原爆投下時にいた場所と状況
広島市千田町
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
昭和二十年八月六日朝八時十五分、目の前が真白になり風景が消えた。その後ものすごい爆音と風で、物という物が全部形がなくなりガレキとなり、その上火が出て人も物も燃えつくした。
一瞬の光が人をボロボロにし皮フは焼けた上にブラ下り髪は焼け目はとび出て両手足をなくし、首のない胴体だけの人、生きたまま焼かれた人、動物も植物も形をなくしてしまいました。地獄でなくて何んでしょう。人間が平気でこんなむごい事をします。それも戦争という名で。
地球の敵はまさに人間。人間の敵も人間。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
首にリンパ腺のシコリが出来長い間ハレたままでした。
ある時そのシコリがだんだんと動いて肩のクボミの所迄下り、皮フをやぶってウミが出ました。この状態をABCCという原爆研究所で見てもらっていましたが、いっさい治療というものはやっていたゞけませんでした。今思いますと原爆の研究の為のモルモットにされていたのです。
現在は全身性エリテマトーデス・シェーグレン症候群という難病に胆石、多量に飲むクスリの為に胃その他もろもろの病気との明け暮れです。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
(一)死ぬ迄被爆者として核の恐ろしさを伝える運動に参加する事。
(二)子供達に戦争の愚かさを教え平和の尊さを伝える事。
(三)国は国民の絶対的保護者である事。
(四)外国に対してイエス・ノーをはっきり言える事。
(五)国民に対して国が許可をして起された被害に対して責任を負う事。
(六)国民の為になる戦争は有りえない事を知るべきです。
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