●被爆(ひばく)前の家族との暮らし
当時、私は広島市立中学校(当時の通称で市中)の一年生(十二歳)で、今は埋め立てられてなくなった福島川に横川町と中広町を南北に結ぶ中央橋が架かっていて、そこから約百メートルほど離れた、中広北町に住んでいました。一緒に暮らしていた家族には、崇徳中学校の教員だった父・原田熊次(当時六十一歳)、母・アヤノ(四十九歳)、長女で中国配電に勤めていた姉・茂子(十九歳)、長男の妻・國子(二十四歳)とその息子・知行(二歳)の六人がいました。茂子のほかにも三人の兄(上から敏行、敏信、敏男)がいましたが、軍人としてビルマ方面と満州に行っていました。
三人の兄は陸軍士官学校を出ており、私も兄たちに続いて広島陸軍幼年学校の試験を受けました。ですが、家庭内で軍国主義的な考えを刷り込まれた記憶はありません。また、父が教員だったので、家には小説が沢山ありました。小説も、直接的に軍国主義が書かれているわけではありませんでしたが、豪傑小説というのでしょうか、現代の小説とはかなり違って、日本の勇ましさを讃えるような小説が多かったことを記憶しています。
●学校での軍国教育
一方で、当時、市中の校舎には、陸軍の鉄道部隊が駐屯しており、先生の中には配属将校もいたので、学校内は軍国主義教育でした。「一つ、軍人は忠節を盡すべし…」などいう内容の軍人勅諭や、「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト廣遠ニ…」といった教育勅語を、今はもう初めだけしか覚えていませんけれど、当時私は全部覚えていました。
また、学校の体操の授業といえば銃剣術や空手でした。「エイヤー」というのもやりました。また、主婦などの女性は竹やりを一本ずつ持って行いました。焼夷弾によって発生した火災を消すため、水の入ったバケツリレーの練習もしていました。
●連日の学徒動員
戦中は、「月月火水木金金」という軍歌がありました。海軍の戦艦では、海の中なので、土曜日と日曜日もなく働くという歌です。広島の中学一、二年生は、来る日も来る日も休みなしで建物疎開作業に動員されていました。そのため、交代で休みを取ることになっていましたが、ちょうど八月六日に私たちの組が休日になりました。
八月六日は、私の組は交代で休みを取る日で、私は朝早くから家の前の福島川に泳ぎに来ていました。普段は「月月火水木金金」で休みなく働いていますが、本当は遊びたい盛りの年齢ですし、真夏の暑い盛りなので、休みの日は朝早くから遊びに出掛けたのです。
横川駅の東側に架かっている三篠橋の西側から福島川沿いに、材木屋が立ち並んでいました。自宅近くの一軒が、数日前から藁ぶき屋根をトタン屋根にふきかえる作業をしていたので、河原には屋根から外して出た藁が山積みにされていました。
私と、隣の家に住んでいた国民学校六年生の吉田君と、向かいの家に住んでいた5歳くらいの杉原君は、その材木でいかだを作ったり、川に飛び込んだり、砂遊びをしたりしていました。
●原爆が落ちた時
遊んでいる最中、B二十九が見えました。その日までは、B二十九はかなり上空を飛んで、飛行機雲を残して消えてしまうだけでしたので、今日もそのように飛んで行ってしまうのだろうと、私は下半身だけ水につかって眺めていたのです。すると突然、川の中を何回転も何回転もしたような感じがしました。よく「ピカドン」と表現されますが、そんなふうには感じませんでした。衝撃でそうなったのか、なぜなのか、一瞬のことで自分でも分からないのです。
気が付くと、河原に置いてあった藁がぼうぼうと燃え上がっており、いかだの上で遊んでいた杉原君は川下の方へ流されていました。私は泳いで行って彼をおぶって連れ戻し、お母さんに渡してあげました。私はそのまま家の防空壕に入り、ひどいやけどを負っていたので気を失ってしまいました。吉田君も顔に大やけどをしましたが、自力で家に帰りました。いかだの上で直接原爆を受け、全身にやけどや傷を負った杉原くんは、結局翌朝には死んでしまいましたが、杉原くんのお母さんは会うたびに「よう連れて帰ってくれた」とその時のお礼を言ってくれました。原爆の後は、遺体が見つからずそのことをずっと悔やむ人が多かったためです。
●八月六日の中広町と家族の被爆
