原爆投下時にいた場所と状況
広島市平野町
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日夜空襲があり解除され、防空ごうから出て、妹が熱が高いので、上の姉と二人で氷屋に氷を買いにゆきましたが氷がまだなくて、家に帰る時、すぐ上の姉がじゃが芋の配給をとりにゆくと私達が叔母からかりた乳母車持ってゆき姉は火傷を負いました。私達二人叔母が低血で朝寝なので無断で乳母車かりたのでその事をいってゆこうと思った時、閃光と物すごい音とでバッタリ地面に伏せ、爆弾でついに死んだと思ったが生きていて叔母ははなれを借りていたので母と妹が家にいるのでゆき、妹は階段がつぶされ足が出ていたので夢中でほって助け母は一階で上に二階があり女手ではとても無理で道を走っていた兵隊さんに助けを求め、助けてもらいました。火傷を負った姉とも川で落あい一緒になりました。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆した事で自分が身体に自信がもてなかった。結婚話が出て、先方から健康診断書をとりかわす事をいわれ、これも戦争のぎせいのためにこんな思いをするのだと思ったが慶應病院で骨ずい検査までして全て大丈夫との事で結婚し三人の子供を産みました。長男が小学校の頃ひどい鼻血でこれも私が被爆した故かとずい分心配しましたが、耳鼻科で出る箇所をやいてもらい、治りほっといたしました。血液検査等では異状はありませんでした。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
全く被爆の影響はないとはいえ、子供の結婚に差しさわりがあると困ると思い被爆者である事は公表していません。東京で育ち、投下一ケ月前に広島にゆき、原爆に会いあの悲惨な思い出は思い出したくもないし話したいとも思いません。
この様な悲惨な爆弾が今後一切使用されない事を切に念願しております。
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