当時私は一五才だった。
八時の朝礼時B29が一機空を飛んでいるのが見えた。実験室に入り前日の使われた道具の片ずけ洗いなど通路洗面所で四〇才くらいの上司の梶原さんと洗っている時、ものすごい光、泥と爆風を共う上空よりの押さえつけられるような圧迫感、物という物はすべてなぎ倒されて、建物全体が崩れ落ちてきた。気がついた時には、梶原さんにかゝえられて洗面所の下にふせていた。
目もほとんど見えず鼻も耳も口も土とほこりでいっぱいだった。まわりのさけび声や苦しそうな声に外に出て見ると、ただ周りの景色には何が何だか解らず立すくんでいました。時間がたつにつれて建物からはい出して来る人々、普通の状態ではなかった。たゞやっと歩けるだけの血だらけ人、人言葉で表せることはできません。
建物の外にて直接光を全身に受けた人々は、ふうせんがはじけた様になり、又焼けた魚のような状態だった。それでも現実がつかめず、ただ焼けただれた体でフラフラと歩いている人々を何人も見た。
時間がたつと共に街中にはあちらこちらと火事がおこり始めて人々は建物の裏側にあった川に(土手)すい寄せられる様に集まり始めた。夕方には見るも無惨な人々の集りでした。
一夜明けて目にした物は、現場にての死体のほか、川のそばでうずくまっていた人々の死人の山だった。目のあたりにしながら、先輩達の口にしたものは新型爆弾だ、と言ふ言葉だった。ただお国のために天皇陛下の為に男子は命を捧げるものと教育を受けてきましたが、あの現場現実を目のあたりにした時はとてもおそろしく感じました。
八月になれば広島長崎のキノコ雲がテレビに映されますが、あの下にての惨状は語る事も書く事もできないです。
現在の大国では原爆を保有する国、又今だに実験を行っている国、実際にその怖さを実感した私しには、ただおそろしさしか感じません。
悲劇を二度と繰り返してはならないと、ただ神に祈るだけです。 |