自宅周辺の中広町はほとんど全焼でした。しかし、私の家と両隣の家だけはぺしゃんこにつぶれはしたものの、焼け残りました。福島川沿いで地区の隅だったので、火が回らなかったのでしょうか。母と原田家の長男の妻・國子は、知行を連れて杉原君のお母さんとおしゃべりをしていたのですが、原爆が落ちた時は杉原家の建物の陰にいて、九死に一生を得ました。
姉・茂子も、勤め先の中国配電の建物の中にいたため、外傷はありませんでした。上司と一緒に、可部町の上司の自宅に逃げることにしたそうです。その時、稲荷町電車専用橋を走って渡り横川方面に向かったのですが、電車橋の枕木は燃えていて、恐る恐る必死に渡ったと聞いています。
茂子に外傷はありませんでしたが、戦後、髪の毛が抜ける、血を吐くといった原爆症の症状が出ました。その後は元気でしたが、平成二十六年に亡くなりました。
また、父は、崇徳中学校の教員として、八月五日までは学徒動員された生徒らと一緒に広島県安佐郡祇園町の三菱重工業第二十製作所へ行っていました。ですが、運命のいたずらというのでしょうか、八月六日から、私が動員されたのと同じ、小網町の建物疎開作業に動員されることになったのです。父はそこで原爆に遭いました。父は、生き埋めになった生徒を必死に助けようとしたそうですが、自身も顔など体の各所にやけどを負っており、気を失ってしまったそうです。黒い雨に打たれて気が付いたのですが、もう生徒を助ける力は残っておらず、歩いて中広町の家まで帰ってきたと聞いています。教師としての責任感からか、父は翌日もまた現場に生徒の捜索に行ったのだそうです。そこで、たくさん放射線を浴びたのではないかと思います。
●やけどで生死をさまよいながら終戦
屋外で閃光を浴びた私の上半身は、肩から背中、胸にかけても、広範囲に焼けただれました。特に右腕、右半身と右頬あたりをひどくやけどしました。この怪我のため、私は八月十五日まで意識を失ったまま生死をさまよいました。私は覚えていませんが、母によると私は「殺せ!殺せ!」と何度も叫んでいたそうです。
父の兄の知り合いだったお医者さんが、安佐郡口田村矢口(現在の安佐北区)から駆けつけて、当時はなかなか手に入らなかったブドウ糖などのいろいろな注射を打ち、薬も塗って、治療してくれました。お医者さんは母に、私は絶対に助かりませんと言ったそうですが、貴重な治療のお陰で、見事に回復しました。あの時、もしその医師が来てくれなかったら、私はとっくにこの世にいなかっただろうと思います。
意識が戻った八月十五日に鏡を見せてもらいましたが、顔は腫れあがり、怪談に出てくるお岩さんのようでした。今は使われなくなった昔の広島弁に「いごうがんぐぅ」という言葉があります。凸凹にぐじゃぐじゃになった状態を指す言葉ですが、まさにそのような状態でした。その日は終戦を迎えた日だったのですが、意識が戻ったばかりですので、玉音放送を聞くような状態ではありませんでした。ただ、B二十九が頭上を編隊で飛んだことだけ覚えています。気が付いた時には私は救護所に移され、他の負傷者と一緒に川の字になって寝かされていました。救護所に移ったのは終戦の日よりは前でしたが、いつごろだったのか、どこだったのかは、意識が朦朧としていたのではっきりわかりません。
救護所は垂木で建てた、天井も簡素なものでした。負傷者は毎日一人、二人とどんどん亡くなっていきました。亡くなった人が無数にいたので、ハエがそこら中に飛んでいました。私の傷はあちこち膿んでいましたから、そこにハエが沢山たかりました。そしてウジが湧き、そのウジが私の肉に食いつくので、チカッチカッという痛みがひどかったです。ですが、後から考えると、ウジが化膿した組織を食べてくれたことは傷の治癒にはよかったのではないかと思っています。
●父の死と火葬
父は翌九月一日に亡くなりました。放射線を浴びた影響だと思います。自宅の前の福島川の河原で父の死体を焼いたのですが、人間の体というものは簡単には燃えません。ですから、壊れた家の木材だったのでしょうか、それとアルコールか何かを言葉は悪いのですがぶちかけて、火をつけました。そして、骨の一部だけを取り置いて、残りはそこにそのまま埋めました。心を込めて丁寧に弔うこともできなかった父のことを思うとき、あれは遺体と言うより、死体といった方が実情にあっているのではないかと思います。今は埋め立てられてしまいましたが、旧福島川の河原には、今も父の骨が埋まっていると思っています。
