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ヒバクシャからの手紙 
中島 辰和(なかしま のぶかず) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
天国の親父さんへ

親愛なる親父さん。親父さんが天に召されてから二五年経ったね。美しい花園で静かな日々を送っているのかな。暑い夏の季節になると、あの忌まわしい原爆投下の日を思い出すよ。早いもので、六五年経ったね。あの日はお袋の体具合が悪く、親父さんが炊事当番で準備に時間がかかり、家族全員が皆実町の自宅にいたね。親父さんが代表で全身九二ヶ所のガラス傷を受け似島へ収容されたので、家族全員が爆心地をうろつくこともなく、良くないガスを吸わなかったのでその後も元気に過ごすことができたと思うよ。

しかし、親父さんにとっては、あの日が新たな苦しみが始まった日だったのだね。親父さんは、子どもたちの縁談に影響があってはいけないと、被爆者であることを隠し、被爆の話も一切口にしなかったし、爆心地へも慰霊式典へも行くことはなかったね。テレビの前で静かに式典の映像を見ていたことが、私の心に焼きついているよ。子どもたちの幸せを願う親父さんの尊い気持ちと思ってきた。しかし、それだけではなかったのだね。原爆で大怪我をした親父さんは、似島の収容所から帰った後も仕事へ戻ることは許されず、私が牽くリヤカーに乗って近所の診療所へ通院していたね。

親父さんが勤めていた役所は八丁堀の福屋の六階だったか八階にあって、当日休暇を取っていた二、三人の親父さんの部下の方が事務所の後始末に急遽出勤し、吸ってはいけない放射能を含むガスを吸い、脱毛や歯茎からの出血など原爆症特有の症状を起こし亡くなられたね。本当に真面目な親父さんにとっては耐え難いできごとであったろうね。

親父さん、覚えているかね。戦後、基町に移ってからのある暮れのこと、某会社から大きなお盆に山盛りに積まれた蒲鉾が届けられた時、留守番していた子どもたちはひもじさに耐えられず、長男の私の責任で食べてしまったことがあったね。帰宅した親父さんは、私を咎めることなく、菓子折りを付けて某社へ返しに行ったね。私にとっては、怒鳴りつけられるより厳しかったよ。このような、まさに実直を地でいく親父さんにとっては、身代わりとも思える部下の方々の死が親父さんの心に治すことができない大きな傷をつけたのだと思うよ。被爆から六年後、キャリアの道を捨て、徳山の会社へ移り、後に、東京へ戻ってきたね。後年、原因不明のできもので皮膚科にかかっても、私が口添えするまで被爆者であることをかくしつづけていたね。

二五年前、親父さんは多発性脳梗塞で一瞬にして帰らぬ人になったね。天国で犠牲になった親父さんの部下の方々と会い、心からの詫びをいえたのではないだろうかと思うよ。

原爆は一瞬に十数万人の人の命を奪い、被爆特有の病に六五年経った今も苦しんでいる多くの被害者を作った恐ろしい爆弾だけど、親父さんが受けたような心の病を多くの被爆者に与えた、まさに非人道的な兵器であり、絶対に使われてはいけない兵器だと思うよ。

親父さん、もう、六五年が過ぎた。夢の中でいいから、親父さん出てきてよ。お互い酒は飲めない体質だけど、甘いお菓子でも食べながら歓談しようよ。親父さんが喜んで飲んでいた自動販売機のオレンジジュースを飲みながらでもいいよ。

安らかに眠ってくださいね。

合掌
  

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