一九四五年八月六日の朝の惨劇は、六〇年経った今でも、私の脳裏から拭い去ることはできない。
「ピカッ!」黄金の火柱を見た瞬間意識を失った。どの位の時間経過があったのか、気が付いたときには土埃と油くさい粉塵の匂いで息苦しい。二~三度土の塊のようなものを吐いた。動く頭を上に向けると、ぼんやりと薄明かりが見える。手を伸ばして板をへしおると、丁度人一人が通れる穴ができた。慌てて出ようとすると五寸釘が左肩に刺さったが腰を落として釘を抜き流れる血はそのままに、倒壊校舎の上に出た。
Y君が「オーイ」と呼ぶので、彼の首を押さえている太い垂木を、馬鹿力でへし折り、彼を引っ張り出した。「一中だけがやられたにしては変だぞ」近くに立つY君の顔はぼんやり識別できるが、あたりは真っ暗で、太陽は朧月のようにみえる。足元の級友の叫び声に応えて、二人で協力して材木を動かし、竹や板を折って数人の友を引き出した。
やがてぼんやりと辺りの様子が見え出すと広島の街が消え失せている。中電ビルや、遠くにあるはずの福屋や中国新聞社が近くに見えて、その窓から火を噴き出した。
黒い土埃も治まりだした頃、助けを求める友の声で我に返り、精一杯の力を振り絞り何人の友を引き出しただろうか。鼓膜が損傷したのか、名前を呼んでも無表情の者、肩を脱臼したのか手をだらりと垂れた者、倒壊校舎の下を覗くと脳天を柱で割られたのか、黒髪を血糊で固めたまま身動きしない者、首を梁で挟まれ即死した者。
この頃になると煙臭い匂いが立ち込めてきた。ふと見ると、O君が太い梁に大腿部を挟まれて助けを求めている。「この水筒を除けてくれ」腿と梁の間にアルミの水筒が挟まっている。私は垂木を梃子にして、梁を持ち上げようとしたがびくともしない。数回試みる内に垂木は折れてしまった。O君は無傷で意識もはっきりしている。よし助けを呼んでくると励ましの声をかけプールサイドに向かった。プールに辿り着くと、水の中は火傷を負った生徒達でごった返し水も茶色になっている。上着は、ぼろぼろに焼けて、ただ一中制服の裾の黒線だけが目立つ者、顔を真っ赤に火傷して破れた水道管から吹き出す水に顔を当てて冷やしている者、ポンプ室の方からは、絞り出すような声で、軍人勅諭の朗読を始めた者がいる。つられて火傷をおった何人もの生徒も直立不動の姿勢で唱和を始めた。こんな負傷者ばかりの姿を見て、友の救援を求める状況でないことが分かった。協力者が見つからずO君の処に引き返す途中、頭や顔中ガラス片が刺さり頭に止血のゲートルを巻いたT君がやってきて、「火が回ってきたぞ、逃げよう」と叫ぶ時口からは血が噴き出した。やがて校舎の底の方から、重苦しい声で「天皇陛下万歳」「お母さん」「広島一中万歳」と切迫した声が聞こえる。やがて苦しそうに「君が代」を歌う声、一層低い声で「鯉城の夕べ雨白く…」と校歌の合唱に代わった。私は手を合わせ「友よ許せ」と涙ながらに詫び断腸の思いでその場を去った。火の手をのがれ逃げ惑う内に日赤前に出た。火傷を負った者の行列は、申し合わせたように手を前に垂らし、中には飛び出した眼球を手で受けて歩く青年、低いうなり声を挙げながら南に向かう長い行列に加わった。戦闘帽を被っているが、軍服の半分は黒く焼けこげ、銃を杖代わりに足を引きずって歩く兵隊の群れを見た時「日本は負けた」と思った。人間襤褸の長い行列も御幸橋あたりで散らばっていった。
倒れた橋の欄干に腰かけて十数回目の嘔吐をくりかえした。川面をゆっくり流れていく死体をみながらO君にすまぬと涙した。途中何度も気を失ったりしながら気力だけで8キロ離れた疎開先に辿り着いたのは深夜になっていた。真っ赤に燃えあがる広島の空に向かって、倒壊校舎の中に置き去りにした友に深く頭を垂れ合掌し続けた。
広島一中一年生で倒壊校舎を脱出し、急性原爆症で生死の境を彷徨いながらも、奇跡的にひと時は健康を回復し復学した者は十九名いた。しかしその中から高校生の時、ある者は大学生の頃、更には社会人になって結婚はしたけれど家族を残して亡くなった者は十二名、その死因は大部分が癌である。今生き残っている七名の者も、全員が癌を患い癌と闘いそれを克服しながら活躍しているのが現状である。
私も数回の癌を患いながら不思議に生かされている。「星になった友」から何を託されているのか、亡くなった友に代わって何を為すべきかと自問自答しながら苦渋の日々を送っている現在である。
今は、私が生かされている内に原爆放射線が人間の骨の髄まで傷め尽くす非人道的な 体験記録を、友の記録と共に出版物として世に問いたいと企画中である。(平成十七年七月) |