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原爆に思う(付・私の略歴) 
増井 康夫(ますい やすお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1989年 
被爆場所 己斐国民学校 広島陸軍糧秣支廠(広島市己斐町[現:広島市西区己斐上二丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍糧秣支廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
父は丹後宮津藩士族、若くして神戸に出て貿易商を営み、母は大江山の麓丹後ちりめん創業の地、加悦谷に生れ、丹後半島の伊根に育ち和歌を嗜む。大正一〇年八月生れの六男三女の七番目の四男として須磨小学校、神戸三中、北大予科から北大農学部・農芸化学科を昭和一九年九月卒業。同年一〇月陸軍経理部見習士官として、大卒の同期(一五期丙種学生)十名と共に名古屋の部隊に入り、同年十二月主計中尉に任官、同月東京・小平の陸軍経理学校に入り、翌年四月同校を終え、糧秣廠要員として、糧秣本廠教育部(千葉県北小金及び長野県御代田)へ、六月中旬、広島陸軍糧秣支廠勤務の命令を受く。小平の経理学校在校時、三月一〇日陸軍記念日には営外居住者として荻窪に下宿していた。前夜半東京大空襲があり、この救援のため緊急動員が下り、新宿から両国まで、同校の下士官学生数十名を連れて現地に赴いた。道の両側に並べられた無数の真黒の焼死体、後に広島で目の前に展開された生々しい地獄絵と共に終生の強い印象として残ることだろう。

「支廠にて」
昭和二〇年六月一七日、同期丙種学生植田、吉田両少尉と己斐国民学校に疎開中の支廠へ、先ず石光支廠長に申告、広島での業務が始まった。糧秣本廠で私に与えられた任務は、中国軍管区各部隊への給養指導官として、本廠で教育された女性栄養士と随時巡回指導すること、(大阪支廠にはこの栄養士が来たというが、広島には来ずじまいであった)、又工場監督官を拝命し、且つ、通常業務としては、検査料・試験室に勤務し、指定工場に納入された官給材料が規格通りに製品化されたかどうかを検査することであった。

赴任約一週間後支廠長に呼ばれ、糧秣分散格納のため、山口線沿線の農業会会長に会いその倉庫を軍のため開放するよう折衝せよとの命をうけ、まず、山口市で廠長から紹介された五嶋憲兵隊長に申告後、湯田温泉を根拠地として約一週間沿線各駅で下車折衝した。短い期間ながら工場監督官として広島市内は勿論、可部、福山にも出向いたし、技術関係の仕事として、爆撃で著しく搗精能力が低下したため、主食として予定している高梁を精白することが出来ず、対策を検討した結果、石灰水で処理すれば可能と分かり、海田市のキリンビールでこの試験を実施せんとして、すでに補給科に頼み原料はすでに搬入済であった。又、本廠から栄養士が送られてくれば早速にも給養指導の旅に出なくてはならず、部隊あての通達案を石光支廠長に提出、真っ赤に添削頂いていた。八月六日原爆が投下され、この時私は試験室(学校の理科教室)にいて軽い傷を受け様々の体験をしたが、この時の惨状はすでに詳述されているのでふれないが、時として脳裏をかすめる思いを記しておきたい。

八月九日夜、己斐国民学校の暗い講堂の一隅、四~五人の将校が支廠長を囲み座っていた。

この日の朝、ソ連が一方的に対日宣戦布告、北満に進攻してきたと報じられていた。「増井中尉!ソ連参戦をどう思うか」と支廠長から声をかけられ、原爆の悲惨を目のあたりにみている自分は思わず、「残念乍ら日本はとゞめをさゝれたように思います。」と答えたことを思いだす。八月一五日終戦の詔勅を聞いて後数時間たって支廠長から、本廠にゆき今後の支廠の運営について命令をもらってくるよう命をうけた。黄昏の八木国民学校の校庭には早や戦争終結の解放感がたゞよっていた。軍服では東京に入れないかもと、須磨の生家に立寄り親父の古い背広をかりて、京都始発の二等車に乗り込んだ。車内には軍服姿の将校もそのまゝ東京へ、次いで浦和の学校に疎開していた糧秣本廠へ、無事用件を済ませ広島に帰る、すでに支廠は宇品に戻っていた。これから翌年三月復員するまで「成美寮」の生活が始まる。

