当時、崇徳中学在学、学徒動員令で陸軍兵器廠に出動し、繰上げて卒業後も同廠に勤労し、17歳の若い血潮は、日本の必勝を堅く信じていた。
あの朝、自転車を新品に乗りかえる日であったが、自転車店に寄ると出勤が遅れるのでそのまま走ったら途中でパンク。朝であるのに汗びっしょりで兵器廠まで歩いた。
朝礼が終って今日の作業の指示を待っていた。もの凄い閃光がきらめいた、明るいダイダイ色のように感じた。直後爆風に吹きとばされ、私はずっと奥の方へ転がされていた。兵器庫の鉄の扉はひん曲り、屋外は砂埃でかすんでいる。兵器庫の2階に駈け上り、北側窓から首を出して、びっくり、かって見たことのない大爆煙である。ズボンの後ポケットにしのばせていたベビーパールで続けて4枚撮影した。それが世界最初の原子爆弾の爆煙であったとは夢にも思わなかった。
出典 広島原爆被災撮影者の会編 『広島壊滅のとき 被爆カメラマン写真集』 広島原爆被災撮影者の会 1981年 127頁
|