原爆投下時にいた場所と状況
広島県賀茂郡原村
原廠舎
(概況)
本輜重隊は昭和二〇年六月、東京目黒において新しく編成された本土防衛部隊である。七月上旬(記憶では七月五日)東京から広島県賀茂郡原村原廠舎(JR山陽線八本松駅より北へ四キロ)に移駐し終戦の九月下旬までいた。
(原村廠舎の状況)
八月六日朝礼後八時過ぎ、一瞬、閃光と轟音を感じた。しかし、空襲は常時受けていたため、爆弾による何時もの閃光と考え、余り気にもしなかったが、多くの兵士が集まって上空を指差している。天を仰ぐと、そこには、不気味な独特の固形雲が昇っていた。言う知れぬ不気味な感じを抱きながら、じっと見つめていると、キノコ雲の下から、更に新しい雲かと思われる灰色の煙がもくもくと出現した。
B29が空中衝突して、その機体が落下し、地上の石油タンクに命中したのであろうと憶測する者も有ったが、その実態はさっぱり掴めないまま、間もなくその日の教練に没入した。
(出動の状況)
八月六日の夕方にいたり、午前中の異様な雲の状況から何か特殊な緊張感が漂っていた。
間もなく上官から救援隊の出動命令が下達され、軍医官の健康診断が行われ、それにパスした兵士のみが出発した。時に午後七時頃であった。しかし、それが原子爆弾によるものであることは夢想だにしなかった。八本松駅まで行軍し、午後八時暗黒の中を汽車に乗り込んだ。汽車は速力遅く、漸くにして広島市郊外の向洋駅(むかいなだ)に到着する。ここから行軍して市内に入ったが、すでに八月七日の夜明けであった。夜の白々明けに見る市内の惨状は想像を絶していた。
(救護活動の状況)
広島市内に入ると、まず、中国軍管区司令部(広島城内)に入ったが建物は焼失又は吹き飛ばされて、天幕で仮設した敗残姿の司令部があり、そこに参謀と数人の将兵が居た。周囲は根こそぎ倒れた「松」・「檸」など、また、司令部の堀池の「ハス」は茎のみが残り、葉はすべて吹き飛ばされていた。池の中では「あひる」のみが、この惨状を知らぬがように、飛ばされて来た木片や畳の上で元気良く戯れていた。
そこで指定された私達の作業現場は、司令部内の屍体の捜索であった。城内の崩れた煉瓦の下、崩れかかった防空壕の中から屍体を引き出して指定された場所に安置した。
真夏の太陽は容赦なく地面をやき、今にも燃え付きそうに思える焼け跡を、トボトボと放心状態で仮設の救護所でも行くのであろう人々の歩く姿が多く見られた。
八月七日は、屍体収容の作業で一日が終ったが、夜は広島駅北の練兵場で夜営である。
(第二日・八月八日)
市内一面焼け野原の中で唯一残った大きな建物は「福屋デパート」(いまも現存)である。朝からこの建物の中の屍体の捜索である。二階・三階を中心に捜索したが中は全部焼失している。デパートの開店前であった関係で宿直員であったと思われる屍体を確か二体収容した。建物の中で昼食をとり休憩した。午後は陸軍幼年学校周辺の負傷者の収容である。
いざ、出発時間が来たので準備していると、同年兵が飛んで来て、一階は負傷者で一杯で簡単には出られそうもないとのこと、一面焼け野原の日陰を求めて周辺のどうにか動ける負傷者が、この建物の中に寄り集まったのである。漸くにして負傷者を動かして外に出ることが出来た。
陸軍幼年学校の建物は跡形も無く吹き飛ばされ、土台のコンクリートのみが残っていた。仮設の救護所が設けられていたが、名ばかりで壊れた家屋の柱や板切れを集めて造られた雨露を凌ぐだけの小屋である。
いままでと違って負傷者の収容である。負傷者は全て熱線による火傷で、半袖シャツ一枚で覆われているところ以外の部分、顔・首・腕以下指までの火傷・焼けた皮膚の垂れ下がり等である。幾人収容したであろうか、火傷であるため水を要求する者が殆んどで、「兵隊さん水をくれ」、「兵隊さん水をくれ」の微かな声は今でも耳の奥にこびりついている。収容途中で水を呑ませたため、末期の水になってしまったのも数件あった。
広島市内の軍需工場には市内中学校は勿論近郊中学校から学徒動員で数多くの学徒が働いていた。その学徒を捜す多くの母親、なんとも痛ましい姿であったであろう。
その頃から、私達の体に変調が起こっていた。初めのうちは、暑さによる疲労と考えていたが、極度の倦怠感に見舞われていた。
第二日目の作業も終わり前夜と同じ場所で夜営したが、分隊の仲間の大部分の人は原因不明の下痢に悩まされていた。後で(復員後)判った事ですが、第二次放射能を浴びると人は下痢を起こすとされている。
(第三日・八月九日)
八月九日の朝になり交代要員が到着、私達は原隊復帰のため広島を後に帰路についた。広島の街を過ぎると郊外には稲田が多く見られたが、気を付けて見ると爆心地方面に面した稲田は、殆んど枯死して灰褐色となり、樹木や家の陰などの遮蔽物のあった場所は、遮蔽物の形のまま青々とはっきり輪郭を示して残っていた。また、山の樹木の葉は八月と言うのに、十一月の枯れ葉のように枯れ果て、放射線の凄ましさを物語っていた。また、部落の家の屋根瓦は爆風のためほとんど崩れ、完全なものは見られなかったし、建物は爆風により土台からずれているのも見られた。
その日の午後三時すぎ原村廠舎に無事帰還したが体の倦怠感は残っていた。
以上、私達部隊の広島救護活動の概要であるが、四九年という長い歳月でもあり記憶に残った部分的なものを述べたに過ぎない。
平成六年八月一五日
元 総武第二七六九九部隊第一中隊第一小隊
第一分隊 陸軍一等兵 須藤 雄正 記す
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