原爆投下時にいた場所と状況
広島市荒神町
広島駅から市電に乗り荒神橋の中央を通過中被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
被爆の当日は広島駅から紙屋町経由宇品行の市電に乗車(当時白島上空にボーイング一機を確認す)荒神橋上にてピカドン一瞬真黒くなり車内は騒然と乗客の悲鳴で大変な有様であった。十分ばかりして若干明るくなったので下車し周囲の家屋が全壊して居たのに吃驚、囲りには怪我人が沢山居たのでその手当をしたり家屋の下敷になった人の助けを手伝って居たが広島全市が倒壊して居る話しを聞きこれは地震だと思ひ帰路につく。幸い牛田の家は火災には免れ半壊の状態で、妻の母がガラスにより大怪我をして居た外は一応皆無事で居たのでホットした次第。帰路の途中駅の広場には数十名の人が倒て居り女性の人の衣類は殆んど焼かれ裸体の状態で右往左往しており又二葉の里では下敷になって助をもとめて居る人の声を数多く聞いたが火災が間近にせまり如何ともしがたく未だ心残がして居る。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
五〇才の時左眼六〇才にして右眼を白内障と診断され大学病院で手術を受けたが原因は被爆によるものではないと認定され甚だ残念であった。又肺結核に二度もかかり現在肺活量も半減し階段の登降時には息切れし苦しんで居る。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
五〇年間種々病気を経験したので健康管理には留意し規則正しい日常生活を送ることにして居る。
大東亜戦争で色々各地の戦場で空襲や砲撃を受け危険な面に合ったが、原爆だけは一発で一瞬にして何人もかまわず殺害し家屋は崩壊させ、これ以上の悲惨な状態はなく正に此の世の地獄の有様である。従ってこの広島、長崎の実情を世界にアピールし地球上から核兵器を廃絶するよう強く訴えたい。
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