国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
未来への伝言 被爆の体験と証言 
小西 悟(こにし さとる) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 修道中学校4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市江波町
三菱造船所、バラック建の「教室」で自習をはじめようとしていた。閃光…爆風で、窓のガラスや天井板が降ってきたが、机の下にもぐってのがれた。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日の夜、まっ赤な炎が広島の街をなめつくした。まるで生きもののような、すさまじい炎だった。そこに無数の母たち、幼な児たちが生きたまま焼かれていることを、私は想像できなかった。翌日、私は広島の市内へ入った。なんにもなくなった広島…それはまるで夢の中の世界のようだった。とつぜん「水をくれ」という声が私の耳をうった。見るとそこに、まっ白のとうふのように煮えたぶよぶよの顔があった。そのあと私は何を見たのか、何をしたのか全くおぼえていない。

いまもあの、とうふのような白い顔が、私のうなじに坐っている。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆から七年目、とつぜん口の中の粘膜が全部ペロリとはげ落ちた。もうれつな口内炎がはじまった。それをきっかけに、体調が激変し、ひどく疲れやすくなった。数年間、ブラブラ病になやまされ、一時は再起不能かと思うこともあった。ながい間死の恐怖にとりつかれた。病名もつかず、医師も何も言ってくれず、ひとり悶々とした。就職はしたものの、論文が書けず、「なまけもの」とののしられたこともあった。苦しかった。時を経て、しだいに体調がととのってきたが、決して一人前の体にはならなかった。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
私はまだ軽い方だが、もっともっと苦しい体験をした被爆者がたくさんある。そういう人たちが、力のかぎり「ノーモア、ヒバクシャ」を訴えてがんばっている姿をみると、私も、がんばらなければと思う。

核兵器のおそろしさを知らない世代がどんどんふえているいま、被爆者が語りつたえることが、いよいよ大切になっている。生きているかぎり被爆の実相を語りひろげたい。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針