九月のある日、黒田大尉と宇品の広場で一緒の時向うから側車をはずしたハーレーが来る。これからは、オートバイ位乗れないと駄目、おぼえようとストップをかけ操車方法を一度聞いただけで乗ってみようということになり、順序を拳できめ私が先になった。教わるべく跨がったとたん、倒れかゝったので足をふんばったが、支えきれず飛び降りようと試みたが、後にバッテリーを積んであったため、これに足がかゝってそのまゝ左に倒れ、車体で踝をくだいてしまった。すぐ陸軍病院に運ばれたが正に痛恨の思いであった。情無くも松葉杖の生活が続く、日本は敗れ、広島は無惨に、私はこのざま、希望のない日々であった。

遡るが原爆前日の八月五日夜、私は流川の広島女学院内の松本院長宅に夕食の招待をうけていた。丁度この日、仲間と共に海田市のキリンビール工場を視察し、定刻に遅れての訪問となった。院長の長男松本繁美君は東大農学部(水産学科)出身の同期生で、糧秣本廠勤務となった。私が広島と決まると是非家を訪問して欲しいと言われ、すでに一度挨拶にお邪魔していた。当夜珍しい牛タンのシチューなどご馳走になり、おそく己斐に帰った。

院長一家はその頃毎夜牛田に帰っておられたようで、この日は遅くなったため帰られず原爆に遭遇、母堂は亡くなり、妹さんは怪我をされたと聞いた。済まなかったという思いが、長い長い間心の負担となっていた。ご一家の方々に合わす顔もなかった。たまたま永松(平岩)さんと東京での広糧会でお目にかゝり、永松さんが松本院長一家と親しく交際されていることを知り、心の苦しみを吐露した。有名な牧師として百才近くまで存命であった父君の葬儀に列席出来、東京下北沢の開業医と結婚されている妹さんにお会いすることができた。同期の松本君はある船会社の会長をしていたが、私の外地駐在中の約一〇年前死亡したことを新聞紙上で知っていた。妹さんから母堂の亡くなられた時の様子を聞いた。共々に泉邸に避難したが群集におされしらぬ間に手が離れ、後に泉邸の池に死体として浮かんでいたと、なぜ手が離れたのか悔やんでも悔やみきれぬ思いと申されていた。いろいろ当時のことを語りお詫びし永年の胸のしこりが取れる思いであった。

又、原爆後四~五日して己斐から太田川上流の八木国民学校に移る。長い間体を洗うこともなかったので太田川で水浴した。水浴への途中道端に一群の墓石が建っていた。しばし佇み、なぜか両親はらからに思いをはせた。本土決戦となり戦ってなお命あれば、両親の故郷丹後に皆集まろうと約束していたが、原爆を体験した今、おそらく無惨な死となろう自分が哀れであった。今この墓石の下に眠っている方々は死に臨んでおそらく親しい者に看護られ天命を全うされた何と幸福な方々だろうと思えてならなかった。

断片的に支廠在勤中のことを書いたが、この文集に「成美寮」の名が散見する。上述したように本廠出張から帰広してから昭和二十一年三月下旬復員するまで、半年余こゝの世話に成った。私が一番長かったと思う、当初は福岡支廠から復員の途、懐かしの広島支廠へと、ついで成美寮に立寄られた方々も多かった。入江さんの笑顔が忘れられないし、兄貴(松江旧制高校柔道部)の後輩(高校柔道部共)飛騨産の日下部さんの偉丈夫の姿も思い出す。私にとって支廠生活のうち三分の二以上がこの寮と共にあった。

「復員後」
兵庫県食糧営団及び食糧配給公団兵庫県支局
自昭和二一年四月 至昭和二六年六月

農林省食糧庁
自昭和二六年七月 至昭和三一年四月

海外貨物検査(株)(常務取締役として退社)
自昭和三一年四月 至昭和五九年六月
この間
昭 三一.五 ~三三.六 USA
昭 三七.二 ~三九.一二 台北
昭 四四.九 ~四六.九 バンコック
昭 五三.六 ~五六.六 USA

その他
カナダ、ボンベイ、スペイン、
インドネシア(ジャバ、スマトラ)
に夫々約三ヶ月滞在

海外興業(株)及びオミック・インターナショナル (社長)
自昭和五九年六月 至昭和六二年六月
退職

現在、男女二人の子供と孫六人、自宅では、夫婦二人の生活、私は幸い健康に恵まれ晴耕雨読の生活をしております。
  

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