原子爆弾投下と終戦
昭和二〇年八月六日 その日は雲一つ無い快晴、真夏の朝であった。
前夜の空襲警報から解除され、ほっと一息の広島市民、数分後に襲いくるあの残虐な一瞬をたれが予想することが出来たでしょうか。
当時私は爆心地に所在する西部第二部隊で軍務に従事致しておりました。
午前八時一五分 それは朝食も終わり、次の作業までのしばし開放された一瞬でありました。
単機青空に飛ぶB29の爆音も、いつもの事として余り警戒心も無かった。
その瞬間一条のせん光は老若男女を含めたすべての生物を巻き込んだ、この世の事とは思えない生き地獄と化したのでした。
屋外にいた者は即死又は皮膚は焼けただれ識別もならず衣服はボロボロでまさに幽鬼の姿であった。
爆心地の建物は強烈な爆風により上から押しつぶされた状態となり、建物の中にいた人々は脱出することも出来ずに多くの人が生きたまま火魔の犠牲となられたのです。
この惨状を目の当たりにした自分自身が被爆者でありながら、こうして現在迄生かされている運命の不可思議に感謝しながら、被爆体験者として後世に何を残すべきかを考えさせられる昨今である。
「語り部」
被爆体験を語る前に、私の軍隊経歴を説明する必要があると思う。
軍歴証明
昭和一八年二月 現役兵として歩兵第十一連隊補充隊に入隊
昭和一八年二月 中支那派遣独立歩兵第二大隊に転属
昭和一八年一二月 保定幹部候補隊に分遺
昭和一九年八月 卒業と同時に見習士官
昭和二〇年一月 陸軍少尉に任官
昭和二〇年一月 広島陸軍病院に入院 同年三月退院
昭和二〇年四月 広島管区歩兵第一補充隊に編入
昭和二〇年一〇月召集解除
病気のため内地還送となり内地部隊勤務となった。
尽忠報国の信念に燃えた青年将校として同期生に遅れをとった悔しさに涙した当時の心境が思い起こされる。
敗色濃厚な戦争末期の内地部隊は、部隊長以下大半は召集された老将校を中心に編成されていた。部隊に配属されると早速幹部候補生教育隊の教官を命ぜられたのである。
思えば数え年二二歳であった。
当時の軍隊では将校に任官すると営外居住であったため市内の知人宅へ下宿して兵舎へ電車で通勤していた。
毎朝候補生は八時に集合して、引率して練兵場にむかい教育訓練の毎日であった。
米軍機による主要都市への空襲が連日続いていたが、広島のみは偵察飛行は見られたが全く空襲の気配も見られず不思議に思われていた。
隣接の呉軍港には数日おきにグラマン戦闘機数百機編隊が来襲し、落下する爆弾、迎撃する高射砲弾により黒煙に包まれる呉市の上空を望見しながら何らの対抗手段を取ることも出来ず、それでも心構えだけは日本の不滅を信じていたのである。
昭和二〇年八月六日
その日の朝は雲一つ無いそう快な真夏の青空が輝いていた。
朝の出来事を箇条書きにしてみると、
(イ)前夜半に空襲警報発令された為下宿から兵舎に行きそのまま宿泊する。
(ロ)兵舎内にて朝食をすます。
(ハ)候補生が集合時間の指示を受けにくる、八時三〇分集合を下命する。
(二)仮設の便所に入る。
(ホ)B29の鈍い飛行音が聞こえてくる。
あ鼻叫喚
八時一五分一条のせん光が仮設便所の上窓を貫き、瞬間ごう音と共に上から押しつぶすごとく倒壊しその下敷きとなる。
思わずB29から爆弾の直撃を受けたものと判断、幸ひにも仮設便所であった為に屋根を破って脱出することができた。
明治時代に建築された頑丈な兵舎は全て圧しつぶされた状態で倒壊しており、その中からは助けを求める者の叫び声が聞こえてくる、また外にいた兵隊たちは何れも直射光線を受けて被服はぼろぼろにたれ下がり、皮膚は焼けただれて部下の顔さえ識別が出来ない状態、一体何事が起こったのか?
