はじめまして、今年は例年になく暑さを感じます。皆様方毎日お仕事御苦労様で有難うございます。
早速ですが、この度、中国新聞で知りました。これからつらづら書きになると思いますが、あの日の事を聞いて頂きたい永年の思いを、ありのままの文章で記していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。
私は昭和二〇年四月に(現南区)大河国民学校を卒業、同級生のほとんどは、あの日にあわれ、家庭の事情であこがれの女学校にはいかれず、数人の友と高等科へ・・・・・・勉強らしい事は一度もなく、手ばた信号とか、学校のまわりの雑草を干したりの毎日でした。度々空しゅう(けい報)に会い、両親が私の下に二年生を頭に四人の弟、亡くなった祖父の八人暮し、当時低学年(六年生まで)はそれぞれに疎開をしていましたが、何故か両親が何の私に話もなく、突ぜん学校にお願いして私の立場は疎開は出来ないのに小さい弟がいる為か、私の下、小学二年生と五才の弟三人で、祖父に連れられ母方の実家(元加計町)殿賀村の山の中五軒の部落に忘れもしない、あの日の丁度一カ月前(七月六日)にきょうだい三人お世話になっていた時あの日とあいました。
広島市は焼け両親は何の連絡もなく丁度一週間後、父が祖父のお骨を胸に坂道を登って来る姿を遠くから知り、生れて初めて父に抱きつきました。投下後一週間は言葉では現わせない毎日でした。一夜あけ、母は末っ子の生後二カ月の弟をケープで首をしっかりささへ三男を連れて、本当に両親にあえ、あの時は祖母に気がねし乍らの私達三人は、生き生きしていた事を忘れられません。比し、祖父は的場町あたりから旭町の家にたどりつきました。これからが本当にあの日にあった私達の苦しい終戦後の生活です。お話を聞いて頂きたいと思います。
先ず私は高等科一年の学生、あわただしく友達と別れ、学校から帰り道、幼い友とずっと(となり同志)一緒だった友に、私が疎開するので野田さんは非国民と云われその後、進学された友はほとんど亡くなられたと聞き以後、大河国民学校の事は忘れようと思い、田舎で新制中学にも入学していません。まずしかったので、話が前後になりましたが、祖父は私達三人をいつまでも預けっぱなしで、いつまで続くか判らない時節とりあえず私達三人を祖父の故郷(現戸河内町)へ連れに行くため荷物を送ろうとして広島駅に向っていた時に「ピカッ」と、母の言葉を忘れていません、全身ほとんどヒフがたれ下がって頭から血がふき出て、やっと両親に会った時、祖父は「やられたヨ」と云って水をくれと一口飲み、ありがたうと、かすかに云ったそうです。と同時にトラックが死人を乗せようとしたのを配給で手許のタバコを差し上げやっと、父母の手で火そうをして貰った次第です。当時は、死体は山積で火そうされたそうですね。祖父との最後は弟と三人を疎開先まで連れて行って貰った事が最後です。
身体の弱かった父、孫は五人、祖父も大変だったと思います。特に女孫の私はよく可愛がって頂き、下の弟達はあまりおぼえていない様です。おぢいちゃん私達を守ってくれた中、戦争のぎせい者です。父母に言った「やられたヨ」の言葉は忘れられません。
それから親子六人、父の故郷、上殿村に借りてのあった家での生活は皆様も同じで言葉に表せません。農家の人と疎開者と同時に父母と二人の弟は旭町から市内を歩き横川から何とか母の実家へたどりつき、今思えば放射能は沢山体に入っていますヨネ、父は翌二十一年十一月二四日苦しみ続け、たった一個のリンゴも口にせず母に五人の子供を頼むと云ってあの世へ。父は毎日村はずれの一軒のお店へ私にリンゴがあるかと、店に行かされました。弟を背に、今日も店に行ってもないのにと思い乍ら通い続け「なかったヨ」父は「ほうか」と淋しそうな顔、又、亡くなる数日前から五人の子供にそれぞれ言葉を残しました。
私にはまわりも疎開者の人、父親がいない人が沢山おられ、お母さんを助けてくれと、まあ十三才になった私には全部はむずかしかったけど八〇才になって、しみじみと父の無念を感じます。
母には子供を頼むと何度もいい乍ら・・・・母の苦労は三二才で五人の残された子供、これについても苦労は言葉になりません。当時、昭和二一年まだ田舎には原爆の事については国や市の支援は何もなかった様に思います。十三才の私には、毎日母を助け、おかゆばかり作った思い出ばかり、母は洋裁をしたり農家の手伝い、実家へ芋類等貰ったり、母は実家のおばさんやばあちゃんに、さいごまで感謝していました。
今、長男で七六才になった弟とお嫁さんは母をとても大事にして、長生きしてと、いつも云って四年前に神田山のホームで九六才迄、お世話になり、祖父、父の許へ・・・・・。
昔は進学出来なかった事を不足に思い、その折々に一人娘にぐちっていました。娘はそのおかげで私が今生きているのだからと、云ってくれます。
私も沢山の持病を持って、高齢者になり、病院のお世話になっていますが父は一度も診察を受けず、この世を去り、母は父の分迄長生き出来ました。けどフッと思い出します母の言葉、明日の米がない子供達にどうして食べさせようかと、ねむれぬ夜が何度もあったと・・・。
母は最後にあんたが娘の子で良かった、何でも話せて聞いてくれて有難う、母は男の子ばかり四人お腹を痛めたのです。私からもゴメンネ、母を困らせた事と思います。
録市ぢいちゃん、父、母、本当に有難うございました。
つまらぬ文字、文章、私のありのままの気持です。そうそう母は私の娘を連れて、八月六日にはよくお参りをしていました。五六才になった娘は戸坂(市営住宅)のばあちゃんの話をよくします。ちなみに七六才になった弟は元気にしてお先祖のお守りを良くしてくれ、中学卒業後は母を助け父親代りに職人となり、本当に感謝しています。
二男は不幸にも肺ガンで嫁と母を追う様に天国へ、三男は「あの日」にあって、胃を三分の二の手術、生後二カ月足らずの四男は全身の手術をうけ、一人で暮しています。長男の弟はこの方へも良く面倒を見てくれ、私は何の役にも立たず、長男夫婦には感謝しています。お盆には想い出のリンゴをお供えしています。
もうすぐあの日がやって来ます、歩行も困難な私でも現在ある「幸せ」を感謝しつつ、娘夫婦にお世話になりながら、亡くなられた多くの人の生命までお祈りし乍ら生かされていきます。
つまらぬ文面で恥しいのですが、市民の一人として色々とお世話になり、有がたく思い感謝してまいります。
どうかこんな機会をあたえて下さって有難うございます。
七月二十九日
佐々木峯子
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