八月六日、広島・幟町カトリック教会。八時十五分、ちょうど聖務日禱書をあけて祈りはじめたとき、ピカッと光った。「ああ、爆弾」と、何度も訓練していたように、本能的に床に伏して手を頭の上にあてた。部屋中の物が飛んだり落ちたりする。やっと靜かになったので頭をあげると、目の前の壁であった所が大きな穴になっている。壁は飛んでいったが、グロッパー修道士の地震国日本を考慮した設計のおかげで、木造の骨組はしっかり残っている。
外へ飛び出すと、ラサール神父、シファー神父、クラインゾルゲ神父の三人がつったっている。それから伝道士の家族(主人と長男は県庁へ出かけたまま行方不明)と幼稚園の二人の先生と隣家に居た婦人とを、やっと掘り出すことができた。
一時間も経っていたであろうか、聖堂の裏手から火が迫り、もう一部が燃えだしている。
「さあ逃げよう、近くの公園へ… … 」
逃げる途中、栄橋で通交止めをしていた警備団の人たちに、もう行きたくないと頑なに拒んで動かない深井さんを頼んでから私たちは、崩れた家を乗り越え乗り越てやっと浅野泉邸(今の縮景園)にたどりついた。そこにはもう大勢の人が避難していた。
午後二時か三時ごろ、ようやく火事が下火になったのでクラインゾルゲ神父と私は、一度、教会まで戻った。司祭館は完全に燃え尽きている。崩れた聖堂などは、まだくすぶっている。
さて、防空壕からお米の入った非常袋をひっぱりだし、庭で見つけた焦げかけのカボチャを拾って公園へ戻った。他の人も同じように持ってきたので、見知らぬ同士の婦人たちがグループをつくって、皆のために御飯を炊いた。
あちこちに、負傷者、ひどく火傷をしている人、そして死にかかっている人が横たわっていた。
私たちも、とうとう疲れ果てた。シファー神父は背中に数えきれないほどのガラスの破片を受けて、倒れていた。ラサール神父も足に大けがをしていて、出血のため横になった。
午後四時頃、私たちは、一緒に来ていた竹村神学生を郊外にあるイエズス会長束修錬院に派遣し、私たちの避難所と様子を知らせた。暗くなった。修錬院からの「援助隊」を待っていたので、私は道案内のため迎えに出ていた。一時間ほど或る道筋で待っている間、逃げていく人、ひどく火傷を負った人、失明した軍人の一部隊が通ってゆく。
やっと修練長のアルペ神父と数人の神父たちが到着した。アルペ神父は以前は医学を勉強していたので、さっそく応急手当をほどこし、もう歩けなくなった二人の神父を担架に乗せて、私たちは修錬院へ向かった。そこには、街から次々と逃げてきた負傷者、特にひどい火傷をした人が九十人ほど横たわっていた。アルペ神父は、この火傷が普通のとは違って、ある特殊なものだと直ぐわかった。しかし、適当な薬もなく治療法も不明であったので、「自然の力に任せる」方法に決めた。ただ毎日、傷を硼酸で洗い、包帯をとりかえることにした。その包帯もなかったので、修錬院のベッドのシーツや食堂のテーブル掛けを全部切って、包帯を作った。そして不思議なことには、すでに死にかかっていた一人を除いて、九十人はみな、回復して帰った。翌日、神父たちはまた街に出て救済に働いたが、私はその日は休んだ。
八日(水)には、クラインゾルゲ神父と私は朝早くから、信者たちの様子を調べに街へ出かけた、胸に御聖体を持って。クラインゾルゲ神父は南を、私は北を回った。北のほうの牛田町などは、家屋はかなり傷んでいたが人は無事であった。そこから私は、広島駅辺りを経て逓信病院などを回ってみたが、逃げる途中で別れた深井さんについて、何らの手掛かりも見出せなかった。夕方、やっと修錬院に帰った……。
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