この世の出来事とは思えない有り様にただぼう然とするのみ。
火傷を受けなかった候補生数人が駆けつけてくれる。
まず兵舎内にとじ込められている兵隊たちの救出にかかるも徒手少人数のため数人を救出するのみ・・・
そのうち、はるか炊事場の建物から出火した模様、段々と火の手がちかずいてくる。
最早限界と判断して部下に営外への脱出を指示する。
兵隊たちの救出を求める悲痛な叫び声を聞きながら去らざるを得なかった立場と心境は手を合わせ唯ただ涙であった。
漸くにして営外に出てみると、白島方面の民家は全て兵舎と同様な状態であった。
道路上には即死した無数の人々が倒れており、火傷を受けた人々の群れが幽鬼の様に縮景園方面へ流れるように歩いている。
「兵隊さん、お母さんを助けてください」泣きながら訴える娘さん、行って見ると倒壊した自宅の太い柱に両足を挟まれて身動きも出来ない状態となっている母親、徒手の体では母親を助けることも出来ない。
はるかに近づく火災の火の手を見ながらも母親の元を離れない娘さんの姿。悲情とはこのことか!言葉も無い。
縮景園の周辺は避難した老幼男女でひしめいていた、見渡す四周は全て猛火に包まれていたがこの付近のみは丁度煙突状態となっていた。
突然猛烈な熱風が渦巻き状態で襲って来た。多くの避難者は我知らずに下を流れる河に向かってなだれ落ちていった。その間数分であったのか、数十分であったのか、分からない。
上流から無数のでき死者、板片にすがって助けを求めながら流されて行く男女、ただぼう然と眺めるのみで、何らなすすべもない。
降りくる黒い雨にも人々は無表情のままである。そしてやがて周辺も火炎に包まれていったのである。
虚脱状態のまま、その夜は河原に野宿する。市街地方面では未だ残り火が赤か赤かと燃えていた。
八月七日
野宿から目覚めて、当てもなく、連絡を求めて連隊の焼け跡に行く。
恐らく夢遊病者の姿であったと思う。
そこで見たものは、現地の出来事とは思われない状況であった。
焼け尽くされた兵舎跡には、無数の白骨が重なり合いそして散らばっていた。
草一本残っていない・・・たれ一人いない無人の焼け跡にぼうぜんとたたずむ。
あのとき、業火の中に救出を求めて叫んでいた部下の顔を思い、心から合掌してその場を立ち去ったのである。
目を転ずると、一面の焼け野原真夏の太陽に照らされて、あたかも砂漠を思はせるごとく、あの軍都として栄えた広島市は跡方も無く消え去っていた。
東練兵場に向かって行く。仮兵舎には見知った兵隊は一人もおらず、救援部隊により編成されているとのことであった。
練兵場には患者収容場が仮設されていた。水をくれ、水をくれ、苦痛にゆがんだ顔に、軍医が優しく水を与えて行くと、満足そうな喜びを見せながらやがて帰へらぬ人となる。
無数の死がいを焼く紅れんの炎は数日の間消える事は無かったのである。
街中の視察
遮る物のない焼け跡に照りつける真夏の太陽はさながら砂漠を歩いているようだ。
軍人の被爆者の収容が目的である
街中には縁故知人を救出のため近郊からの沢山の人々の姿が見られる。
紙屋街の道路には、焼け瓦に人骨を盛った皿が無数に並べられていた。
「この付近で亡くなられた人の骨です
心当たりの人はお持ち帰りください」
立て札の紙が静かに風に揺れていた。
橋の上から見下ろす河川には多数のでき死体が浮かんでいるが、たれとて見返る余裕もない。
救援の軍人も民間の人々も言葉も無く無感動に疲れている。
軍の上層部では未だ広島のこの惨状の実態とその原因については把握されていなかった。
八月一〇日ごろであったと思う
陸軍省より広島に投下された爆弾は核爆弾であると発表された。
広島には今後七〇年間は生物は生存することはできない、陸軍部隊は直ちに現在地を退去するの命令を受ける。
即日部隊は安佐郡安村(現在は祇園町)の農家へ分宿移駐を完了した。
そのころより被爆生き残り兵を含め市内で行動した兵隊たちが頭髪が抜け落ち高熱に冒される奇病が発生し、原因不明のまま死者が続出するようになった。
人類で初めて使用された核爆弾・あの悲惨な状況に対しても無表情となり無感動であり、ある一面では現実として認めざるを得なかった。戦争とは人間をも変えてしまうのか・・・
幾多のおん念を残して、広島の土地を捨てる日が来たのだ。
八月一五日 終戦
ラジオ放送で天皇陛下のお言葉で重大発表があるので全国民が聞くようにと知らされる。
電波不良のため雑音が高く聞き取れず意味不明であったが、後刻日本は全面降伏したことを知る。混乱のまま数日が過ぎる。
福山市も八月八日夜米軍の空襲により壊滅したとのこと、風の便りで聞いていたが家族との連絡は全く出来ず我が家族の状況も不明であった。
そのころより体調が悪く連日高熱が続く身となった。
農家の人々の手厚い看護を受けるも、医師の診察もなく混乱した状態であった。
家族との再会
高熱に浮かされる身を混雑する列車に割り込み福山に帰る。
そこには我が家の姿はなく、焼け跡に立っている連絡板を見て避難先である瀬戸町の福田家を尋ねる。懐かしい家族に出会い、環境の変化に涙しながらも家族全員の無事を喜びあったのである。
依然として原因不明の高熱は続き体力も弱ってくるが、適切な医師も見当たらず治療の方法も分からないまま、ただ農村であったため新鮮な野菜を薬として、約二週間を経過、結果的にはビタミンCの効用で不思議に症状も快方に向かったのである。
家族の心配を振り切って広島の部隊に復帰したのは九月中旬の事であった。
今まで記述したことは被爆者として見たままを素直に書き留めたものである。
戦争の起きる原因は双方にそれぞれに絶対的な理由があるが、常に勝者の論理が正とされるのである。
核爆弾使用の是非についても議論されているが、武器をもたない民衆に対する無差別大量の殺りくは後世の歴史において厳しく指弾されなければならない。
同時に再び戦争を起こさない平和な世界を目指すための尊い反省の師とすることである。
「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」
二〇数万人に及ぶ原爆死没者の慰霊碑の前に黙とうをささげながら…
平成七年一月二〇日記
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