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一滴の水 
師岡 金太郎(もろおか きんたろう) 
性別 男性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 大河国民学校(広島市旭町[現:広島市南区旭一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団司令部(暁第6167部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市仁保町大河
大河国民学校

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
一滴の水

当時私の所属は暁部隊で市の中心から南へ約三キロの地点、宇品に近い大河といふ国民学校に宿泊していました。

朝食が始まる瞬間何かで頭を打たれたのか夢中で机の下に潜りました。爆音閃光、もの凄い爆風、その後におそった全市にわたる大火災で広島市は一発の爆弾で完全に崩壊してしまい、これが世界で初めて使れた世にも恐しい原子爆弾でした。(略筆)臨時に出来た収容所には何の薬の準備もなく僅かな衛生兵ではどうすることも出来ません。患者のほとんどが火と高熱におかされ体の自由を失い、ただ喉がかわいているため兵隊さん水を、と微かな声で言うのが精一杯、一滴の水をどんなにか慾しがっていたか知れません。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
一滴の水(続)

私が一番早く見たかったのは四十七年前八月六日被爆を受けて、あの恐しい思いをした大河国民学校の二階の教室でした。時の校長先生の御了解を得て四年一組の札がかけられた教室を覗いて見ますと、若い先生、発育盛りの生徒が工作の授業中で思わず溜息をつき、しばらく茫然と立ちすくんで見入りました。やっぱり広島へ来てよかった。あの教室を見ただけでも長い間の悩み心の痼もとれ、広島といふ今迄のイメージは自然と消えてゆくでしょう。張り切った気持が抜けた時往生するでしょう。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
八十一才になりました。

現在只生きているだけで何の慾望もありません。

被爆五十年を迎え核兵器ゼロ、援護法制定に成就あらんことを願い唯それが私の唯一の生甲斐です。
  

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