原爆が投下されて今年で四十年。
私達被爆者は高齢化し当時の記憶は歳月と共に風化の恐れがある。
私は脳裡に去来する当時の惨状を追憶して茲に記述したい。
私は北支長城戦で負傷。九死に一生を得た。父の死もあってか昭和十三年三月五日召集を解除され帰国し、そして会社に復職したが日を追って戦火が拡大。本土への空襲等が繰返される様になった。
私は郷土防衛の西部七一六一部隊石原中隊柚木隊要員として有事に備え、その都度召集され警備についた。
偶々八月五日は休み、海田市町義勇隊に加はり鶴見橋方面の建物疎解作業を行う。
六日の朝は草臥れて昨日より来ていた長姉母妻と二階で談笑していた。その時突然強烈な閃光がピカ―、続いて家を揺がす凄まじい爆音に思はず四人共戸外に飛出した。そして見あげると西の空にムクムクと立ち昇る異様な雲、私は「会社が直撃された」と思い自転車で急行した。建物は窓ガラスや弱い部分が吹き飛び幹部の方々は地下室で対策しておられ、特殊爆弾の投下で市内は壊滅状態と聞く、手伝い中、防衛召集で早く帰れとの指示があり、九時半ばには吾々隊員は逸早く東大橋に検問所を設置、警備と救護活動を開始する。
人は入市させないが、ぞろぞろと歩いて出て来る人は此の世の者と思えない様相であった。髪、衣服、身体、が焼け爛れ、性別も見分け難く、全くこれが生き地獄と云うものか、と、現場にいて実に辛らかった。
七日は市内を巡察、段原から比治山に上り一昨日迄の四十万人の軍都広島が一瞬にして廃墟と化し見渡す限り凄惨な破壊と殺戮の様を一望して悲憤の涙を禁じ得なかった。
傷ついて避難していた皆さんが山道の両側から「兵隊さん水を」「兵隊さん水を下さい」と、悲痛な声の中を水を与えると死ぬと伝え聞いていたのでそのさけびに願いに応えず心を鬼にして下山。却火くすぶる道端では、トラックに負傷者を乗せている中で中学生らしい少年が、弟であろうその手を引き上げ様としたその時、引張られた弟の手の抜けたのを見、思はず顔を背けてしまった。「何とか助かり生きてくれよ」と念じずにはいられなかった。
そして河川の川面に浮ぶ夥しい悲運の屍、苦しさの余り、又水を求めての果てではあるまいか。
瓦礫と屍の中に牛や馬などの焼死体が目に付いた。これは田舎の農家が牛馬車を引いて下肥の汲み取り等に来ての被災であろう。今更ながら非情な惨さ筆舌に盡し難いものであった。
その日から東白島の太田川河川敷にバラックの仮収容所で吾々隊員は救護活動を開始。
八日朝、隊に妻と伯父が来訪。義父母が榎町で被災。義母は川岸伝いに新庄町の親戚に辿り着き、それから大八車で祇園西原の実家に運ばれたが長くない様子だし、義父は行くえ不明の由、などなど伝えて生家へ急ぎ帰って行った。
九日午後義母の死を知り、隊の許可を得て自転車で西原へ急いだ。到着して見ると既に納棺釘付けされていた。聞くところによると、被爆で焼けただれ変貌激しく異臭を発しているとの事で遺体は見られない儘太田川辺の火葬場で野辺送りをした。妻は其の後、近親者等と義父の消息を探し求めて歩き廻ったが現在まだ不明の儘である。
常盤橋の袂に積重ねられた屍の日々に変貌してゆく有様など―市内を巡視の度に目撃したことや負傷者の救護活動の中で正視し難いさまざまな出来ごとの事実を書き盡くせないのが残念である。
十五日正午重大放送があると云うことで広島駅前で大勢の者と集合して拝聴したのが終戦の詔勅である。
憶えば一瞬にして広島の街を破滅させ二十数万人の尊い生命を奪った恐しい此の原爆の惨禍の実相を後世に語り伝えると共に、勇気と英知で過ちは二度と繰返さない様努力することが吾々に課せられた責務である。 |