国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
私の被爆体験 
渡部 治美(わたなべ はるみ) 
性別 女性  被爆時年齢 8歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 三篠国民学校(広島市三篠本町一丁目[現:広島市西区三篠町一丁目]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 三篠国民学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
被爆当時、私の家族は、牛田出身の父・渡部一朗と、可部出身の母・葉、弟が二人いて、5歳の俊典と、3歳の一洋、生後2カ月の妹・節子の6人でした。父は、増岡商店(現在の増岡組)に勤務しており、私たちは、三篠国民学校そばの三篠本町二丁目にあった社宅に住んでいました。私は、三篠国民学校の2年生で8歳でした。父は、軍関係の仕事を請け負っていて、現場監督として、吉島にあった軍の飛行場の滑走路を長くする仕事などに従事していました。戦時中に家族でどこかに出かけたという思い出はなく、それよりも毎日食べるものがないので、とにかく食べることに必死という状態でした。大豆だらけのご飯で、毎食、量は少ないし、おかずはありませんでした。一日三食きちんと食べることなどありませんでした。父も母も田舎の出身でもなく農家でもなかったので、親族から食料を調達するという状況にはなくて、常におなかがすいている状態でした。学校も毎日ではなく、3日に1回行くぐらいで、勉強した記憶はなく、夏休みもなかったと思います。
 
●8月6日
二、三日前に学校から、8月6日は吉島まで貝掘りに行くと言われ、たくさん掘って食事の足しにしようと思い、その日が来るのを楽しみにしていました。当日の朝、父が掘った貝を入れる缶に針金を通して準備してくれたので、その缶と網を持っていつもより15分くらい早く三篠国民学校に行きました。あの日、15分早く学校に行ったことで、自分は助かったのだと思っています。学校に着くと、先に来ていた友達がいたので順番でまりつきをして待っていようということになりました。とてもよく晴れた雲一つない非常に暑い日だったので、校舎と校舎のあいだの陰にいて、私は自分の順番が来るのを待っていました。校舎の壁沿いには、理由はわからないけれど、窓がある部分を除いて、空のドラム缶が2列、並んでいました。

8時15分の瞬間、私は、音は全く聞いていません。ただ、万華鏡のような、いろんな色のキラキラとした光が自分に降ってきたところまでを記憶しています。きれいだなぁと、思ったか思わないかのうちに気を失っていました。どのくらい経ったのかも分からないのですが、気がつくと、校舎の周りにあったドラム缶が散乱し、自分もドラム缶や崩れた校舎のがれきなどの下敷きになっていて、左まゆあたりを切っていました。がれきに埋まった状態で、自分の力では動かすことはできないと思いましたが、とにかく逃げたい一心で、何とかしてはい出ました。8歳の私でしたが、長女として怒られて育てられていたので、今の子どもに比べると、しっかりしていたのだと思います。

履物もいつのまにかなくなっていて、何も履かず、はだしで、泣きながら周りの大人について、とにかく自分の家の方向に逃げました。あたりは土ぼこりなどで灰色でした。1メートル先も見えない状態で、シーンとしていました。なんとか自宅のあった場所にたどり着くと、すでに家はぺちゃんこにつぶれていましたが、火はついていませんでした。「お母さん、お母さん」と叫びましたが、全く返事がありませんでした。

家の向かいにあった散髪屋さんにはすでに火がついていて、2階で男の子が「助けてー」と叫んでいました。1階には、親御さんがいたのかもしれませんが、私一人ではどうすることもできませんでした。
 
●母を捜して
家に母たちはいなかったので、どこに行ったのかと思っていました。そのあいだ、人間や生きた馬、動物など、命あるもののほとんどが可部街道を北へ避難していました。当時は、旧市民球場のところに憲兵隊があり、馬がたくさんいました。私は、やけどを負った多くの人たちに押し流されるように、亡くなった人の上を歩きながら、大芝の祇園橋あたりまで逃げました。そこで、先ほどの散髪屋さんとは別の、家の向かいに住んでいた、自分の子どもを捜しに中心部に戻ろうとしているおばさんに、「治美さん、治美さん」と、呼び止められました。そして、母親が三滝の山に逃げているから捜してごらんと教えてくれました。私は、三滝は知っていましたが、三滝の山には行ったことがありませんでした。けれど、そこには母親がいるので、三滝方面に向かいました。当時、橋のほとんどは狭くて、木造でした。私が歩いていく途中、橋の多くは焼けていて、川にはたくさんの死体が浮いていました。そうこうするうち、心配して私を捜しに来ていた母親と、偶然出会うことができました。

