一九四五年(昭二〇)八月六日午前八時一五分、千田町にある広島文理科大学地学科今村教授室にて被爆す。
爆心地より一・三キロメートル。まぶしい閃光をガラス窓の外に見、物凄い炸裂音と共にはね飛ばされ、床に叩きつけられて気を失った。気がつくとあたりは真暗だ。手探りで戸口を探し、階段を下り、中庭に出て呆然とした。異様な暗さの校庭一面に人が倒れ、色彩を失った世界はペシャンコに押しひしがれて、ブスブスと火の手があがり始めていた。火に追われ海へ向かう道を逃げる。全身を焼かれた男女の区別もつかぬ程のムゴイ人々の行進であった。私の体中に、とがったガラスの破片が鋭利な刃物となって突き刺さっていた。特に左頸部の裂傷は深く大きくて、流れる血は足までつたっている。引きちぎられて少しだけ体に残っていたブラウスで押さえ、元安川を小舟に乗せて貰って渡り、吉島の飛行場に辿り着いた。
軍医が沢山のガラスの破片を私の傷口から抜き取り、赤チンを塗った。看護婦が窓に吊るした防空用のカーテンを引き裂いて、体中に包帯をした。そのカーテンは、裂く時大変な埃を立てたのに、傷口に当てるガーゼすらなかった。それでもこれが、あの時私が受けることが出来た最初で最後の治療と言えるものだった。出血と疲労により混濁した意識の中、夕方に辿り着いた我が家はやっと焼け残ってはいたが、軒も梁も落ち、無惨な姿であった。母は顔と腕を焼き、身動きも出来ないでいた。父と次姉は行方不明。やっと消息の知れた父は全身火傷で一一日に死亡。一五日に帰宅した次姉も全身にガラスの破片により大怪我をしていた。母も姉も、私も、化膿した患部に蛆が湧き、下痢、高熱に悩まされながら野宿をした。そんな中で、父の遺体を荼毘に付した。廃屋の木を積み、ガソリンをかけて、火をつける。一度では焼き切れず、再度焼いた。辛かった。
広島は一面死臭の漂う街になり、性別もつかぬ程変り果てた遺体が、身元不明のまま沢山あった。止むを得ず、まとめて山積みにし火葬にしたが、その小山から、夜には青白い燐光が、電灯もない漆黒の空に、幾条も立ち登った。私達は終戦も暫く知らなかった。何も考えず、只生きる為だけの原始の人間のように生きていた。
九月の台風で追われるように広島の地を離れたが、残留放射能の恐しさは知らなかった。それは、暫くして、戦後の苦しい生活の中で貧血を伴って私達を苦しめ、被爆者健康手帳が交付されるまでの一二年間を、どんなに辛い思いで生きたことだろう。 |