国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
無題 
船津 美智子(ふなつ みちこ) 
性別 女性  被爆時年齢 3歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2019年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
八月六日午後五時頃広島市千田町三丁目八二八に一人暮らしのヨシエの父親(三夫)の安否を心配して一家四人(ヨシエ・夫・娘二人)で自転車一台により大洲町より入市、段原より比治山下を通り、火災のない皆実町を通り、御幸橋を渡り、千田町三丁目に至り広島電鉄株式会社の電車車庫裏付近を捜しまわり日は暮れる。父三夫の姿は見当たらず当夜は一時あきらめて向洋へ引き返した。心配して捜したがその付近は倒壊家屋で火災は無かった。
 
自宅に帰ってみれば父三夫は一人ぶらりと娘ヨシエの家に来ていた。「住む所が無くなって、どうにもならんようになったよ。頼む。」と言って来ていたので安心した。
 
その当時ヨシエの長女美智子三歳、次女美恵子〇歳(四ヶ月)。
 
その後ヨシエ夫婦は夫の実家(現在の北広島町蔵迫)に転居し、四人家族で暮らし始める。夫は(父は)一人息子で、家は農家で必然的に働かなければならないが、体力的に無理で、とても苦しんでいた。私の記憶では母は、いつも何もしないで伏せっていて元気の無い青白い暗い顔であった。その当時元気になる為に卵が良いということで、四才くらいの私は毎日近所の農家に卵を買いに通った。それでも結果、良い変化は無く白血病をわずらっていた。家族、親族とも話しあいをするも無理で結果、離婚して実家へもどる。長女美智子一人は連れて自分で育てたく、話しあうも、白血病の母親が一人では子供は育てられない。無理ということで断念。それは残念で残念で悔しい気持ちをどう乗り越えたのか……。その後の様子は母ヨシエの弟武弘から聞くところによると「夏の暑い時期がとてもツラそうだった。苦しみながらも『死にたくない』『死にたくない』と言いながら苦しんで苦しんで四八才の若さで亡くなった。被爆後の人生は、ずーっと白血病との戦いで本当に身心ともにつらく、淋しい人生だった」と話してくれた。もしも戦争がなかったら、母ヨシエの家族四人での人生はどんな人生だったか見てみたい……。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針