母は、原爆が投下された時、タンスのそばで末の妹を抱いてお乳をやっていて、弟たちは、廊下で遊んでいたようです。自分の家に爆弾が落ちたと思い、びっくりしてとっさに妹と廊下にいた弟二人を抱えて外に出た瞬間に家がつぶれたと言っていました。その時の一瞬の判断が良かったのだと思います。助かったのは本当に奇跡です。廊下にいた弟二人の顔には、ガラス片がたくさん刺さっていました。妹は、顔が赤土まみれでしたが、だれもやけどはしていませんでした。

私たちは、三滝の山を三分の一ぐらいあがったところに避難していました。まわりは大人ばかりがたくさんいて、知り合いはいなかったように思います。ひどくうめいたり、苦しんだりしたのち、次から次に亡くなっていきましたが、不思議と怖いとは思いませんでした。その日の夜、三滝の山の竹やぶから見た、広島市内が真っ赤に燃えている光景が忘れられません。8月6日、7日は、水はもちろん食べるものなどなくて、何も口にすることができませんでした。8日に、ゲートルをまいた大人から、乾パンを2つずつもらって初めて口にしましたが、水を飲むことはありませんでした。
 
 
●父との再会
父の行方が分からないので、母は毎日、父が自宅まで帰ってきていないか、家に近い橋の方まで捜しに行っていました。そのあいだ、私は、妹を抱き、小さいガラスが顔に刺さったままの弟たちと一緒にいました。弟たちの顔にささった大きいガラスは、母が取ってやりましたが、小さいガラス片は、なかなか取ることができませんでした。

母が父と再会したのは、被爆当日から三、四日は経っていたと思います。父は、原爆が投下された時、吉島にいて、爆心地方面を背にし、事務所に向いて立っていたようで、後頭部から背中、足の先まで全身、見るも無残なやけどを負っていました。大やけどでしたので、とても歩ける体ではなかったと思いますが、命ある限り、どうにか自宅を目指して歩いたようです。当時、広島には七つの川が流れていて、三篠まで帰る道中、木造の橋は多くが焼け落ち、火事がひどくて通れない場所もあり、ずいぶん遠回りをしてようやく自宅近くにたどり着いたようでした。父には、私たちが避難していた三滝の山へあがる力は残っていませんでした。
 
●可部での生活と食べ物のない日々
母は可部の出身だったので、その方面に避難しようとしていました。可部方面に向かう大きいトラックに一緒に乗せてほしいと母が頼み込み、そのトラックの荷台の脇に大やけどを負った父も一緒に家族計6人を乗せてもらいました。荷台には、立派な布団に大やけどを負った女の子が寝かされていたように記憶しています。

可部の実家に帰っても、ほかにも人がいっぱいいて、居場所もなければ、食べる物もありませんでした。母は6人兄弟の末っ子で力もなかったため、私たち家族6人が母の実家にいることはできず、実家から1キロほど離れた牛舎の2階を借りてそこで私たち一家6人で暮らすことになりました。父は、やけどがひどく動くこともできず、ただ横になっている状態で、ウジがたくさん湧いていました。薬などないのでどうすることもできず、塩を振る程度の手当てしかできませんでした。

母は農家の仕事を手伝っていましたが、食べ物が豊富にあるわけでもなく、毎日、仕事が終わってもらってくる一握りのわずかな米を、まず父と乳飲み子である妹に食べさせて、それから水のようになったおかゆを私たち4人がいただくという状態で、もちろんおかずなどなくて、本当に食べる物はありませんでした。

