原爆投下時にいた場所と状況
広島市三篠町本町
直接被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月六日其の日は朝からカンカン照りの暑い日でした。兵舎には三四人残って居ました。十時頃迄は用がないので休んで居ました。其の時突然兵舎の天井がピカリと光ったのと同時に周辺が真白な光に覆われた。私は焼夷弾が天井を貫いて落下したように見えて立上った時大音響ともに吹とばされ失神した。気が附くと建物の下敷となり身動きも出来ず呼吸困難で又意識を失った。どれ位時間がたったのだろうか蘇生した。あたりを見たら太田川の水辺に寝かされて居る。土手の上の方から避難して来た人達は頭髪は殆んど無く真黒な顔をして女か男か見分けがつかなかった。川の中からあちらこちらで暑いよう暑いよう助けてくれ声がきこえるが煙のため何も見えなかった。以下省略
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
八月二十日負傷してる兵隊は郷里へ帰て宜しいとの命令で広島駅迄馬車で送ってもらう。被爆後身体の調子が悪く半年程ぶらぶら暮し病院へ通って居たが、其の間二度も急にめまいを起して倒れ病院でも手当の方法もありませんでした。被爆後心臓が悪く二十七年余り病院通いで現在は大分良く成ったが時々不整脈が起きて来る。
又季節の変り目には被爆の時強く背中を打ったので、それがいたみ丁度被爆当時の状態になり痛み、其の度に被爆当時の事が憶出される。現在はつかれ過ぎないよう注意をして居る。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
広島長崎の被爆の惨状は二度と繰返してはならない。核兵器を地球上から廃絶する事は平和への願いです。私共被爆者は一人でも多く被爆のこわさを人々に知らせる事で二度とくり返さないために
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