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母の献身的な愛に支えられて 
松田 實智榮(まつだ みちえ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所 広島市南竹屋町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立第一高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●戦前の暮らし
昭和二十年当時、広島市立第一高等女学校(現在の広島市立舟入高等学校)の二年生で、十四歳でした。

私は父、母、弟と私の四人家族で、広島市の江波に暮らしていました。父・規義は呉市出身で、大阪商船の船長をしていました。船が呉の港に帰ってきたときには、母・はな子と弟・広見と三人で呉まで会いに行きました。

弟・広見は二つ違いの昭和八年二月生まれなので、学年は一年しか離れていませんでした。弟は父に憧れて、広島市立造船工業学校を受験しました。江波からたった一人合格して、昭和二十年当時は一年生でした。思い出といってもたいしたことは覚えていませんが、弟は左利きで,食事の時並んで座ると、ひじが突っかかると言ってはけんかしていました。今だったら、入れ替わればいいだけなのに…と思いますが。

●被爆時の状況
八月六日の朝、私は爆心地から約一.五キロメートルの南竹屋町にあった学校の校庭にいました。みんなで建物疎開の作業に行く前に集合して、これから朝礼という時でした。ピカッと光った瞬間、きれいだなぁと思って振り向いたのです。そのとたん、建物が倒れてきて,粉じんのせいでしょうか、あたりは真っ暗やみになり、何も見えませんでした。

どのくらいたったかも分かりませんが、気がつくと、顔、首、腕、手など全身大やけどでした。私は後ろから原爆を受けたのですが、光った時に振り向いたので、顔は特にひどくやけどしていました。

でも、無我夢中で人について歩いて避難しました。後で聞いて分かったのですが、比治山に向かって歩いたようです。その時、どこを歩いたのか記憶にないのですが、道路に電線が落ちてしまっていたので、まだ電気が通っていると思い込んでいた私たちは、誰かが何かで持ち上げてくれたその電線の下を何度もくぐりながら歩きました。周りの他のことは全く覚えていないのですが、火の手は上がっていなかったように思います。

●家族との再会
比治山の上にたどり着いて、うわごとのように「江波の福田實智榮です。だれか連絡して下さい」と何度も叫んでいたそうです。それからは意識が薄れて、目が覚めたら、三日後の九日でした。府中町(現在の安芸郡府中町)の小学校の講堂のような所に寝かされて、「水!水…」とわめきながら、ここでも自分の名前と住所を叫んでいました。桃の絵が飾ってあったのですが、それを抱いて「桃を食べさせて!桃を食べさせて!」と言っていたそうです。そんな時に、母と叔父がリヤカーを持って迎えに来てくれました。意識がもうろうとしていて、いつ頃だったかも覚えていませんし、母に会えたという感激もありませんでした。

安心したのか、その後の記憶も定かではありませんが、江波の自宅に帰り着き、母が私を布団に寝かせてくれたことは覚えています。「これからはお母さんもずっと一緒にいるからね」と言いながら、寝ている私の周りにありったけの布団を積み上げて囲ってくれました。今度はどんなことがあっても、直接娘の体に爆弾が直接当たらないようにという親心だったと思います。また、私が「広見ちゃんは?」と聞いた時には、母は「あんたたちのかたきをとらにゃいけんから、疎開しとるんよ」と話しました。

●帰らなかった弟
うとうとしていると、弟・広見がお遍路さんのような姿で私に話しかけてくる夢を見ました。そのことを母に話すと、母は泣きながら、本当は弟・広見は市内にいるはずだが見つかっておらず、生きている人の方が大事だから、弟を捜すのは諦めて私の看病に専念していたと話してくれました。家に連れて帰ってもらったときに母が弟は疎開していると言ったことは、私を思いやっての嘘だったのです。

弟は市内の中心部で建物疎開作業をしていたようです。爆心地ですから、先生も生徒も一人残らず亡くなって、遺骨も何もないのです。弟はいつも「行って帰ります」と言って出掛けるのに、その日に限って「行ってきます」と言って出掛けたそうです。今思うと悔やまれます。

中区中島町の広島国際会議場に近い本川沿いにある広島市立造船工業学校の慰霊碑に、大好きだった箱田先生とともに「福田広見」と名前が刻まれています。

●辛い治療
おじが勤めていた三菱造船の診療所のお医者さんが化膿止めにゲリゾンという注射をしてくださいましたが、当時は医薬品が不足して手に入らない時代でしたので、まともな薬での治療はそれきりでした。

その後のやけどの治療はとてもつらいもので、母子で泣きながらやりました。私は原爆が落ちた時、光った方に振り向いたので、顔に真っ赤にひどいやけどしており、母がとにかく一生懸命処置してくれました。卵の白身をやけどに塗ってくれるのです。それが乾いてぱりぱりになったものを剥がすのですが、身まで一緒に剥がれてしまうので、それはそれは痛かったです。

一段落して、母がセーラー服を切って脱がせてくれましたが、体のやけどもひどいものでした。私は原爆の熱線を背中から受けたので、セーラー服を着ていた私の背中は、熱線を吸いやすい大きな黒い襟の部分が特に焼け焦げ、ひどいありさまでした。一番ひどいやけどをしていた顔と首、そして手などにも白身を塗って剥がして処置をしました。これを別の治療に移るまで約三十日繰り返しました。それでも、顔や首、手などにケロイドが残ってしまいました。

