原爆投下時にいた場所と状況
広島市江波町
三菱造船所、バラック建の「教室」で自習をはじめようとしていた。閃光…爆風で、窓のガラスや天井板が降ってきたが、机の下にもぐってのがれた。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日の夜、まっ赤な炎が広島の街をなめつくした。まるで生きもののような、すさまじい炎だった。そこに無数の母たち、幼な児たちが生きたまま焼かれていることを、私は想像できなかった。翌日、私は広島の市内へ入った。なんにもなくなった広島…それはまるで夢の中の世界のようだった。とつぜん「水をくれ」という声が私の耳をうった。見るとそこに、まっ白のとうふのように煮えたぶよぶよの顔があった。そのあと私は何を見たのか、何をしたのか全くおぼえていない。
いまもあの、とうふのような白い顔が、私のうなじに坐っている。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆から七年目、とつぜん口の中の粘膜が全部ペロリとはげ落ちた。もうれつな口内炎がはじまった。それをきっかけに、体調が激変し、ひどく疲れやすくなった。数年間、ブラブラ病になやまされ、一時は再起不能かと思うこともあった。ながい間死の恐怖にとりつかれた。病名もつかず、医師も何も言ってくれず、ひとり悶々とした。就職はしたものの、論文が書けず、「なまけもの」とののしられたこともあった。苦しかった。時を経て、しだいに体調がととのってきたが、決して一人前の体にはならなかった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
私はまだ軽い方だが、もっともっと苦しい体験をした被爆者がたくさんある。そういう人たちが、力のかぎり「ノーモア、ヒバクシャ」を訴えてがんばっている姿をみると、私も、がんばらなければと思う。
核兵器のおそろしさを知らない世代がどんどんふえているいま、被爆者が語りつたえることが、いよいよ大切になっている。生きているかぎり被爆の実相を語りひろげたい。
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