原爆投下時にいた場所と状況
高田郡向原町
向原高等女学校
校庭、朝会の時
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
物心つく頃、世の中は既に戦時色一つであった。日本は絶体絶命のとき、必ず神風が吹くと豪語し、老若男女を問わず軍部の命令のまゝ明け暮れていた。その時代、一瞬の閃光から始まった生き地獄の日々。頭から、手から裸体の背中、胸、腿、皮がペロリとはげ、血を流し、眼にするも足が震え、身、心共に凍りつくような人、人、人。私達女学生は夏休みなど、返上、毎日登校し、勤労奉仕に駆り出されていた。あの日も凡そ人間とも思えない位の火傷をした罹災者が昼頃から次々列車で運ばれて来たのだった。
僅かに口のきける人は「水」「水」とか細い声で訴える。駅から学校の講堂まで担架で運ぶ、次々と横たえられる罹災者の生ける屍のような姿、あの閃光とあの講堂絶対に忘れることはできない。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
救護活動を命じられるまゝ凡そ一ケ月は続いたろうか。
女学生に出来ることは、云われるまゝに血、膿で汚れた包帯を洗ったり、床にこびりついた血、その他の汚物を拭いたり、敷物のむしろをとり替える手伝いだったが、後にあって、直接被爆者の身体に触れ、汚物の処理に当ったことで後遺症もでることがあると聞かされ、いつか、若しやという不安はずっとつきまとってきた。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
いま、まだ暮らしに身体的支障はないものの、六十路半ば、長生きしたいということより生きてる間は元気でいたいと思う。
若い世代は自分達の暮らしに精いっぱいで高齢者の親を負担する経済的ゆとりはないのが普通である。楽をしたいとは思わないが、働くことも適わぬ年となり、人間らしく生きられる安心が欲しい。
人間が人間をあんな無惨な目に合わすようなことを二度と再びこの世に起こしてはならない。「あの日」を見、あの地獄を通り抜けた人間として、世の施政者に絶対愚かな非人道的誤ちをしてはならないと警鐘を打ちつづけるべきだ。
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