三カ月ほどして、血液検査もしました。健康な人の白血球の数の平均は約四千~九千ぐらいなのだそうですが、私はその時四百だったそうです。よく生きていられたと自分でも感心します。

●自立をめざして進学
戦争で、父は戦火が激しくなった頃から軍属として輸送船の船長となり、沖縄戦で亡くなり遺骨すらなく、弟も原爆に遭って亡くなったので、家族は母と私の二人の生活になりました。

戦後、市女(広島市立第一高等女学校)に通っていた私は、昭和二三年の春に学区制が変更されて、新制の二葉高等学校(現在の舟入高校)に入りました。はじめは広島女学院に行きたいと思っていましたが、かわいがってくれた英語の高田先生が舟入高校を薦めてくれたのです。当時、三十数名の普通科には女子は一人しかいなかったです。母は、私がこんな大やけどをしているので結婚もしないだろうと思ったのでしょう。卒業したら、東京のドレスメーカー学院という洋裁学校に行きたいと言いましたが、将来のことを考えて、自立できる薬科に行くなら学費を出すと言われて、昭和薬科大学に進学しました。

●母の発病
大学の最終学年を控えた昭和二八年四月の春休み。一三日は私の誕生日でしたので広島に帰っていたのですが、母が下痢が続いておかしいというので、広島帰省の最終日に、呉市阿賀にあった現在の広大病院の前身の病院に連れて行きました。検査結果は今のようにすぐには分からないので、私はその日に東京に戻りました。それからは何の連絡もありませんでした。

八月になって、同じ寮にいた柳井出身の友人が膵臓を悪くして実家に帰ることになり、寮の舎監さんから送って行ってあげてほしいと頼まれました。広島駅で停車時間が長かったので、母に電話したのです。すると、おばが電話に出て、母が大変なので帰ってくるようにと言うのです。柳井に友を送ってそのまま、広島に戻りました。

当時、薬や点滴など治療費は実費なので、工面するのは大変です。母は、自分が長生きすると医療費がかかることを案じて、「学費を送らなければならないから、食事はいらない」と言い出しました。父を失い女手一つになった母は、洋裁をしながら鶏を五百羽も飼って生計をたて、私に学費を送ってくれていたのです。公務員の給料が二~三千円だった時代に一万五千円も仕送りをしてくれていました。私は四月からは休学して、看病に専念するようになりました。

●母との別れ
荷物を片付けに東京に滞在中だった同年八月六日の夕刻から、母は危篤状態になりました。知らせを受け広島へ帰る夜行列車の窓から明かりのともった家々を見ながら「ああ、私にはもう帰る家がなくなるんだなぁ」と思うと、何ともいえない気持ちになりました。その時の寂しさやうらやましさは、今も心にこびりついて離れません。母のきょうだい十人も集まる中、母は「何も言い残すことはない。實智榮だけは学校を卒業させてほしい」と言い残し、十日の夕方に亡くなりました。大腸がんだったのではないかと思います。私や弟を捜して広島市内を歩き回り、黒い雨にも遭っていたそうですから、原爆による何らかの影響はあったのではないでしょうか。

●薬剤師の道へ
母が亡くなって、家屋敷、家具、着物一切を母のきょうだいたちに渡して、私は身一つで東京に戻りました。十人の叔父・叔母たちは母の残したお金に足し、七,五百円ものお金を卒業まで送り続けてくれました。そのおかげで私は大学に通い続けることができ、昭和二九年三月に卒業しました。看病のため休学しましたが、化学の石原教授がつきっきりで教えてくれ、特別に追試を受けさせてくれたおかげで卒業できたのです。三月末に薬剤師の国家試験を受けました。合格したときは朝日が昇る景色のような晴れ晴れとした気持ちになりました。五月には、自活するために、大学の紹介で給料の高い埼玉県入間郡の精神科(現在の埼玉医科大学)の薬局に就職しました。給料は、食住ついて三万五千円でした。

●広島に戻って
三年勤めた頃、叔父叔母たちから「年頃だし、親はおらんでも、うちに娘が一人増えたと思えやええんじゃから帰ってこい」と言われました。迷惑をかけてはいけないと思い、宝町にあった広島市の東保健所にいた先輩のつてで、広島駅前の上田薬局の管理薬剤師になりました。店舗の二階を貸してくださり、そこで暮らしながら子どもたちを教える塾のようなことも続けました。そこで昭和三一年まで勤めました。

ご近所のお客さんが見合いを勧めてくれて大竹市の夫と結婚しました。結婚してからは柳井の市民病院に勤めました。三三年には娘)が生まれ、職場が遠いこともあったので、帝人生協の売店に薬局を作る誘いを受け、三四年二月に薬局を開業し、現在まで続けています。私はもう引退しましたが、娘が経営しています。

原爆で出来たケロイドは、その頃になると顔の方はあまり目立たなくなっていました。しかし、腕の痕はひどくて、夏でも半袖を来たことがないくらいです。

原爆に遭い、必死に勉強して薬科大に行き、卒業の年に母を亡くしました。そんな大変な苦労連続の上に、やっとの思いで築いた人生でした。

 

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