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目の底に焼き付いた女の人の顔 
脇田 ヱミ子(わきた えみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市己斐町(勤務先) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の暮らし
私は、広島県佐伯郡石内村(現在の佐伯区)で生まれ育ちました。現在の広島県運転免許センターの北西側にある山のふもとです。被爆当時の森下家(私の旧姓)は、祖父と父の謙一、母、兄が2人、私(14歳)、2人の妹、2人の弟の10人家族でした。農業で生計を立てておりました。当時、兄は2人とも出征して家にいませんでした。長女の私は田んぼの手伝いも下の兄弟の子守りもしていました。
 
石内国民学校高等科を卒業間近のころ、学校に広島陸軍被服支廠で2名公務につくよう命令がありました。先生は私に「出征だけがお国のためではない、農業をする家族を支えることも国のためになることだ」と家業を続けることも選択だと言ってくれました。母に伝えると、母は戦争に勝つと強く信じており、「兄も出征しているのだからあなたもお国のためになるように。農業は私たちで行うから。」と言い、私は被服支廠へ行くことになりました。私は、元々内気な性格で、家から出たいとは思っていませんでした。最初に被服支廠へ行った日は入り口に立つ門番が怖くて、近くにあった火消で崩した家の門扉の陰から様子を伺い、なかなか入ることができませんでした。
 
●被服支廠での生活
昭和20年(1945年)4月1日から15日までの間は、出汐町にある被服支廠で訓練・教育を受けました。軍人勅諭を暗唱するなど、軍隊のことを教わりました。そして、16日から己斐町の作業所へ配属となりました。場所は、今も残っている旧日本麻紡績給水塔のすぐ近くです。作業所では皮から軍足の型を取る仕事が行われており、私は仕上げ作業の担当で、毎日ヤスリで物を磨いていました。女がやることとは思えないような仕事でした。私はミシンを使うことには慣れており、兵隊さんの服が縫えるとばかり思っていたので少しがっかりしました。
 
作業所内にあった寄宿舎では、私を含む幼年工7人と、部屋長さんと寮長さんの9人が1つの部屋で生活をしていました。軍の施設でしたが食糧は乏しく、寄宿舎の友達ともよく「お腹がすいたね」と話していたのを覚えています。休みの日に許可が貰えれば、たいてい実家に帰っていました。実家に帰れば食べ物があったので、はったい粉を貰って、寄宿舎に帰って塩を混ぜて食べていました。
 
軍属のため、罰則は軍人と同じで厳しく、許可を得ずに外出すると脱走になりますし、町で憲兵に会ったときに敬礼しないと重営倉に入れられるので、ものすごく怖かったです。
 
●被爆の瞬間
8月5日の深夜に空襲警報が出て、寄宿生全員で寄宿舎の横の広場にある防空壕に避難しました。その夜の警報はいつもと比べて長かったため6日の朝は通常より30分遅い8時30分から仕事に取りかかるよう指示がありました。
 
私は仲間と一緒に朝食を食べて、いつも通り8時に出勤しました。職場に入り、仕事の準備をしていたところ、突然窓の外が光りました。ふだん仕事をしている際に、職場の窓から宮島線の電車が見え、たまに送電線が光るのを見たことがありましたが、その光とは違い、「この光は危ない!」と感じました。急いで防空頭巾を取ろうとした瞬間に、ドカーンと大きな音がし、頭巾を頭に乗せてその場にうずくまると動けなくなりました。屋根が落ち、レンガがくずれてきて、「このまま私は死ぬるんじゃないか」と思ったところ、上官に「仕上げ台の下に潜り込め」と言われ、仕事道具がいっぱい詰まっていた仕上げ台の下にどうにかして潜り込みました。
 
辺りは明かりが消えて、仕上げ台の下にいる他の人の顔もはっきり見えないくらいうす暗かったです。何が起きたか分からず、怖くて怖くてどこでもいいから安全なところに行きたいと思い母の名を呼びながら泣いていると、周りからも他の幼年工だと思われる大声で泣く声や、うめき声が聞こえてきました。物音がしなくなり静かになると、上官から自力で動ける者は外に出るように言われ、がれきの中を通れるところを探しながら外に出ました。
 
外へ出ると、どの建物も全壊か半壊しており、目に入るものはみんな壊れていました。少し離れたところにある小さい工場の屋根が燃えており、工員さんがバケツリレーで消火活動に当たっていました。そうした中で、2階建ての寄宿舎だけが壊れずに建っていました。仲間たちと大喜びして、部屋に行って食べ物や荷物を取ってこようと、走ろうとしたとたん、寄宿舎が斜めにグラっと傾き、そのまま潰れてしまいました。幼年工どうし、みんなで大泣きしました。
 
●避難してから見たもの
どれくらい経ったか、雨が降り出し、その雨が白っぽい服を着ている人に当たると、服に黒いシミのような汚れが付きました。「これは空から油をまいたためで、今から焼夷弾が降ってきて皆焼き殺されるんだ」と仲間と騒いでいる間に雨がだんだん強くなり、上官からの命令で防空壕に避難しました。
 
私は、仕上げ台の下に潜ったおかげで大きなけがはしませんでしたが、どうやら被爆の際に飛んできたガラスで肩を切ったようです。ただそのときは肩を切ったことには気がついていなかったので、人から「肩に血がついている」と言われても「きっと他の人の血がついたのよ」と答えていました。
 
雨が止むと川土手へ避難することになり、山手川の土手へ出て、河原に避難しました。土手の下には重傷者がたくさん寝かされていたのですが、その中でも目に入ったのは、太ももが潰れ、骨や筋が見えるほどのけがを負い横になっている男性で、おそらく上官なのか、そんな状態でもまだ口では命令を出していました。
 
