●被爆当時の家族
当時、私の家族は、父・山岡要、母・八重子、長男で昭和一二年生まれの私、昭和一四年生まれの長女・和子、昭和一六年生まれの次男・敏彦の五人でした。
●被爆前の生活
父母、長女、次男は、広島県山県郡八重町(現在の山県郡北広島町)に親戚があったことから、そこに縁故疎開していました。縁故疎開とは、都市部の住民が空襲などに備えて田舎に住む親類や知人を頼って移住することです。
私は一人、三篠国民学校に通うため、家族と離れ、今の天満町の親戚で寝泊まりをさせてもらっていました。
●八月六日当日
朝礼が午前八時に始まり、朝礼が済んだ後、早朝発令されていた警戒警報は収まっていたので、私ら一年生は先生に連れられて山へ散歩に向かっていました。三篠の川土手の所を歩いていたら、上空で、B29が東練兵場の方から飛んできました。
そこで、私は空を見上げB29を見ていると、爆弾をポンと落とすのではなく、落下傘三つがゆっくり降りてきました。そのとき先生が「伏せろ」と言うので伏せていました。しばらくして、上空六〇〇メートル辺りで爆弾が炸裂しました。ピカッと光り、ドンという音がしました。
原爆が落ちたのは細工町の島病院の上空で、今は原爆ドームの名で知られる広島県産業奨励館の近くです。
私は、他の飛行機から爆弾が落とされるのを目撃していません。そのため、落とされた爆弾は炸裂までに時間がかかっていたので、この爆弾は落下傘に吊り下げられ風に揺られて島病院の上空まで近づき、炸裂したものと今でも思っています。B29は爆弾を落として炸裂するまでの間に、急旋回して逃げていきました。
原子爆弾を広島に落としたのは、陸軍の司令部が広島城の近くにあったから破壊しようと落としたものだと思います。
先生に学校にすぐ帰れと言われて、学校に帰りましたが、大騒動だったので家に帰るよう言われたので、天満町の家に帰りました。辺りは翌朝まで岩のような原子雲が消えないで残っていたように記憶しています。
●被爆後
周りは血だらけの人、這って歩いている人を大勢見ました。幸いに、私は全く火傷などの負傷はしなかったです。
その夜、福島川の土手で、一人で寝ました。
数日後、私は御幸橋付近に行きました。なぜなのか分かりませんが、原爆でやられた人達が集まっていたので私も行きました。
市内電車が一五銭で乗れたと記憶しています。食べ物がない中、福屋で雑炊を、同じ一五銭で食べたのを覚えています。
●戦後の家族
戦後、家族五人で橋本町に家を借りて住みました。隣にお寺があってそこでよく遊びました。その後、三男・進、次女・茂子、四男・修が生まれました。
父は、私が中学生の頃、脳梗塞で倒れ亡くなりました。母は、元気で八六歳まで生きました。
先祖が財産を残してくれたことから、私は、修道学校、修道高校を卒業し、東京の中央大学に進学しました。実家が商売をしていましたから、経済学部を専攻しました。
卒業後は、健康器具の販売を個人営業して暮らしました。結婚をしたことはありますが、子供はなく、今は一人暮らしです。被爆しましたが、この歳まで大きな病気にかかることなく、現在も元気に生活しています。
●今の子どもたちへ伝えたい思い
原爆が投下される時目撃した青空に目立つあの三つの落下傘を忘れることはできません。
今や、原子爆弾ではなく水素爆弾を使おうとしています。原爆や水爆は人類を滅亡させる兵器ですから製造してはいけません。しかしながら、世界は大国のみならず小国も核兵器を所持しており、もし第三次世界大戦が始まったら核戦争となってしまいます。若い人たちには原爆の恐ろしさをもっと知ってもらいたいです。
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