国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
命の大切さ 
串本 智佐子(くしもと ちさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所  
被爆時職業 教師 
被爆時所属 可部国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
命の大切さについて考えて見ようという事で思うままに書いてみました。
 
私は今、八四歳です。皆の小学校の古井(友恵)先生は私の孫です。どうぞよろしくね。
 
私も今の皆さんと同じ頃には無邪気な子供で、自分の事で精いっぱいだったと思います。お友達と仲よくすること、人をいじめてはいけないこと、親の言うことはよく聞くことなど…みんなと一緒でした。
 
でも、一番今と違っていたことがあります。それは昭和一二年、私が小学校六年生の時でした。戦争が始まり(支那事変)、それから戦争はだんだん激しくなり、長引いて昭和一六年には第二次世界大戦が始まりました。皆さんのおじいさん達も戦争に行かれ無事に帰って来られた方達は幸いでしたが、中には戦場で戦死された方もあると思います。
 
日本国内ではお父さんやお兄さん達(働き手)を戦争に取られ、残された女達でしっかり国内、家を守っていかなくてはならなくなりました。第二次世界大戦が始まってからは、日本国内もアメリカ軍の爆撃を受け、家を失い、人の命を失い、国内も大変な世の中が続きました。それでも皆、日本国の為、懸命に頑張っていました。
 
私は昭和一五年四月から小学校の先生になる学校に入学していました。全寮制でしたので全員寄宿舎に入っていましたが、戦争が長引くにつれて食糧も乏しくなり、皆が食堂で食べる食糧を放課後は郊外の田舎の家に分けてもらいに行ったり、食べられる草を皆で取ってきて食堂のおばさんの手助けをしていたこともありました。
 
又、私達は三原女子師範学校に在学(昭和二二年から広島大学教育学部となる)中、呉市にある呉海軍工廠に動員され、(戦時中は中学高校生も)学徒動員で皆働いていた時代です。学校の授業をしながら。それで話は戻りますが、私達は一学期間ずっと授業なしで、呉海軍工廠に働きに行っていました。三原からでは遠いので、安浦という所で宿舎に入り、呉工廠まで働きに行きました。そんな大変な時代で勉強以外の事を頑張ってしたりしてきた時代でした。
 
昭和二〇年三月、卒業式の日もアメリカ軍の空襲警報が卒業式の途中で一時あり、防空壕に入りましたが、無事に卒業式を終えることが出来ました。
 
昭和二〇年の年は、一生忘れられない年となりました。私たちは昭和二〇年四月から小学校の先生になることが出来ました。皆それぞれ広島県内各地に分かれ、希望の小学校に就職することが出来ました。
 
私は安佐郡可部町(現在は広島市)の小学校で、五年生を受け持つことになりました(五年生が三学級ありました)。ところが、広島市内、爆心地に近い袋町小学校に就職した友達は八月六日八時一五分の人類史上最初の核爆弾を投下され、一発の爆弾が広島市内を一瞬の内に火の海として廃墟にしてしまいました。むろん友達は亡くなりました。本当に残念でした。やっと希望に胸を膨らませ、これから小学校の先生になれて子供達と一緒に頑張っていこうと思っていたのに、四カ月で夢もはかなく消えてしまいました。
 
私は幸い可部小学校に勤務していましたので、爆心地から一六キロメートル離れていて無事でした。このようにして貴い命をあっという間に失った人達がたくさんいます。原爆投下により広島市内で亡くなった人たちの数は多くてわからないようです。
 
市内各地では疎開作業で、家屋の引き倒しなどは大人の仕事でしたが、後片づけは中学校一、二年生が動員されていたとのこと、現在の平和公園あたりに動員されていた二〇〇〇人はほとんど亡くなったとのこと、その他の広島市内の場所に動員されていた生徒(中一、二年生)四五〇〇人ばかりも死亡とみなされています。
 
中学三年生以上の生徒は(当時は中学五年生まで)工場や軍の施設に動員されていました。又、建物疎開などの作業で動員された安佐郡などからの人達で死亡した人たちもあり、市内に住んでいた人達ばかりではなく、被爆で死亡した多くの人は数知れず分からないようです。
 
私たち可部小学校の先生方は原爆で被爆して市内からもどってこられた方々の施設収容を手伝いました。日に日に多くの方が施設に収容され、その方々の看護にあたりました。本当にぼろぼろになった衣類に痛ましい傷跡、あまりの痛さに声も出ない様な有様で、手や顔の肌がはがれ、傷跡は日が経つにつれ、化膿してウジがわく有様でした。本当にお気の毒でした。
 
八月七日には可部小学校の先生方と私も広島市内にお手伝いに(看護の積もり)車で行きましたが、横川橋の所で、これより中には入らないで下さいという事で引き返し、少し離れた横川の隣の三滝あたりに向かいました。そこは広場に死亡された方を大勢収容され、むしろをかけて置かれてありました。
 
この様にして貴い命をあっという間に失った人達の無念さを想うと核廃絶の為、広島、長崎だけでなく、日本国中いえ世界中が核廃絶をもっと真剣に考えてほしいと思います。
 
今は日本国もとても平和です。折角親からもらった命です。こんな平和な世の中で物は何でもあふれていて、ぜいたくを言わなければ毎日楽に暮らしていける世の中です。これから皆さん中学、高校と一年ずつ年を重ねていき、成長して自分の事を真剣に考えていくと思います。年々成長して行くにつれて、精神的にも成長して行く度にたのしい事、うれしい事と同時に悩みも多い年頃になると思いますが、これが成長の段階だと思って下さい。
 
うまくいかない時など決して人のせいにしないこと。
 
悩んだときは一人で悩まず、人に相談すること。
 
相談できない時は余りくよくよしないで、気を紛らわすこと。
 
あせってはいい考えが出ない。
 
人は生きているうちは決して平坦な道ばかりではありません。自分だけが苦労している、自分だけがつまらないと思っているときは人もそうだと思って下さい。長く生きていれば誰でも外から見た目とは違って、人それぞれの悩みがあるものです。そんな時は乗り越えて、その先には道が開けます。
 
どうぞ人の一生は一度だけのもの、大事にして生きていることに感謝して命を大切にして下さい。自分が命を大事にしていきたいと思っても、時には事故にあったり、また、自分の気持ちをコントロール出来ないで人を傷つける様な人もいます。
 
この前、広島で広島マツダ東洋工業の敷地内に車で入って来て何人もの人を傷つけ、死傷させた事件がありました。テレビや新聞で報道されたので、知っていると思いますが、大体事件を起こす人は自分勝手な人たちです。
 
世の中には立派に生きている人が殆どです。一生懸命生きていて世の中に貢献する人がいっぱいなのに悪いことをした人の記事がたくさん新聞に載せられるのですが、こういう記事がなくなるようなおだやかな世の中になってほしいですね。
 
どうぞ命を大切に長く生きてこれから将来の日本の行く末、自分達の将来がどうなっていくかしっかり見てください。将来が楽しみですね。
 
二〇一〇年 滋賀県甲賀市立伴谷小学校
六年生の平和学習に向けての手紙より
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針