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真っ赤な太陽が落ちてきて 
西冨 房江(にしとみ ふさえ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 宇品凱旋館船舶司令部(暁第2940部隊)(広島市宇品町[現:広島市南区宇品海岸三丁目]) 
被爆時職業  
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部(暁第2940部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二十年八月六日月曜日、いつものように八時からの朝礼が終わって二階の部屋に戻り机の上に書類や筆箱を置いた途端、物凄い風が吹き抜けました。驚いて反射的に外を見た私の目に窓いっぱいに拡がった真っ赤な美しい巨大な円い物体が映りました。それは地平線に沈む夕陽の赤よりもっと奇麗な色でした。それは手の届く近くにあの太陽が落ちて来たと一瞬思った程でした。けれどその反面何かこれは途轍もなく恐ろしい事が起きたのだという思いが強く働いて外の防空壕へ避難しようと窓に背を向けた瞬間火傷をしたと思った程の経験したことのない強烈な熱さでした。書類も筆箱も天井の太い梁の上に飛ばされ部屋の出入口にあった衝立が倒れていました。防空壕にどれくらいいたか判りませんがすべては終わって了っていたのです。

あの美しい太陽と見紛った物体は世界で初めてアメリカが使用した原子爆弾だったのです。防空壕から出た私達が目にした状景は衣服は破れ火傷のため皮膚が垂れ下がった異様な姿をした人々が診療所へ助けを求める様子でした。建物の中にいた者は別として外を歩いていた人は建物の陰にいた人を除いて全て火傷をしていました。私が勤務していた暁第二九四〇部隊司令部内の管理部は炊事と経理が仕事でした。二十名ばかりの事務員と筆生は殆ど郊外に疎開して部屋には中尉と少尉と旅費を担当する私だけでした。爆心地近くにあった西部第二部隊の生き残った負傷兵が次々と運ばれてきて凱旋館や広場に収容されました。

その日市内は燃え続け私達は不安の一夜を過ごしました。市内の状況は調査に出かけた兵隊さんの報告で判った処もありました。全滅と聞いて泣き出す人もいましたが私は焼けていないと知り内心安堵しました。

翌七日午前十時すぎ防空頭巾を背に筆生数名で各自の家を探し廻りました。昨日まで毎日通勤した街は何一つ遮る物のない「一望千里」の世界でした。御幸橋を渡った辺りから真っ直正面を向いて歩いている私の視野に否応無しに無数の死体が入って来るのです。電車も熔けたのでしょうか確認出来ませんでした。爆心地に近づくにつれ黒焦げの死体やアフリカ先住民そっくりの縮れた髪の死体そしてそれらの顔は皆腫れあがっていました。これは人体の水分が高い熱を受けた為瞬間に膨張したものだと云います。目を蔽いたくなるこれ等の現状は将にこの世の「生地獄」という言葉が適切だと思いました。相生橋から川を見た時沢山の人達が浮かんでいました。熱さに思わず飛び込まれたのか熱風で吹き飛ばされたものか何れにしても惨い有様でした。橋の上には長靴だけ身に付けた騎兵の方が乗っていた馬の傍らに倒れていました。馬は全身異様に膨れ上がり今にも張り裂けそうな様子でした。沢山の死体の中で橋を渡って土橋の方へ歩いていく途中防火用水槽の中に珍しく和服姿の母親が赤ん坊を抱いて入っているのを見つけました。外傷も勿論火傷もなくまるで生きているようでした。建物の中から逃れて思わず飛び込んだのか爆風で飛ばされたのか何も判りませんが年数を経てふと思い出しあれは幼な子イエス様を抱かれたマリア様の像を彷彿とさせます。数多くの様々な人達の死を見届けながら宇品の建物の中で感じたあの熱さを思い出しこの人達は何んなに熱い思いをなさったんだろうと胸が痛みました。土橋からわが家へ向かう途中舟入町で多数の韓国人が太陽に照らされて物も云わず坐っていました。あの人達はその後何うなったのだろうと折に触れては思い出し心を痛めております。

舟入川口町のわが家もどぶ川を隔てた東隣の小学校も燃焼は免れたもののペシャンコに潰れておりました。二階の床が階下に落ちて座敷は土砂に埋れていました。玄関の硝子戸は粉々に砕け散り鴨居に沢山突きささっていました。台所の畳も足の踏み場もない有様でした。前日お腹を壊した長男を市内の小児科で受診させる為疎開先から出て来た姉は風呂場で洗濯物をしていて硝子の破片で顔に少し傷を負っていました。母も孫も何事もなく唯ひとり父だけは出勤途中土橋で乗り換えの為電車のステップに足をかけた瞬間満員の人影が幸いして僅かに右耳の付け根のそばをそら豆大の火傷をしただけでしたが目に見えない放射能を全身に浴びた事で土蔵の下敷になった勤労奉仕の人々の助けを求める声を耳にしながらも、自分自身苦しみ乍ら死ぬ思いで通常三十分くらいの道程を六時間以上の時間をかけてわが家に辿り着いたと云います。その直後から高熱に苦しみ家にあったアスピリンを飲んだそうですが食欲もなく身体の節々が痛み八月十五日午前七時すぎ敗戦を知らずして六十八才の生涯を閉じました。

家族の無事に安堵し再び宇品へ引き返した私は毎日負傷兵にお粥や冷凍みかん等を食べさせてあげる介護を続けていました。その大勢の負傷兵の中に奥様と思われる方が付添っていらっしゃいました。こんな混乱の中で何と幸せな方だろうと思わず目を向けたところその女性が私の名を呼ばれたのです。驚いて側にかけよると「主人です」と負傷兵を私に引き会わされたのです。よく見るとその方は私が前に勤めていた学校の先生でした。応召されて大本営のある広島城でお仕事中被爆され建物の下敷になられたのでした。鼻が木片か何かで割られたように真ん中で上下に分かれていました。先生のお名を呼んでみましたがもとより意識はなく唯しきりに譫言を仰っていました。責任感のお強い方でしたからきっとお仕事の内容を伝えていらっしゃるのだろうと推察致しました。別の負傷兵の中に幹部候補生で比較的元気な方がいらして母が京都にいて京都はとてもいい処だから遊びに来てください。ご案内します。等とお話になりましたが次々と筵をかけられて亡くなった方々は岩壁でまとめて兵隊さんが焼却していました。何十年も経てあの時住所をお聞きしてお家の方へ最後の様子をお知らせして差し上げれば良かったのにと後悔したことでした。

程なく八月十五日の敗戦を迎えましたが十月一日の復員式まで勤めました。

父が苦しんで逝ったお蔭で今日八十一才まで元気に過ごさせていただいていると感謝しております。

 

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