私に正気が戻って、正常に物事を考えられるようになったのは、父が死んだ頃でしたね。そして初めて戦争が終わったと分かりました。その後、崩れた家の跡片付けをしました。父が死に、兄たちは戦地にいましたから、家族で男手は私1人でした。私が壊れた家を全て片付けて、その後、叔母の夫がバラックで四畳半の小屋を建ててくれ、残った家族でそこでまた暮らし始めたのです。
●学校再開と同級生たちの死
私は大やけどを負いましたが、若さのおかげでしょうか、大した治療もしなかったのにその頃には傷が随分治っていました。十月ごろにはケロイドで手が曲がらないながら、トンボを採ったりして遊びました。昭和二十年十月一日から学校が再開し、いつだったかよく覚えていませんが、おそらく大分遅れて私も復学できました。
中広町にあった市中の校舎は、焼け落ちてしまって使えません。体育館の鉄骨も、熱でグニャクニャになってしまったほどでした。校舎に軍隊が駐屯していたからか、手りゅう弾か何かの燃えかすが沢山落ちていたのも見ました。そのため、比治山国民学校の校舎の8教室を借りて再開しました。生徒は百九十人ほど、先生は十五人でした。
何よりも悲しかったのが、市中の生徒のうち三百六十五名が亡くなっていたことです。「月月火水木金金」といって、休みもろくに取れずに学徒動員されて、その作業中に亡くなったのです。この悲惨さは、私の被爆体験の中で特に伝えたいことです。
その市中の慰霊碑は、中区小網)町の天満川の護岸に建てられていました。護岸整備のためにその慰霊碑を移設することになった平成二十九年、いろいろな議論があったようですが、最終的には、市立基町高等学校に移すことになったと聞きました。
●学校制度の改変
移設先が基町高校だった理由は、当時の学校編成の制度を知らないと理解できないでしょう。旧制中学校は元々五年制で、戦争中に四年制に変わりましたが、男子だけの学校でした。公立の学校としては、広島市内には県立の広島一中、広島二中、そして私が通っていた市立中学がありました。戦後の学制改革で小学校六年、中学校三年、高校三年となりましたが、旧制の中学校は新制では高等学校になったのです。
私が中学生だった戦中は、中学校は四年制でしたが、終戦後は三年制に変わりました。今と同じ、小学校六年、中学校三年、高校三年です。一中は広島国泰寺高等学校、二中(にちゅう)は広島観音高等学校、女子は高等女学校と呼んでいましたが、第一県女が広島皆実高等学校に、市立第一高等女学校(通称・市女)は舟入高等学校というように学校名が変更されて、市中は市立基町高等学校になりました。このことから、この慰霊碑も基町高校に移設され、毎年八月六日に市中慰霊祭(いれいさい)が営まれています。
学制改革は占領下の昭和二十二年に行われ、その折、当時の生徒は通う学校を住所に応じていくつかから選べるようになりました。私は中広町に住んでいたので、基町高校、観音高校、そして舟入高校の中から選ぶことができました。学区制が敷かれると、結果的に、生徒は戦中の学友とは別々の学校に行くことになってしまいました。
基町高校には、机とか椅子といった備品が何もなかったので、江田島の海軍兵学校から宇品まで船で運び、宇品からは生徒たち一人一人が、一組になった机と椅子を担いで運びました。今では考えられない作業をしたものです。
●広島駅のヤミ市と映画
終戦直後は物がない時代でした。それを少しでも解消するために、軍服や軍靴、毛布などが学校に配布され、学校でくじ引きをして、当てた生徒がそれをもらって帰りました。
当たった時、私たち四、五人の仲間は連れ立ってそれをヤミ市に売りに行きました。私は市中の仮校舎があった比治山国民学校から中広町に帰るために、ちょうどヤミ市がある広島駅で汽車に乗って横川駅で降りていましたので、ヤミ市は帰宅途中にありました。物がないのに、ヤミ市ではお金さえ出せば、食べ物も着る物も何でもあったのですよ。私たちがくじで当てたものも、元の何倍もの値段で売ることができました。そのように得たお金で、学校帰りに映画を見て楽しみました。
