故 林茂樹の弟 林春樹
昨年(平成十六年)、中国新聞連載の原民喜「破壊の序曲」に昭和二十年四月末日に紙屋町筋南北に爆弾が投下されたとあったことから、兄が登校途中の大きな樹の洞に爆風で戦死の将校さんを見たと言っていたことを思い出しました。そして、自分がもし家の下敷きになった時には下からこうして天上を破り、屋根を破るのだと拳で板を壊すしぐさをして見せてくれたのが二十年六月頃で私が八歳の時だったのだろうと思います。
何があっても兄は死なない。広島がやられて焼け野原でも、ひょっこり帰ってくると…。原爆投下の翌日から夕方になると兄が帰るかもしれないと思い、来る日も来る日も駅に迎えに行き、暗くなりかけて家路を急いでいました。兄が帰らないのが信じられませんでした。母は約五年間、兄が帰って来て、いつでも家に入れるようにと鍵を掛けずにいました。
家族の悲しみは時として生々しく、深い悲しみは癒されることはありません。八月六日の平和公園での平和記念式典には心理的乖離さえ覚え、融け込めない思いをしてきましたが、今年六十回目の記念式典には初めて参列してみようと思うようになっています。今回、幸運にも『星は見ている』への寄稿の機会をいただきましたので、このことを学徒動員(第一県女四年生)から生還した姉(世良喜久枝)に伝え、兄の思い出などをもっと聞きたいと思い尋ねました。しかし多くは話そうとしませんでした。それは母(十二年前九十三歳で他界)と姉は私が思い及ばないほどの深い悲しみを持ち続けていたからです。
八月六日の朝、兄が突然、どうしても姉に味噌汁をついで欲しいとわけの解らないことを言って驚かせたこと。また、その日、学校を休みたい…と、考えられない事を兄が言ったなどは初めて聞きました。父はその二年前に亡くなっていましたので、原爆投下の翌日から母と姉は、兄に食べさせる握り飯をもって、最初に目指したのは広島一中の校舎址、十二学級の兄の席かも知れないところの遣骨を拾って帰る気持ちにはなれなかったこと。早朝から片道五里をトラックと徒歩で行き、夕刻まで市内、周辺、似島を探し回りました。
数日間は亡くなられた方のご遺体が兄と似かよった体形であればひっくり返して確かめたりした等、余りに凄惨で、思い出したくない。記憶が噴出しそうで筆はとれない…と、今まで寄稿しないでいた訳を知りました。
戦後、何度かの改築や建てかえの際に偶然、お仏壇の引出しの奥に、表紙を新聞紙のカバーで覆った本を見つけました。見てはいけないものを見るような気持ちで開いたのが『星は見ている』で、初版本だったのかも知れません。
今から思うと粗末なざら紙のその中に兄への追悼文はありませんでした。何故無いのだろうと思いながらも何と無く聞けないで今日になってしまいました。
平成十七年二月十一日
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(フタバ図書 昭和五九年・一九八四年)一八七~一八九ページ
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