原爆投下時にいた場所と状況
広島市水主町
朝早く学校の寄宿舎に行き、帰ってきて暑いので早速水を飲もうと玄関でなく勝手口から入り、水道の蛇口をひねった時被爆、叔母夫婦の家で下敷きになる。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
翌日七日から第二総軍司令部へ動員されることになっていた私は、五日・六日と二日間の休日を与えられ、水主町の叔母夫婦の家にいた。
不透明な位濃く厚い黄色の光りが一瞬すべてをおおったと思った瞬間、すごい爆風に吹きとばされ、あとずさりする形で倒れてゆくのと同時に、二階建の家が崩壊した。気がつくと真暗闇の中に、首を垂れた恰好でやっと座れるだけの空間に、私はいた。遠く頭上で女の人二・三人の声がする。誰かを探している。その人達の声がきこえるのだから、私の声もきこえるかと下から声の限り助けを求めてみる。しかし全くきこえないらしい。やがてその人達も去りシンと静かになる。こわい位の静寂が始まる。時折壁土がすきまをころがり落ちるような乾いた音、叔母のうめく声をななめ上の方で一度だけ聞く。動けぬまゝ何分そこにいただろうか。三〇分か一時間か二時間か時間のことは分からない。そのうち竹のはぜる様な音がきこえてきた。
ここで死ぬのだと静かに覚悟した筈なのに、その音を聞いて必死になった。家の下から外に出るまでの記憶は余りない。たゞかべの竹を折り土をはらいした、かすかな記憶は残っている。出た時は一面濃い煙の中だった。茫然として立っていると、煙と煙のわずかな縦に切れたすき間からはるか遠くまで、何一つない空間がつゞいているのが見えた。
叔母を助けなくては!煙の立ちこめる中、足元を手当り次第さぐってみる。しかしものすごい力で押しつぶされて、かたくかたまった土はどうしようもなかった。家がくずれたというかんじはなく唯、土まんじゅうの様なかたい土のかたまりの上に立っている感じだった。あたりの木々がてっぺんから火を出して燃え始める。心を残しながら川の方向に歩いて行く。あきらめきれず立ちどまると「そこに居てはダメだ」と男の人の大きな声がした。煙の中からぬけ出したところに中年の男の人が立っていて、目がよく見えないと言われる。みると頭の皮が顔の前面にたれて、私はその皮を手でめくるように上げてあげた。でも見えないというその人に肩をかしてあげて、川ぶちを川下に向かって歩き、住吉橋のたもとにたどりつく。
そこにはたくさんの人が集まっていた。皆逃げてきた人ばかり。私は皆の体が異様に赤いのにおどろいてしまった。どこで赤チンをぬってもらったのかしら。でも赤チンではなかった。ぬれる程ではないが雨も降った。ガソリンではないか、死ぬのならみんな一緒とあちこちで声がした。その住吉橋のたもとにたどりついた時から翌七日の午后三時位まで、私は橋のたもとにすわったまゝ動けなかった。一たんはこゝで死ぬと覚悟したのに生きて出てきて、しかも叔母を助けられなかったことが心の中を重く占めていた。七日の三時頃、住吉橋のらんかんにもたれ、放心したように川を見つめている叔父を見つけることができなかったら、今の私はなかったと思う。(叔母は大怪我をしながらも草津の小学校に収容されていて現在も元気でいます)
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
あの時、どれほどのものを見たか言いつくせないが、たゞその中でもとりわけ一つ、今でもこのことを思うと、ところかまわず涙があふれ出してくることがあります。住吉橋のたもとに座った私のとなりに、学令前位の年令の男の子が一人でいました。顔ははれ上り、目は両方共に大きくとび出してはれて、上下の唇も中からめくれあがり、きているものもぼろぼろになっていて、本当にいたましい様子でした。でもその男の子は終始だまっておとなしくじっとすわっていました。父や母を呼んで泣き叫ぶこともなく、ふさがれた目で何を見ていたのでしょうか。私にも、そかいしていた同じ位の小さい弟がいましたのに、私はその子を抱いてあげることもせず、やさしい言葉もかけてあげず、その男の子に言ったことは「お水をのんではダメよ」と言ったことだけでした。その子が「お水ちょうだい」とやっとのことのように言ったというのに。けがをしている人には水をのませないようにと、大人の人がふれて歩いたことばを守って、何とつめたい自分だったことか。そして名前さえも聞いてあげませんでした。六日の夕方その子は亡くなりました。船が何度ものぼってきてその子も連れて行かれました。島につれて行って焼くのだと近くにすわっていた人から聞きました。
私はこの五〇年、この時の男の子を思うと申しわけなさと、一五才にもなっていたのにと自分で自分を情なく思います。なぜ抱いてあげなかったのか、抱いてあげていたら、名前をきいてあげていたら、と思いは尽きないのです。この五〇年、この男の子を忘れず胸に抱いてきました。今はその子に私が守られている様に思う時もあります。でもやはり涙はあふれ出てくるのです。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
戦争があって被爆者となった私ですが、日本人である以上被害者でもあり、又加害者でもあります。
しかし何といっても戦争を考える時、戦争は無条件に悪以外の何ものでもありません。戦争は絶対にしてはならないことです。
人々を殺し、敵国をいためつけるため兵器をつかう人間は、地球上の生物の中で最も愚劣であることを、深く反省しなければいけないと思います。一人一人が真剣に、心の奥深くにしっかりと平和の文字を刻みこんで日々をくらしてゆくことの大切さ、どんな小さなことでも、その心の持ち方から建設的な考えや行動が生まれ又、万々が一の時に大きな力、良識の強さになると思うからです。どこかで戦争があり、つみもない子供達の悲惨な生活を見聞きする時、心がゆりうごかされる。そんな心を絶えず持ちつゞけることが世界の平和、核兵器廃絶への一ばんの基盤のように思います。
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