(平成一四年八月六日原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式出席に当たり)
山梨県遺族代表
中島 辰和
一.プロローグ
昭和二〇年八月六日、午前八時一五分、広島に原爆が投下されました。私たち家族六人は爆心地より二・五キロメートルの距離にある、広島市皆実町三丁目九一二番地(現在の、広島市皆実町五丁目一九番)の官舎で被爆しました。当日は週末ではなく、本来であれば父は役所へ出勤し、私も学校へ行っていなければならない時間でした。数日前に母が手術を受け自宅で安静にしていなければならなかったために、父が朝食作りを担当し遅い朝食を取り掛かったところでした。急ぐ私だけは一膳のごはんを食べたところで、他の五人は箸を付けた時でした。
当時、父は中国地方軍需監理局(後の広島通商産業局、現在の広島経済産業局)の官僚で、同年六月まで東京の本省勤務でした。戦況の悪化に伴い、高官の地方分散計画が施行され、父の希望する広島へ転勤することになったのです。当時、両親は弟(三男)と一緒に東京に、私(長男)と妹(長女)、弟(次男)の三人は宮城県仙台市の母方の伯母宅に疎開していましたが、広島への転勤を機に私たち子供三人を引き取り、戦火の影響が少ない北海道経由で、六月二八日広島へ赴任したばかりでした。
二.原爆が投下された日
昭和二〇年八月六日は雲一つない快晴の日本晴れでした。七時五〇分頃、朝に発令されていた警戒警報が解除されました。男はパンツ一枚、女も下着一枚という姿で朝食の食卓を囲み開放されたひとときを北側の居間で送っていました。私がごはんを一膳食べ、他のものが箸を付けた時、原爆が投下されました。
ピカッと光る強い光線を北側のガラス越しに見て、無意識に家の南側に逃げました。追っかけるようにグオーという音とともに物凄い爆風に曝されました。私は、必死に両手を目と耳に当てて、その場に伏せて難を逃れました。幸いに右足の大腿部にガラスで二ヶ所の傷を受けただけでした。母は、妹と二人の弟たちを連れて私とは別のルートを経て、風呂や便所の近くに逃げ、傷一つなく難を逃れました。
爆風が通り過ぎふと頭を上げると南北のガラス戸は無くなり、家の中はガラスの破片で埋まり、窓枠の一部が浮き上がった畳に突き刺さり、東西にあった押入れの襖はなく、中のものは襖の破片とともに猛烈な爆風により発生した真空現象で全て吸い出され、家の南側にあったブロック塀の内側に堆く積まれていました。
私は、その瓦礫の中に座り込んでいる血だるまになった父の姿を発見しました。全身に九二ヶ所のガラス傷を受けていました。
当時住んでいた官舎は、広島高等学校(後に広島大学教育学部、現在の広島大学付属小、中、高等学校)の北側に小さな溝川を隔てた位置に建つ一戸建ての住宅でした。東西は壁構造で南北はガラス戸を多く使った南向きの明るい二階建ての家でした。俗に原爆はピカドンと呼ばれていますが、爆心地から二・五キロメートルの所にいた私たちにはピカッと光った直後にグオーという物凄い爆風の音が聞こえただけでした。南北のガラス戸は木っ端微塵になり、一面ガラスの破片が飛び散っていました。猛烈な爆風の通過により発生した真空現象により畳は浮き上がり、窓枠の大きな破片が畳に突き刺さっていました。東西の壁面に床の間と押入れが設置されていましたが、真空現象により床の間の置物や押入れの中に納められていた品々(勿論、フトンなど大物を含み)が壊れた建具や家具とともに屋外へ吸出され、南側にあったブロック塀の内側に叩きつけられたように瓦礫の山を作っていました。勿論、ブロック塀自体も爆風によって外側へ倒壊していました。
父はピカッと光った光を見て、一瞬何だろうと考えたと、後に言っていましたが、北側の窓ガラスの破片を一身に受けた形となりました。習慣で目鼻を両手で覆いひれ伏せたと言っていましたが、ガラス片を運ぶ爆風が身体の下を通りぬけたと思われましたが、頭、額、胸、手足の前面に限定して九二ヶ所のガラス傷を受けていました。
