夫、島本巖(いわお)は、二年前より呉(くれ)海軍工廠*(こうしょう)へ徴用されていた。
(* 呉は、広島から二〇キロほどの 南東に位置する)
昭和二〇年八月四日(原爆投下の二日前)、工兵隊入隊の即日召集令状*が来る。
(* 在郷の軍人を兵として用いるための命令書。巖さんは体が弱かったため、外地にはいかなかったそうです。)
編成部隊で 祇園(ぎおん)小学校*に駐屯(ちゅうとん)。
(* 祇園は 爆心地より約六キロメートル)
八月六日の朝。
食事が終わり 娘は工場の方に遊びに行き、私が家の中で主人に届けるお弁当を作っていると 大きな音と同時に棚の上のものは落ちる。戸棚はたおれる。玄関も窓もこわれて畳も浮き上がっていました。
警戒警報は 解除になったばかりなのに。
しばらくすると、主人より 「広島に大きな新型爆弾が落ちたらしいから気をつけるように」との連絡があり、姑と娘を 川岸の柳の下に隠れさせました。
姑たちは夕方まで川岸にいました。
広島からは ケガをして逃げてくる人の行列です。
服を焼かれ、裸の人。焼けただれた自分の皮膚を引きずって歩いている人。痛い、痛いとわめきながら逃げてくる人。亡くなった子供を抱き、ふらふらと歩いて来る人。 よく見ないと、前か後ろか分からないような人。
どうしてあげる事も出来ません。
ほんとに生き地獄と言うのでしょうか?書き現す事が出来ません。
それにしても、母も兄弟も来ません。親戚の人もだれも来ません。七日の日も待ちました。
来ないはずです。母は即死でした。勤務先の八丁堀*の水道局内で建物の下敷きになりました。
(* 爆心地より約六五〇メートル)
お腹の上にあったブロックをのけたら(全身焼け焦げだったけれど着ていた着物の模様が分かり、それが母だったと分かりました)。
長兄、水野省三は白島線の電車の中で、被爆。顔面左反面に火傷(ヤケド)を負いました。昭和二六年五月一三日に死亡。
次兄、水野史郎は広島駅前で 市内電車を待っている時に被爆。
爆風でとばされ、顔、胸、手と、原爆の光が当たったほうの右側だけ焼かれていました。
まるでオバケみたいでした。
死亡するまでケロイドが残っていました。
年二回、ずっと、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission 原爆傷害調査委員会)で検査。
昭和四四年八月一五日、白血病で死亡。
ABCCがすぐ遺体を引き取りに来ました。
主人は、八月六日より終戦まで、毎日、毎日、広島へ行き、死体の処理をしたそうです。原因不明ですが、長い間の療養生活のあと昭和二七年二月一二日に 死亡しました。
弟は、原爆投下の当日、学校を(サボって)防空壕(で遊んでいたため、助かりました)。
昭和六三年九月七日に五〇代で死亡しました。
膵臓癌(すいぞうがん)でした。
姉は平成四年八月九日に同じく膵臓癌で死亡しました。
皆、原爆のために、夫、母、兄姉弟達も私一人を残して他界しました。
一人残った私も八四才になった現在、癌の闘病中です。
八四才。いつまで苦しまなくてはいけないのでしょうか。
私たちのような辛い思いは子供や孫にはさせたくありません。
戦争は嫌です。
一番つらい思いをするのは弱いものです。
まして、原爆の生き地獄は二度と見たくありません。
人間のする事ではありません。
アメリカを一生恨みます。
戦争反対!
戦争反対!
二度と被爆者を出さないように!
(追記:おばあちゃんの荷物の中から、家族の名前と死亡年月日の書いたリストが何枚も見つかりました。家族を亡くした悲しみがずっと心に重く残っていたんだろうなと思います。) |