しばらくすると、また雨が降りだしたので、重傷者のために寄宿舎の布団を運んでくることになりました。部屋長さんと一緒に倒れた寄宿舎に戻り、みんなで柱を動かして板をはぎ、布団を引っ張り出しました。私は、そのときに草履越しに大きな釘を踏み抜き、足をけがしてしまいました。痛かったのですが足を引きずりながらも布団を運び、重傷者にかけ続けました。
 
午後になり、雨が止んで作業所へまた戻ることになったのですが、そのときの体験が忘れられません。道を半分くらい帰ったところ、遠くに何か黒い塊のようなものが見えてきました。近づくと、それは赤ん坊を抱いた女の人で、「私はもうだめだから、この子を安全なところに連れて行ってください」と必死に頼んでこられました。寄宿舎も作業所も壊れているし、幼年工の自分たちが預かったところでどうすることもできないと思うと私たちは赤ん坊を預かることも助けることもできませんでした。それから何年たっても、その女の人の顔が忘れられません。顔は腫れ上がり、目はつぶれ、唇はベロっと膨れ上がり、声もしゃがれて、やっと絞り出すような声で一生懸命頼まれました。その顔が目の底に焼き付いて、いつまでも離れなかったです。「助けてあげられなかった、これが戦争なのか」と今でも思い、悔やみます。
 
●差し入れのおにぎりと赤い広島の空
作業所に戻ると、人員の調査が行われていました。作業所の周りの塀が壊れてなくなったので外へ逃げていった人もいましたが、呼び戻されていました。壊れたものを片付けてできた広場の土の上にシートを敷き、その晩はそこに寝ることになりました。夕方になると、差し入れで、大豆の入ったおむすびが届きました。小さなおむすびでしたが、みんなに1つずつ配られ、私はおむすびを手に持ったとたん、朝から何も食べず水も飲まずにいたことを思い出しました。大きなやかんに水をいっぱいくんで持ってきてくださったので、水を飲みながら仲間と「おいしいね」と話して食べました。その晩は、シートの上で横になって休む人もいれば、シートに座ったままの人もいました。私は仲間とずっと座ったまま、広島市内が焼けて空がものすごく赤くなっているのを見ながら、恐ろしくてなかなか眠ることができませんでした。
 
翌朝、幼年工は全員広島県佐伯郡観音村佐方(現在の廿日市市)に行くように言われました。佐方にある山陽高等女学校で被服関係の仕事が行われていたからです。軍需品などを保管する大きな倉庫があり、私たちは倉庫内の物品の外干し作業を命じられました。夜は洞雲寺で寝泊まりしていました。
 
足のけがが化膿して、うみを自分で出すのがとても痛かったです。しかし救護所に行っても重傷者ばかりだったので、日頃から持ち歩いていた塗り薬をつけて、自分でどうにか治しました。
 
●帰宅
佐方にいる間、一泊だけ家に帰らせてもらうことができました。家に帰って、被爆してから初めてお風呂に入ることができました。それまでは、着のみ着のままで過ごしていたのです。家族はみんな無事で、父は6日に私を捜しに市内に入り、己斐の被服支廠までたどり着いたのですが、現場は混乱しており会うことができませんでしたが、私の無事は分かったので、家族もひとまず安心したそうです。
 
私の家は爆心地から随分離れた場所にありましたが、被爆当日、家にものすごい爆風が吹いたそうです。母屋の戸や障子は母が開け放っていたので、爆風がじかに家の中に吹き込んで、天井を屋根裏まで吹き上げ、納戸のガラス戸の開いている所から外に出て、母屋の横の赤土蔵につき当たり、重たい赤土の扉を倒したそうです。母屋と並んだ納屋の2階は窓を閉めたままだったので、ガラス戸2枚が粉々に壊れ、ガラスが壁や畳に突き刺さったそうです。私はいなかったので見ていません。後に家族から聞かされた話です。
 
●終戦
8月15日以降は、軍の仕事をすることはなくなり、雑用を任されました。31日に出汐町の被服支廠へ全員集められ、長い訓示があった後に解散式があり、私たちはそれぞれ自宅に帰ることとなりました。
 
石内村の家に帰ってからは、親に「ゆっくり休みなさい」と言われて気が抜けたのか、とにかく体がだるくなってしまいました。診療所に行くと、どこも悪くないと言われて、薬をもらいました。それから髪を洗うたびに髪の毛が抜けるようになりました。「しまいには坊主になるのかね。」と心配していたら、薄くなった状態でどうにか止まりました。もうこのまま髪の毛が生えてこないのだと思っていたのですが、いつの間にか元に戻っていました。
 
戦後は、家の手伝いをしながら和裁を習っていました。20歳で結婚し、結婚の際は、夫の弟の妻も被爆者でしたので、夫の親族から特に被爆のことを聞かれることはありませんでした。息子と娘を出産した後、30代のときに、盲腸が癒着したため腸の手術をしました。1年後に切ったところが痛み出し、再度手術することになったのですが、絶対安静が何日も続き、手術後1か月も入院することになるほどの壮絶なものでした。
 
●平和への思い
私は、この平和な時代に生まれ育った若い人や子どもたちには、絶対に戦争をしてほしくありません。戦争さえしなければ、広島や長崎に原子爆弾が落とされることはなく、日本中の大都市が爆撃され不幸な人がたくさん増えることもなかったわけですから。戦争が一番良くないと思います。この平和をいつまでも続けるためには、戦争は絶対にしてはいけません。 

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