八月六日午後五時頃広島市千田町三丁目八二八に一人暮らしのヨシエの父親(三夫)の安否を心配して一家四人(ヨシエ・夫・娘二人)で自転車一台により大洲町より入市、段原より比治山下を通り、火災のない皆実町を通り、御幸橋を渡り、千田町三丁目に至り広島電鉄株式会社の電車車庫裏付近を捜しまわり日は暮れる。父三夫の姿は見当たらず当夜は一時あきらめて向洋へ引き返した。心配して捜したがその付近は倒壊家屋で火災は無かった。
自宅に帰ってみれば父三夫は一人ぶらりと娘ヨシエの家に来ていた。「住む所が無くなって、どうにもならんようになったよ。頼む。」と言って来ていたので安心した。
その当時ヨシエの長女美智子三歳、次女美恵子〇歳(四ヶ月)。
その後ヨシエ夫婦は夫の実家(現在の北広島町蔵迫)に転居し、四人家族で暮らし始める。夫は(父は)一人息子で、家は農家で必然的に働かなければならないが、体力的に無理で、とても苦しんでいた。私の記憶では母は、いつも何もしないで伏せっていて元気の無い青白い暗い顔であった。その当時元気になる為に卵が良いということで、四才くらいの私は毎日近所の農家に卵を買いに通った。それでも結果、良い変化は無く白血病をわずらっていた。家族、親族とも話しあいをするも無理で結果、離婚して実家へもどる。長女美智子一人は連れて自分で育てたく、話しあうも、白血病の母親が一人では子供は育てられない。無理ということで断念。それは残念で残念で悔しい気持ちをどう乗り越えたのか……。その後の様子は母ヨシエの弟武弘から聞くところによると「夏の暑い時期がとてもツラそうだった。苦しみながらも『死にたくない』『死にたくない』と言いながら苦しんで苦しんで四八才の若さで亡くなった。被爆後の人生は、ずーっと白血病との戦いで本当に身心ともにつらく、淋しい人生だった」と話してくれた。もしも戦争がなかったら、母ヨシエの家族四人での人生はどんな人生だったか見てみたい……。 |