原爆投下時にいた場所と状況
広島市千田町三丁目 広島工業専門学校々内
校舎は上から押しつぶされたようになって全壊した。火事は発生しなかった。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
その時、私は広島工専の夏期授業を受ける為に校舎の間を足ばやに歩いていた。やっと目的の校舎にたどりつき入らうとした時、急にあたりがピカッと光り、次にドンと云う音がして校舎がくづれてきた。私は校舎の入口の所で倒れるように伏せていた。その時、大切な眼鏡を吹きとばしたが、幸いに軽いけがですんだ。私は近所に爆弾でも落ちたのかと思った。あたりは白い霧のようなものにおおはれていた。両側が焼けていて、暑い中を夢中で広島駅前の方へ歩いて行った。
遠くの方で「オーイ」と助けを呼ぶ声を聞いたり、暑くて防火用水槽の中へ入って死んだ人を見たりしたことを、かすかに覚えている。しかし細いことは眼鏡がないのでよくは見えなかった。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
その後も市内や学校のことが心配で、当時住んでいた現在の東広島市西条町から汽車に乗って何回となく市内及び、学校へも行ってみた。身体の方も何度か、下痢をした位で、髪の毛が抜けるようなことはなかった。しかし中々本調子にはもどらなかった。
一応元気になっても、いつ放射能にさらされた身体が病気にならないか心配であるし、現在でも白血球は普通の人より少いので、感冒などの病気に対する抵抗力が弱い。遺伝のことも心配で東京に出てからも、被爆者であることは一切誰にも話さないようにしたし、これが大変な心の苦しみでもあった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
あの朝、広島駅前から市電に乗って学校に行ったのだが、若し、もう十分も原爆の落ちるのが早かったら、私はまだ市電に乗っていて、黒こげになっていたことになる。その時は幸運が重って命拾いをして今日に至っているが、後で、当時の広島市内の全体のことを聞くと、全く地獄絵のようであり、又何十万人もの人がなくなっている。このようなことが再びこの地球上ではあってはならないことだ。
ともかく核兵器は今度使うようなことがあれば、人類の破滅である。世界人類の生き残りの為にも「核兵器廃絶」を叫びつづけていくことが我々被爆者の責務であると思っている。
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