広島の占領軍は英連邦軍が中心だったので、広島駅にはオーストラリアの兵が沢山いました。私は豪州兵と呼んでいましたが、本隊は呉に駐屯していましたからね。スコットランド兵もいて、スカートの下から足を垂らしてトラックに乗っていました。「スカートでええど(いいのだ)!男のくせに、何もはいとらんど!」と、スカートをのぞきながら冗談を言いました。そんなふうに広島駅を通って帰るのが、あの頃の楽しみでしたね。
●学校の授業の様子
舟入高校では、学校の中に死を覚悟して海軍飛行予科練修生となり訓練を受けたものの、戦地に赴かずに終戦を迎えた人や、生きて帰った人がいました。彼らは「若鷲の歌」を勇ましく歌っていたものです。こういう一度死を覚悟した人たちは、肝が据わっていて不良になった者も多く、先生の言うことなど全然聞きませんでした。ただ、この人たち以外にも、私も含めて大人の言うことを聞かない学生が多かったものです。戦中は、日本のために戦うのだと教えられ、大変厳しく自分を抑制していたのに、戦後になって急に自由な教育が始まり、たがが外れてしまったのでしょう。先生は、こういう人に対して、真面目な人の勉学の妨げになるので、単位はあげるから授業に出てくるなと言っていました。
●家族の帰還
兄たちは皆外地に出征していたのですが、終戦から数カ月たって、長男・敏行と次男・敏信が、それぞれビルマとタイから帰還しました。しかし、三男・敏男はなかなか帰らなかったので、戦地で亡くなったのだと思っていました。ですので、昭和二十五年に敏男が戻ってきた時には驚きました。満州戦線に配属され、終戦直後に侵攻してきたソ連軍によってシベリアに抑留されていたのだそうです。ですから、敏男はロシア語を話せるようになっており、スケートもできました。西白島町にあったヒロシマアリーナで一緒にスケートをしたのが思い出です。
●戦後の人生
高校を出た後は経理学校で簿記を習い、横川で二番目の兄・敏信がやっていた商売を手伝いました。四十三歳からは、中広町に自分で立ち上げた損害保険の代理店を営みました。
二十歳ごろまでは、上半身の特に右側や右腕にケロイドが残り、皮膚がひどく盛り上がっていました。小学生時代は水泳大会に出たり、小さい頃から福島川を泳いで渡ったりするほど水泳が大好きだったのに、その後、学校にはプールがあっても泳いだことはありません。今では随分目立たなくなりましたが、右頬にはやけどの痕が、右腕、左腕、胸、背中にも痕が残っています。
しかし幸いにも、私の体にはケロイド以外にこれといって原爆の症状は出ませんでした。八十歳を超えるまで働き、平成三十一年二月に引退するまで、特に大きな病気にはかからずに元気に暮らしてきました。
ただ、長女と長男は甲状腺や交感・副交感神経などに持病があるように感じています。私が原爆を受けたことと関係があるのかも知れません。ですので、本人や孫たちが必要以上に気に病まないように、家庭内では原爆の話はあまりしないようにしています。
●戦争と原爆を振り返って
あの頃を振り返って一番伝えたいことは、三百六十五人もの学友が亡くなったことと、その原因が、当時の教育だったということです。「月月火水木金金」と勤労動員されて外に出ていなければ、こんなに沢山は亡くなりませんでした。皆、日本には神風が吹いて、絶対に負けない、戦争に勝てると洗脳されて信じていました。ですので、一生懸命に勤労奉仕に出て、原爆に遭ったのです。もし、戦争が終わっていなかったらどうなっていたでしょうか。終わっていなかったら、もっとひどいことが起こっていたのではないかと考えるのです。戦争が終わって、本当によかったと感じます。
そして、核兵器は廃絶しないといけないということも次の世代に伝えたいです。罪のない学生たちが、一瞬でこんなに沢山亡くなるような大変な悲劇が、もう二度と起こらないようにと思います。このような悲劇の根本には戦争があります。現在でも世界では地域によっては紛争が絶えません。私たちのような辛い思いをする人がなくなるよう、世界から戦争と核兵器がなくなることを願っています。
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