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四國直登の日記(翻刻) 
四國 直登(しこく なおと) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1945年 
被爆場所 幟町国民学校(広島市幟町[現:広島市中区幟町]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区広島地区司令部広島地区第一特設警備隊(中国第32037部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
本資料は、四國五郎の弟の一人である直登(一九二七~一九四五)の日記のうち、一九四五年八月一日から二七日までの翻刻である。直登の日記については、一九四一年四月一日から四年四ヶ月余りを記した数冊のノートが現存しており、五郎はそれらを「弟四國直登の日記」という題名をつけ合冊、保管していた。

当時直登は一八歳(日記には数え年の「一九」とある)。防衛召集を受けて広島市内の幟町国民学校の臨時兵舎に入っていた。昼は防空壕を掘り、夜は橋梁の警備にあたる一方、日記にはマンドリンへの興味や演芸会の感想なども記されている。八月六日、兵舎で仮眠中に被爆。左足を負傷、常盤橋付近(日記には時和橋とある)で助けを待つ。七日夕刻に出汐町の自宅に戻ることができた。幸にも自宅は一部損壊のみで、直登の日記が残ったのもそのためである。十四日の記述に「今日まで先月からの日記を帳に記す」とあるので、防衛召集後は手帳などに記した内容を、自宅に残した日記帳にこの時点で書き写したのであろう。直登は母(コムラ)や弟(克之)の介護を得ながら大河国民学校に設置された救護所に通い治療を続けていたが、次第に容態が悪化、二八日未明に亡くなった。日記は二七日までだが、「一九四五年(昭二〇)八月二十八日 火曜日 午前二時頃 苦悶の末 死亡(五郎)」と書き加えられている。

『わが青春の記録』には、シベリアから帰郷した五郎が直登の死をはじめて知ったこと、母から渡された直登の日記を読んだことが記されている。さらに「ものいわねど」という詩とともに、焼け跡で一人うずくまる人の姿と直登の肖像画も描かれている。直登の日記については、市井の人による詳細な被爆記録という資料的意義もさることながら、四國五郎という表現者およびその周辺に与えた影響も大きい。詳しくは本巻収録の川口解説を参照されたい。

凡例
1.仮名、漢字は通常の字体に改め、踊り字部分を適宜修正した。
2.読解の便宜上、ひらがなを漢字にした方がわかりやすい箇所は〔 〕で記した。
3.誤字はあえて原態のままとし、脱字は〔 〕で補った。
4.句読点は原態を原則としつつも、読解の便宜上、私に加えた部分がある。
5.日記本文の欄外にあるメモ書きは除外した。
(翻刻=川口隆行)


八月一日 水曜日 晴天
富士木とは少しくうまが合ふ。正后衛兵より春貝地、徳光など帰る。三日には帰るらしく、嬉しい噂が広まる。今日とても土方なり。親友になった富士木、彼は天才的なり。「もっこ」かつぎの極意を知っている。ギター、マンドリン、ヴァイオリン等所有しマンドリン、ヴァイオリンを得意中の得意とす。西洋の唄も上手なり。

八月二日 木曜日 晴天
日如に軍規及び教育はきびしさを増す。今日とても、中隊長殿より刑法について教育有り。三日に解除になるのが七日にのびた。皆うんざりした。自分も中の一人。煙石は衛生兵として中部二部隊へ教育を受けに行く。富士木は優しくしてくれる。

八月三日 金曜日 晴
今朝は、非常検査有り。腕時計を無くした人がおるらしい。私物の検査有り。吾二少隊には異状なし。「夢去りぬ」「コロラドの月」など書いてもらふ。土方有り。今夕は荒神橋梁哨なり。吾衛門風呂に入らしてもらひ小隊長より欅三本つづもらふ。今夕は兵器支廠の一等兵某、脱走せり。

八月四日 土曜日 晴天
午后は例によって土方なり。夕方富士木と京橋筋へ行きマンドリの教習本は一冊五拾銭位のもので、線がほしかったので全部で十二本も買った。そして哨防自動車のガレーヂの所で水泳した。夜半頃非常呼集をせられた。近頃自分も小さな失策が多い。大いに緊張せねばいかん。

八月五日 日曜日 晴天
マンドリンの線を二番なしで各線を四本づつ買ひ四円たらづで有った。午后一時より三時まで土方をして演芸会がある。「漫談」「漫才」「漫芸」なり。少しく面白かった。夕方大正橋梁哨へ行き実地演習を見る。お母さんと克之が来ていてトマト、ムスビ、大豆など下さる。有難く感謝して戴く。もう明後日は帰る。

八月六日 月曜日 晴天
広島大空襲さる 記憶せよ!

