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被爆について思うこと 
小髙 美代子(こだか みよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市猿猴橋町[現:広島市南区猿猴橋町] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は二〇才の時妊娠五ケ月の身で八月六日八時一五分広島市猿猴橋町瀬川金物店(親類)のお勝手でお米をといでいた時ピカッとすごい光を見て当分意識ない状態でいた様です。今思ってもそれがどれだけの時間であったかわかりません。気付いて周囲を見廻しましたら隣の時計屋さんの三階の庭に下駄をはいてたっていました。三階といってもつぶれているので二階位の高さだったと思います。

ハッときづいて瀬川をみると全くペッチャンコにつぶれています。家の中にはおばあちゃん、孫(としのぶ)孫(としえ)さん三人はいたのですがみんな家の中にとじこめられています。何としても三人を助け出さねばと思ふ気持で一杯でした。而し原子爆弾等しる由もなくたゞ直撃を受けたと思い外へ出て町内をかけめぐれば誰か助けて下さると思い外へとび出しました…ところが爆心地の方から広島駅の方へ向って顔、手、足、身体全部がやけて男女の別もわからないような人たちが手を前にさし出しブラブラとよわよわしく歩いて来るのです。

私八一才の今日迄色々恐いことにも会いましたがあれ以上の生地獄を見た事はありません。

一応常日頃の約束のあった中山村の農家へ三人を助け出して歩きその間黒い雨が降って来ました。八月六日、七日は農家の家でお世話になり八月八日は五日市の知り合の家へ向いました。その道は死体の道でした。中山村から己斐といふ駅まで乗りものは何もありませんのでどの位の道のりかわかりませんが歩きましたが道の両側には死体の山。途中には沢山の死体の石油をぶっかけて焼いている。

初めはコワイ、コワイと二〇才の女ですから目をそむけて歩きましたが、その内どこをみても死体、死臭それ以外のものは見えない現状でいつしかなれてしまって「あ、この人まっ黒くやけてる」「このお母さん赤ちゃんだいて、赤ちゃんは綺麗に守られて死んでるけれどお母さんは随分やけて亡くなっている…」とかみえる様になり人間の恐ろしさを感じました。

「あ、人間って虫を殺すのもイヤなのに戦争となると全然うらみもない会った事もない人でも大量殺人が出来るんだナー、気が狂ってしまうんだナー」と痛感しました。

戦争だけは絶対してはいけないと声を大にして叫びたいです。

背中にガラスの破へんも入ったりで五年位チクチクしていましたが、それもいつしか血がまいたか痛まなくなりましたが、貧血、甲状腺とか病院とは何十年も縁がきれません。
  

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