当時、広島高等学校に陸軍の輸送隊が駐屯しており、兵士が直ぐ駆けつけてくれました。父の大怪我を見て直ぐ軍のトラックを配車し、父の収容の準備をしてくれました。母は病後であることを忘れ、父を担架代わりの戸板に寝かせ、一軒おいて西隣の松島さんの力を借りて兵士とともにトラックへ乗せ、父はそのまま何処かへ収容されました。
後に残された母と私たち兄弟は一時途方にくれましたが気を取り直し、母は父の着替えなどを持って父が収容されていると思われた宇品の病院へ父を探しに行きました。私たち兄弟は痛んだ家で母の帰りを待ちました。昼食時には松島さんの家で白米のおにぎりをご馳走になりました。
午後、父を探し出せぬままに母は帰宅しました。妹と弟を松島さんに預け、母と私は瓦礫と化した家の中を整備し、父からの何らかの連絡を待ちながら当夜は母と二人で自宅に寝ました。
三.父探し、似島へ
八月七日、原爆が投下された前日同様、晴れ渡った日でした。父が宇品沖にある似島に収容されているかもしれないとの情報を頼りに、私は母とともに似島を尋ねました。似島には弾薬庫がありましたが、急遽、その兵舎を病棟にし被災して負傷した人々を収容していました。父は最も奥まった病棟に収容されていました。九二ヶ所の傷を持つ負傷者とは思えぬくらい元気な姿を見てほっとしました。私だけが父のもとに残り、母は妹と弟を引き取りに一旦自宅へ帰り、翌日揃って父のもとへ集まり、全員の安全を喜び合いました。八月一〇日頃だったと思いますが、父の傷の回復具合もよく、また自宅近くの日本専売公社の一角に診療所が開設されたとの情報もあり、自宅へ帰りました。
四.似島で見たもの
似島へ着いて桟橋に続く真っ白な砂浜には数え切れない多数の死者が筵で覆われ並べられていました。多くの人々が筵を一枚づつ剥がし、必死に肉親を捜し求める姿は悲惨と言う以外、言葉がありませんでした。病棟と化した兵舎には多くの患者が横たわっていました。殆どの患者は酷い火傷をしていました。夏場でハエが蔓延し、火傷の傷口にウジを産み付けていたので患者は堪まったものではなく、痛みを訴えていました。附きそう肉親がピンセットで一匹づつウジを取り除く姿は残酷なものでした。患者の間を通りぬけて父の姿を求めましたが、喉の渇きを訴え「水をくれ、水をくれ」と私の手に縋る患者も多くいました。医者や看護婦から、水を飲ませると直ぐ死んでしまうので絶対に飲ませてはだめだと、事前に注意を受けていたので、心を鬼にしてそれらの手を払いのけ前に進みました。
毎日、毎日多数の患者が運び込まれ、多数の患者が死んでいきました。父がいた病棟は一番奥まったところにありましたが、更にその病棟の奥の広場は臨時の火葬場でした。直径;数一〇メートル、深さ;数メートルの大きな穴を掘り、敷き詰めた薪の上に死体をびっしり並べ、その上に薪を敷き詰め、更にその上に死体を並べるというように何層にも積み上げた上に油を撒いて、夜を徹して数人の兵士が焼却していました。子供心に随分残忍な光景だったなと覚えています。
五.その後の父の思い出
似島から自宅に帰り診療所通いのリハビリが始まりました。近くにあった専売公社内に臨時の診療所が設置されました。毎日近所からリヤカーなどを借りて父を診療所へ連れて行きました。父は役所へも出勤できず、私も登校の目処もなく自宅で後片付けの日々でした。
八月一五日玉音放送があるとの知らせがありました。幸いにも私の家のラジオは戦災から免れ、近所の人が多数集まりました。正午から始まった玉音放送に涙していた父や多くの大人の方を強く記憶しています。
戦争が終わると、戦時中より悪い生活環境が襲ってきました。何をいっても過度の食糧難でした。少ない砂糖やとうもろこしの粉の配給があったのみで、父の傷の回復を見ながら、父に附いて食糧の調達へ行ったことを覚えています。一ヶ月位経った後の市内では数少ないバスが走っていました。夏だから良いようなもので、窓はなくすし詰めの車内では天井を真っ黒にするくらいのハエが群れをなしていました。一面焼き野原には、未だくすぶっているものや動物の死骸が放置されていました。
