昭和二〇年八月六日当時自宅は白島西中町にあり、父母、次兄が住んでいた。
私は大阪の女子専門学校の寮にいた。八月七日朝浜田に帰省していた友達が寮に帰って来て広島が全滅したらしいという話を聞かせてくれた。列車の中で兵隊さんが話していたというのである。私は七日の夜行列車に乗って八日朝広島に帰って来た。汽車は広島駅手前の海田か向洋(?)で降ろされた。
線路ぞいに駅へ出て、くすぶっている瓦れきの中を夢中で歩いた。常盤橋の饒津神社寄りの野原で、死体をつみあげて兵隊さんが焼いていた。橋を渡って白島線の電車終点を通り、白島西中町へ抜けた。一面焼野原で我家の跡もさだかでなかった。次兄が県立一中の数学教師をしていたので、そこから左へ真直ぐ行けば行けると思い、一中の方向に必死で歩いた。
国泰寺の楠がくすぶって電車が焼けて、まだ人間や馬の死体がころがっていたが、とにかく一人ぼっちになったという思いで頭の中は真白で、発狂寸前であったと思う。
一中の焼跡の中に立った時、どうしたらよいか分らなくてへたりこんでしまった。父母の実家が世羅郡吉川村黒川と敷名にある事に漸く思いつき(暫く放心状態でそれに思い至るまで、どれ位たったか分らない)今度は電車道にそって紙屋町八丁堀を経て駅に出、芸備線に乗り甲立から黒川へ行った。
父母がいたので、抱きついて大泣きに泣いた。父は会社から、母は田舎から共に一中へそれぞれ翌日兄を探しに行き、父が焼跡から兄の白骨、ベルトの金具めがねのとけたのを遺品として持ち帰っていた。
兄は数学の教官室にいて、校舎の下敷になり手だけ出して助けを求めたそうであるが、火の回りが早くて生きながら焼死したという。父は京橋町の会社で被爆、その夜は同僚の家にとめてもらって翌朝兄を探しに行った事、母は芸備線に乗っていて助かったと聞いた。
あの朝、兄は珍しく「今日は気分が悪いから学校へ行きたくない」と云ったそうだ。母が「今日は買出しに行くから、一人で寝ときんさい」というと、「一人で居っても仕方ないからやっぱり行く」といって出かけたという。虫が知らせたというのか、これに似た死んだ人の話はその後色々聞いた。
とにかく頭の中はパニック状態であの焼跡を熱いとも暑いとも思わず、さまよい歩いた惨めなあの日の記憶は思い出したくないと思いながらも、やっぱり頭の中にこびりついている。
長兄も東部ニューギニアで一九年九月五日マラリヤと飢餓の為に戦死した。
私自身大阪で広島よりもっと広い焼跡や大阪駅での爆弾投下、学校付近の焼夷弾攻撃、学校へのグラマン低空機銃掃射(機関銃をうつ敵兵の顔(めがねをかけてた)までハッキリ見えた。)等体験し、五〇年も平和が続いてる事を本当に有難いと思う。願わくばこの平和が永遠に続きますように、あの惨状が再び此の地球に起きませんように、祈るばかりである。
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