毎日、母が帰ってくるまで、妹を抱き、おなかをすかせた自分と弟二人は、母が早く帰ってこないかなと、牛舎の屋根の下で待ったり、小川に行って水を飲んだりしていました。どうしても空腹に耐えられないときは、道に生えている草を食べてしのぐこともありました。近くの段々畑にはトマトがなっていましたが、その畑の持ち主の子どもが、私たちが熟れたトマトを取らないように、ずっと見張っていたのをよく覚えています。
家が焼け残っていれば、家財道具の一部や着物などと食べ物を物々交換することができたのかもしれませんが、全てが焼けた私たち家族には、食べ物を得るための品物は手元に残っていませんでした。
 
●戦後の生活
1945年の冬になると、母が手伝っていた農家の人に冬には仕事はないと言われ、母は二番目の兄に相談し、伯父の妻の実家があった十日市に四畳半ぐらいのバラックを建てて、そこで生活することになりました。

父のやけどは一向によくならず、人の肩を借りないと立てないような状態で、仕事に復帰することもできず、毎日どぶろくを飲んで、その後13年ぐらいで亡くなりました。

母は仕事ができない父に代わり、一家の柱として働いていました。当時、榎町には問屋街がありました。そこの人に頼んで野菜を安く仕入れ、家の前で戸板に野菜を並べて売ることで生計を立てていました。人通りはまだまばらだったように思いますが、それでも買ってくれる人はいました。

私は本川国民学校に通うことになりました。モンペにわら草履で通ったと思います。爆心地から500メートルしか離れていない国民学校の校舎は鉄筋がむき出しで、勉強した記憶はありません。毎日一列に並ばされて、DDTを真っ白になるまで吹(ふ)きかけられていました。食べるものがなく、ずっと体調は悪かったです。

6年生のとき、担任の先生から、祇園の大下学園は原爆の被害がほとんどなく、いろいろ揃っているので、そこに通ってはどうかと勧められ、進学しました。十日市から横川駅まで歩き、そこから祗園駅まで電車に乗って通いました。ただ、母にえんぴつやノート、消しゴムなどを買ってほしいとはどうしても言えませんでした。母はなんとかお弁当を作ってくれましたが、おかずは毎日、味噌だけでした。大下学園には、原爆の被害をあまり受けていない沼田地区から通うお金持ちの子どもが多く、自分とは全く違う境遇の子どもたちばかりでした。
 
●中学を卒業して
中学3年の時に先生と相談して、進学はせず、仕事を探そうと職業安定所に行きました。戦後でしたし、職業安定所にはとても多くの人がいました。係の方から、女の人が働ける仕事としては、和裁や洋裁、学校の先生、看護婦、美容師ぐらいしかないと言われ、私は美容師を選びました。当時、美容師になるためには、美容院に住み込んで技術を習得するしかありませんでした。

私が大下学園に通っていたころ、十日市の家を引き払わなければならなくなり、引き揚げてきた人たちが住んでいた白島九軒町の土地を半分借りてバラックを建て、そこで生活していました。母に相談して美容師になることを決め、八丁堀の美容院の先生のところに行き、住み込みで働くことになりました。白島九軒町から、自分が手配したリヤカーで荷物を運び、八丁堀に引っ越しました。店には、すでに8人の年上の弟子がいて、中には未亡人もいました。休みもほとんどなく、美容師の仕事よりもお手伝いのような仕事ばかりさせられて、まったく店には立たせてもらえませんでした。

そんなとき、美容師には国家資格が必要だということが分かり、その国家資格を取るために、宇品にある職業訓練所に通うことになりました。職業訓練所には、当時、8つ程度の科目があり、その中に理容も美容もあったと思います。八丁堀の美容院を辞めて自宅に戻り、1年間勉強して、国家試験に合格することができました。再び、八丁堀の美容院に戻りましたが、相変わらず店には立たせてもらえず、お手伝いのようなことばかりしていました。そんなとき、同じ訓練所に通っていた人と偶然会い、仕事のことを聞いてみると、すでに店に立って働いているというのです。私も美容師として働きたかったので、八丁堀の美容院を辞め小さい店に移りたいと伝えると、先生に烈火のごとく激怒され、うちを辞めるなら広島では仕事をさせないと言われました。

