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未来への伝言 被爆の体験と証言 
山田 登祥(やまだ たかよし) 
性別 男性  被爆時年齢 2歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島県佐伯郡原村に母と兄と私三人で避難をしていました。

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
父(昭和六十二年死亡)に聞いた話ですが、父は自宅の広島市鈄屋町(現在の堀川町)で被爆をし、屋内にいたので家がつぶれ、ようやく外に出た時は広島駅が見え何もかもくずれ落ち、何か所も火の手があがったようでたいへんな光景だったと言っておりました。家族の安否を思い市内をさがし回る時たくさんな死体を見、焼けただれた人達のうめき声を聞いたそうです。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私の姉は市内で直接被爆し、家族でさがし回り三日目に焼けただれた体で見つかりましたが、八月十日病院で十九才で亡くなりました。又父も被爆の後遺症で生死を何回かさまよい五年間は働くことができず、その間母が家族を養うため死に者ぐるいで働いたようです。戦前は店ももち、裕福に暮らしていたようですが、すべての財産を失い、私共家族にとっても口に出して言えない苦労があったようです。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
戦争は国と国との戦いですが、人間の本質は、互いを尊重し、思いやりのあるものだと信じています。ですから身近な人に対して幸せになるように努力すること。その次に地域ぐるみの、その次は国民全体の、その次は世界全体の人類がというように、みんなが仲間意識をもってお互いに自分の意見をすなおに表現し理解できる世の中になってほしいと思います。

「ですから核兵器は何の役にもたたない。」
  

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