原爆投下時にいた場所と状況
山口県長門粟野
六日目に広島入市
丹那 嶋田部隊帰舎
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
山口県油谷沖で大豆を満載した船団が米軍の攻撃に合い大被害を受けても原爆投下の情報を知らされ。それ程の被害とも思っていませんでした。六日後広島の方へ帰郷してたゞたゞ驚くばかり。先ず目に付いたのは広島全体がすべてガレキと化した姿であった。駅を出て見ると先ず小さな四、五才の何も解らぬ子供が着物とも洋服とも見当がつかぬ程の姿で四、五名位づつあちこちのゴミ箱をあさっている姿が今でもきつく頭にやきついています。勿論親の存在すら理解していない幼児でせう。何かと手を差しのべ様と思っても軍の規律に従うより仕方なかった。又次の日、平素御世話になっていた甲板長を見舞に行くも床の中に寝ている其の姿は顔面の皮がなく私と聞くと「助けてくれ助けてくれ」と何回もかすかな声で一杯に叫んで居る姿を見たがあまりにもひどい姿に手の出し様もなかった。声も出せなくたゞボウ然とするのみだった。其の後何時しか息を引き取って行かれたと聞いた。どうし様もなかった。
市内への整理作業に出た。リヤカーを引く道路の片隅に首も手も足もない胴体が真っ黒になって、だれも見帰へる事もなく無縁仏になっているのも又実に悲サンであった。又当時各家それぞれ忌中の紙を玄関に軒並はられ、小さい丘では毎日御遺体の整理の灯をあちこちにたえ切れぬ悲しみの声と煙が未だ耳についています。紙面が小さいので其の実感を書く事出来ず大体のあらましだけ…。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
終戦になり九月一日帰郷、十月頃より精神的な障害と云うか闘病生活に入る。医者に行くが何の効果もなし、死をきめて仏門に入る。親の理解もあり専念する事が出来た。当時、被爆なんて云う事は全然考えていなかったが、友人よりの立証に依り五十五、六才頃被爆手帳取得、現在、内分泌腺障害にて定期的に薬の投与と健康シンダンを受けています。(当時十七、八才より異常に高い血圧)
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
尊い命を。此の世の大自然と神より賜り其の幸せを生きて行く事が、人類の最高の責任と自然への感謝でありませう。
全世界のすべての生を受けるものがそれぞれの国々の行き過ぎた欲望に依って殺し合いせめぎ合って居る。此れが現在の大きな世界的な紛争から小さな虫までにも及んでいる…。せめて人間と云う立場にある者は平和に生きて行かなければならない。弱い者へは手を差しのべれば良い。弱い者は自暴自棄になってはならない。もたれ合い助け合って行く事が大切。此れは国際社会は勿論のこと。となり近所でも然り。死んでしまったらすべて終りです。
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