これからどうしようかと母に相談したところ、数日考えてみるとのことでした。母はこれまでいろいろと相談に乗ってくれた兄に、事情を説明したのでしょう。それならば、東京にある山野高等美容学校に通ってはどうかと勧めてくれました。学費など負担は大きかったと思いますが、18歳の時に、顔が真っ黒になるような蒸気機関車に乗って、一人で上京し、代々木にあった学校に通うことになりました。同級生たちは、実家が美容院をしている裕福な学生が多く、夜食を食べたり、休みの日には銀座に遊びに行っていたりしましたが、私にはお金がなかったので、みんなとは別に、部屋でじっと過ごしていました。そんな中で先生は、私が勉強を頑張っていたこと、また、広島の美容院での奉公時代に、美容師に必要な衛生的な知識について、風呂焚きのときに勉強して暗記していたことをわかってくれていたのでしょう。卒業後には、卒業生の美容院や大阪や九州などで仕事についてはどうかと、いろいろと紹介してくれました。

就職先を考えているころ、母から、広島での生活が厳しいので、みんなで東京に引っ越す考えがあるという内容のはがきが届きました。学校にだけ通っていて東京の地理や事情などに詳しくない私は、家族が東京に来ても困るだけなのではないかと思い、卒業後は広島に戻って自分の店を出す方が良いと考えました。店を出すお金はなかったので、開店にかかる費用の全てを借金して、白島九軒町にあった自宅の一部を美容室に改装して開業しました。21歳の時でした。母が開店前に1回だけ、東京の山野高等美容学校を卒業した人の美容院ができるという広告を出しました。これが効果的で、多くの方の興味を引いたのでしょう。どんどんお客さんが来るようになりました。待ち時間が三、四時間あっても待っていてくれるのです。お客様がいるから、朝7時から夜の11時ぐらいまで、ほんとうに休みなく働きました。当時、お正月などは、朝まで働きました。一人で美容室を回すことはできないので、仲介業者さんに頼んで、見習いの弟子も取りました。とにかく仕事をするしかないので、それ以外の食事や洗濯などの世話は母がすべて担ってくれました。テレビドラマの「おしん」以上に働きました。男の人が一生かかっても稼げないぐらいのお金を稼ぐほど働きました。そして、弟二人と妹が学校に通う面倒も全て私がみました。22歳ぐらいまで、10円玉大の赤紫の斑点が出たり、体調が良くない日もありました。被爆のせいかどうかはわかりませんが、結核や肺炎なども患いました。そんな中でも、とにかく一生懸命働きました。

働きっぱなしの生活だったので、30歳ぐらいで普通の生活に憧れを持つようになり、結婚も考えるようになりました。そして、美容師を辞めてもいいという男性と巡り合い、結婚しました。転勤族だった主人と一緒に、九州や山口、岡山などで生活しました。その間に、2人の息子を授かることができましたが、長男は体が大変弱くて、なかなか幼稚園に通う体力がありませんでした。

夫はたいへん優秀な人で営業成績もよかったのですが、ある時、株に手を出してしまい、これまで私が働いて一生懸命貯めた全財産を一夜にして失いました。夫も私もひどく落ち込みましたが、母から、最初からお金などなかったと思って生活しなさいと諭され、なんとか生活していました。しかし、その2年後、夫は交通事故に遭い、即死してしまいました。

夫の死後、二人の子どもを抱えてどうやって生きて行こうかと広島に戻ってはきましたが、皆、それぞれに生活があり、頼れる親族もおらず、最初は、倉庫のような雨風をしのげるだけといった場所で生活を始めました。働き口を探さねばと職業安定所に通い、どうにか寮母の職を得て、二人の息子を中学校までは卒業させようとその一心で一生懸命働きました。30年ぐらい、寮母をやったと思います。息子たちは立派に育ってくれました。
 
●今、思うこと
これまでの人生を振り返ると、天国も地獄も味わいました。本当にいい人にも、悪い人にも出会いました。神も仏もないなと思うのですが、毎日、朝晩、なぜか手を合わせています。人間は、昔から戦い続けてきました。だから、それが原爆だとしても、戦争だとしても、コロナだとしても、生きている限り、戦いは続くのだと思います。人間は、きっと、地球が破滅するまで、なにかしら戦い続けるのでしょう。

私は、今度生まれ変わるなら、戦いばかりの人間ではなくて、殺し合い、戦い合いをしないセミのような存在になりたいです。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針