基町の陸軍病院の跡地に急遽市営住宅が建設されました。皆実町の官舎は元来借上げの官舎で、市営住宅の建設とともに基町に移り住みました。小さな庭のついた住宅で極度の食糧不足から庭を全て畑に耕しました。土の中から次から次へと遺骨が発掘されました。近くに緑地帯があったので、その一角に供養塔を建て、地域の人々が持ち寄った遺骨を埋葬し、冥福を祈りました。遺骨の発掘は数年続きました。
六.父は民間人に
昭和二六年父は退官して山口県南陽町冨田(現在の新南陽市)にある東洋曹達(株)(現在のトーソー)に移りました。父に附いて家族一同、冨田へ移り住みました。その後、同社の関係会社の取締役など勤め、退職後は横浜市に住んでいました。
被爆後、原爆による特別な後遺障害もなく元気な日々を送りました。九二ヶ所の傷は一部ケロイド状況を呈していました。季節の変わり目には軽度の痛みを訴える程度でした。膝には、2個のガラス片が入ったままになっていましたが、特別な痛みもなく除去手術の必要性がなかったので、特別な処置をしませんでした。
昭和六〇年九月六日、多発性脳梗塞で他界しました。享年七六才でした。
翌、昭和六一年八月六日の原爆記念日に広島通商産業局関係職員原爆慰霊碑に、更に、翌、昭和六二年八月六日の原爆記念日に広島市原爆死没者慰霊碑に原爆死没者として納められました。
七.今、原爆記念日に思うこと
父は本当に真面目な官僚でした。戦後、某社より中元の蒲鉾一山が届けられました。たまたま両親が留守中だったのと、空腹に耐えられない状況だったので私の責任で封を切り妹、弟と数本の蒲鉾を食べました。父は帰宅してその事実を知った時、私を注意しただけで、直ぐ菓子折りを附けて某社へ謝罪方々返品に行ったことは忘れることができません。そんな、真面目な父でしたから原爆に遭遇したことによる後遺障害を気にしていたのかもしれません。自宅では原爆を思い出す会話もなければ、行為も殆どありませんでした。唯、原爆記念日には、広島に住んでいた頃は、必ず慰霊碑へのお参りを欠かしませんでした。他所へ移り住んで後は、広島へ行けなくとも必ずテレビの前に正座して皆さんとともに黙祷を欠かさない人でした。
従って、父は被爆者手帳の交付を拒み、死んだ時も手帳は持っていませんでした。似島での思い出を打ち消すように、鯛の焼き物は我が家ではご法度でした。似島で夜を徹して焼いていた死体の匂いと鯛を焼く匂いは類似のものだとよく言っていました。
私は、昭和六二年、父が原爆死没者として原爆死没者慰霊碑に納められた時を機に、自分が原爆被爆者であるということを強く認識し、被爆者としてのデータを提供するとともに、核兵器のない世界の平和作りにちょっとでも貢献できないものかと考え被爆者手帳の交付を申請し、認可されました。現在は山梨県原水爆被害者の会の一員ですが、機会があればいずれの活動にも、力まず協力していきたいと考えています。
私は、縁があって外国の会社に籍をおいた数年の経験を持っています。多くの外国人と接する機会を多く持てました。私が被爆した経験話をし、原爆慰霊碑、原爆資料館、平和の祈り像などを案内しました。外国の人々には原爆といえば広島というイメージが強く、私の話を真剣に聞き、考え深げに広島の各所を見て廻りました。広島で被爆した私どもは進んで広島の貴重な経験を話し、平和の重要性を訴えつづけなければならないと思っています。
今年は、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に山梨県代表として出席し、更に、式典では全国の遺族代表の代表として献花させていただく大役を仰せつかりました。この機会に霊前にて、亡き父はじめ慰霊碑に眠る多くの犠牲者の冥福を祈り、この犠牲者の方々のお力をも借りて、世界に核兵器のない平和が確立されることを心から祈念したいと思っています。
平成一四年八月六日 合掌
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