明した書き初めは、それぞれの遺族に手渡された。今はもう、親も世を去った人たちが殆どであったから、姉妹、縁者らに引き取られたが、名前の分からぬ半切の二枚はそのままとなった。

戦後、他校と合併して新制高校(広島市立舟入高等学校)となった母校の文化祭で、社会問題研究部員たちにより、原爆の資料と共に、この書き初めが陳列されたが、一般の関心は薄く、カラオケやたこ焼きなどには人が群れても、書が飾られた部屋への人足はまばらで、数名の部員が、ただ手持ち無沙汰に座っていた。

「憲法擁護・非核都市の宣言」をしている中野区は、被爆五十周年を翌年に控えたこの年、平和事業の一環として、助役を含む区職員四名、長広会員の中から広島での被爆者五名を、八月四、五、六日の三日間、広島に派遣した。私もそれに加わり、全国非核宣言自治体の大会に出席し、八月六日の平和祈念式典に列席したのち、平和記念公園内、元安川のほとりに建つ、少女たちの碑の前で行われた慰霊祭に参列した。後輩のブラスバンドが、母校の校歌に続いて、静かに「海ゆかば」を演奏した。哀切の念を込め、彼女たちが最後に歌った曲で追悼したのであろう。けれども私は、悲しみと怒りが交錯して、平静な気持ちでは聴けなかった。この曲は名曲と言えるかもしれない。特に男声合唱は美しい。が、天皇のためには命も惜しむなと誓い歌わされた曲には、あの戦争の辛く苦い記憶が、美しいがゆえにかえって深く染み込み、今もなお、私の心から拭えないでいる。

三十五枚の書き初めは、半切の二枚も含めて、式場の片隅にひっそりと展示されていた。
  

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