中学四年生の学徒動員で陸軍の輸送班(仲仕)に所属し、トラックの荷台の上で被爆した。
露出した皮膚のすべて-顔面、両手甲、右足甲(作業中釘の踏み抜きで、左足は包帯で掩われていた)に火傷を負った。治療を受けたのは、二時間程経って食用大豆油の塗布を受け、更に二時間程して亜鉛化オリーブ油をつけ包帯された。顔、手足の火傷は、火脹れとなり、当夜は、陸軍被服廠で野宿した。顔が脹れて食事を摂ることができず三日間は食事をせず、水も拒絶に会って飲めなかった。(乞うても水を飲めば死ぬからといって拒れた。)
翌朝九時頃から市内の焼跡を通って白島の自宅焼跡をみ、緑井迄徒歩でたどり着き、役場の世話で民家に一泊し、さらに翌日、弟、妹が学童疎開していた吉田町迄避難した。偶々弟妹の世話になっていた家が医家(ドクターは軍医として応召中で不在)であったため、その家の子女が火脹れを切開して包帯して呉れた。
その後火傷は一ヶ月して治癒する迄、何の手当も受けることはできなかった。足の火傷は、被爆の翌日から翌々日にかけて丸二日歩いたため、途中で火脹れは裂け、埃にまみれて、化膿し動けば血膿が垂れ落ちるため、一ヶ月間芋虫の様にころがっていた。
父と同居していた五才の従兄弟との二名が死亡したが何れも遺体を発見することはできなかった。
母も全身打撲を受け、髪もすり切れてザンバラ髪になっていたが、姉と弟と妹を交代で連れ出し、父と従兄弟を捜索したが果せなかった。母はクリスチャンのため、アメリカが非道な仕打ちをすることはないと信じており、家財の疎開もしなかった。身内の生命や財産や収入のすべてを失って、信仰を捨てた。
私も一〇数年は白血球が、三〇〇〇程度で推移し、脱力感に悩まされた。サンデー毎日に原爆症にはアルコールが効くかも?という記事が載り、しばらくは薬と思って飲酒を続けたこともあった。 |