昭和二〇年八月六日の忘れる事の出来ない強烈な想い出を記述したい。
一、 当日、午後六時頃学徒動員(現三菱重工)から学友二人で帰宅途中、相生橋上から太田川を眺めると、川底は死体がいっぱいで、どこまでも白く見えた。
二、 現在の原爆ドーム前に、一頭の馬の死がいが横たわっていただけで、生存者は勿論、死亡した人も紙屋町電停まで一人も見えなかった。
三、 現在は、紙屋町交差点の道路部分となっていると思われるが、交差点の東北の角地附近で二人の人間とも思えぬ重傷の方が突然顔を上げて、「そこの学生さん、水を頂戴や」差し上げる水もあろうはずもなく、頭を下げて立ち去ってしまった。
あのふり絞るような弱々しい声は、紙屋町交差点を毎日歩く私には、五〇年の歳月は過ぎ去ったとは云っても、とても、とてもつらい気持です。
四、 八丁堀方面は、未だ火災で市電の軌道が歩けないと思われたので、左折し西練兵場(現県庁庁舎敷地)まで来ると、日本刀を抜刀した将兵が一人立っていた。あの鬼神とも思える恐しい顔は、それまで幾多の死体を見ても無感情となってしまっていた私であったが、ゾーッとする背すじの寒さを覚えたことを思い出す。
五、 山陽本線の線路まで出る途中のどのあたりだったか、太田川にたくさんの被災者が川に入っていた。消防団の人から「学生さん川に入っている人を早く助けないとおぼれてしまうので、手伝ってくれ」と云われたが、暗くはなって来るし、自分の家がどうなっているのかもわからない不安もあったため、「すみません、家に帰して下さい」とお願をし帰宅してしまったが、これも私の忘れる事の出来ない一コマです。
六、 翌八月七日からは、学徒動員で帰宅しない妹を捜すため、家族と比治山、宇品等々の小学校、被服廠など捜し歩いたが、運動場に死体を山の様に積んでは焼却してしまう様子も忘れる事は出来ない。
七、 一週間後、重傷の妹は似島収容所において発見したが、後日頭の髪は抜け、身体中斑点が出来たが、死の一歩手前で助かり、お陰様で元気に今日まで生きさせて頂いてます。終 |