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ヒバクシャからの手紙 
中島 辰和(なかしま のぶかず) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
子や孫へ
マサ君、ヒロ君へのお願い
 
昭和二〇年八月六日、広島に原子爆弾が投下され、一度に一五万人の人が亡くなった忌まわしい出来事を学校で習ったことと思う。いくら戦争中とはいえ、このような残酷な兵器を使うことは、どんな理由があっても、許されることではないよね。おじいちゃんは、その広島にいたんだよ。国民学校(今の小学校)の五年生、丁度今の君たちと同じ年で、爆心地から2.5キロのところで被爆したんだよ。曾おばあちゃんが病気で、曾おじいちゃんが朝ごはんを作っていたので時間がかかり、本当は学校へ行っていなければならなかった朝8時15分に家にいて助かったんだ。学校は倒壊して多くの友達が建物の下敷きになって死んだよ。おじいちゃんが住んでいた家は、物凄い爆風で大破してマッチ箱の外箱のように外壁部分が残っただけで、家の中のものは全て爆風に運ばれて外の石垣の前にうず高く積まれていたよ。ガラス戸のガラスが木っ端微塵になって飛び散り、曾おじいちゃんはガラスの破片で体中に大怪我をして収容されたんだよ。

おじいちゃんは曾おばあちゃんの手伝いをして壊れた家の中を片付けたり、曾おじいちゃんの収容先を探したり大変だったよ。次の日に、曾おじいちゃんが似島に収容されているらしいという知らせが届いて、曾おばあちゃんと一緒に似島へ行ったんだ。宇品という港まで電車道を歩いて行ったんだ。途中路上には、死んだ人が並べられていたよ。火傷や怪我をした人たちが「水をくれ」と擦り寄ってくるんだ。水を飲ませると死んでしまうので絶対に飲ませてはいけないと言われていたんで、これらの人たちを放置して港へ急いだんだ。船が着いた似島の砂浜には収容されてきたが死んでしまった人が何百体も並べられて菰で覆われていたよ。一つ一つ菰をめくって身内の行方を捜す何とも痛ましい人たちの姿があったよ。幸いに曾おじいちゃんは元気で、数日後自宅へ連れて帰ったんだ。家から歩いていける所に臨時の診療所ができたので曾おじいちゃんをリヤカーに乗せて連れて行ったよ。

その頃何を食べたか定かでないが、炊き出しの雑炊やら野草を食べたことを覚えているよ。曾おじいちゃんの怪我の回復を見て買出しについて行ったよ。一ヶ月位経っていたんだろうけど、焼け跡は未だくすぶっていて、死臭が充満していたよ。元気なものは蠅と蠅が産み落とした蛆だけだったね。ひどいものだったよ。

翌年、爆心地から数百メートルの所に市営住宅が建ち、そこへ移り住んだよ。食べるものを作ることが最優先で、小さい庭を耕し畑を作ったんだ。陸軍病院の跡地だったので、人の骨がいっぱい出てきたよ。一片ずつ拾い上げ近くに慰霊塔を建ててそこへ収めたんだよ。当時住んでいて特に感じていなかったけど、土の中には、人の骨といっしょに多くの放射能が充満していて、おじいちゃんたちはそんなことを知らずにその放射能を一杯吸ったんだろうね。

昭和二六年、広島を離れ徳山へ移ったんだ。平和な日本になり、おじいちゃんも大学を出てサラリーマンになって猛烈に忙しい日を送ったよ。いつか被爆したことを忘れてしまっていたかのような日を送ったよ。でも、曾おじいちゃんと曾おばあちゃんは被爆したことがおじいちゃんたち子どもたちの結婚の妨げになってはいけないと考え、被爆したことを隠し通したんだ。被爆した人に交付される被爆者健康手帳も受けなかったんだ。

おばあちゃんと結婚してやはり心配だったのは、奇形の子どもが生まれたらどうしようかということで、君たちのママたちが生まれたとき、「五体満足でありますように」と神仏に願ったんだ。そして君たちが生まれたときも、「五体満足でありますように」と願い続けたんだよ。誰にも異常はなく心底から安心したんだよ。

平成八年に、被爆者を自認して、被爆者健康手帳の交付を受け、被爆体験の語り継ぎの活動や核兵器のない世界を求める被爆者運動にかかわることになったんだ。被爆者運動に参加していると被爆に関する情報に敏感になり、興味が強くなるんだ。この前、NHKのニュースで、原爆によって撒き散らされた微粒子(死の灰と呼ばれるもの)を吸って死亡した被爆者の骨や腎臓の組織の中で、今なお放射線を出し続けていることが判り、更に、その放射線の分析から原爆のプルトニュームによる放射線であることが判ったと発表されたんだ。恐ろしいことだよね。やっぱり、と思ったよ。

あの八月六日、家の中とはいえ、死の灰を一杯含んだ爆風にさらされ、そのガスが充満するところで後片付けをし、曾おじいちゃんを探し街中を歩いたんだ。多量の放射能を吸ったと思うよ。当然、白骨が一杯あった土地のなかにも多量の放射線があったと思うよ。おじいちゃんの骨や腎臓の組織のなかにも原爆の放射線が生きているかもしれないね。君たちのママへ、ママを通して君たちへその放射線が伝えられていないことを願っているんだ。

原子爆弾とは、一度に一五万人の人の命をとるばかりか、六四年経った今でも、その影響が被爆者の体の中に生き続けることを認めないといけないよね。こんな恐ろしい兵器を持ってもいけないし、作ってもいけないよね。おじいちゃんはこのような恐ろしい核兵器が世の中から廃絶され、君たちや君たちのこどもたちが幸せに生きることができるまで被爆者運動を続けていくよ。核兵器の恐ろしさを勉強して、おじいちゃんたちを応援してね。 

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