例によって兵舎にかへり朝食をすませ富士木と一諸に上半身をはだかになり大豆をかじりながらねた(一度警戒に入ったのでたびをはきゲートルだけした)。九時ででもあったらうか、ふと大きな爆発音に夢を破られ、眼を開らくと、思ひ出してもすごく瓦など自分の顔の上におち、天井の材木が吾々の体をおしつぶさんと上よりしっかりおさへつけている。友の中にはよろよろと立ち上って居るのも居るが皆顔面を真紅にそめている。自分も生暖かい液体のひたいより流れ落ちるのを感じた。自分は出られ無いのである。中国新聞社は四階目当りが猛烈に燃えている。上空は土色におほはれ、太陽はだいだい色にそまって見よる。とうとうやりやがったと思ひ、自分の左り足が焼つく様に暑い。誰が材木をどけてくれたのか。少し軽くなったのではひ出し、敷ぶとんの下へ枕のかはりに入れていた上衣をとりだしはだかの上へ着た。左り足の裏を見れば材木でぶち割ってどくどくと血潮を吹き出している。藤原がぼろぎれをももに巻きつけ棒切を通してくれた。ひとまづ校庭に落りた。二階で寝ていたのにくづれていてわけない。校舎全部つぶれている。数人の患者がごろごろところがっていた。自分も校庭に寝ころんで燃上る広島を見ながら色々と思ひにふけっていた。する中にもなきわめくもの、助けを呼ぶものうなるもの。中隊長が左り手を胸につって、大声に「患者はとうにか北へ向かって逃げよ。そうしないと今にもへだすから」と言はれたので道路へ出てびっこをひきひき放送局の前を通り、泉てい前をとほり白島線の電車の線路にそって少し行くと、向へは行けぬからと言ふので家と家との間の小さい道、片側の家はばりばりと燃えている間を、一気にかけ抜けて河岸に出た。すると向岸にすがあって草が生へていた。そこへ皆材木をかかへて泳いでいた。自分も向岸へ行こうと思ひ石垣をすべりおりた。水の中に入って見たが左り脚の傷が痛んで水に入れると脚がもげそうなり、仕方なくほとりに行きへたりこんだ。幸、潮は引潮なり。全方も一面に猛火につつまれている。嗚呼にくむべき米鬼。時和橋の根元の哨防薯がばりばりと音をたてて川へくづれ落ちた。若い見習士官などひどくやケどしておる人など、見るもむざんな人々が多い。満足に衣服を身にまとっているものはない。潮が大分ひたので河岸づたいに時和橋の下へ行った。余りにも暑い風が吹くので上衣をぬいで川につけてぬらし頭よりすっぽりかぶっておった。風むきが変ったので反対に寒くなった。少し上の鉄橋の上には貨物列車が停車していて四だい余り転復していて一代目よりもえ上った。もう何時頃であらうか………大分広島の火勢もおとろへたらしく青空がかかやきだした。四時頃かもしれぬ。四國と呼ぶのにひょいと振りかへって見れば、堤、中尾、両友なり。両友は今からあるいて帰っている。うらやましかった。夕方がおとづれ出した。焼之原を夕焼は美しくてらす。知った人が通ったら何んとかしてもらほうと思、橋の上に出て橋のたもとへごろりと横になりねむりをとる。日はとっぷりと暮れる。美しく磯のかかり火の事く暗い中に四方で燃へている。長い一日。

八月七日 火曜日 晴天
軍靴の足音が頭にひびくので眼をさましみれば、昨日の空襲はうそ見たいにからりと晴れて入る。自分は横になっている。顔を血潮が流れ、ほこりにまみれ、帽子も無く、上着もぬれてほこりにまみれてヅボンは血まみれになり、足はくさりだしたのかくさい。橋本といって五郎兄さんの級友なり。彼にたのんだがだめなり。少しすると大河の水木が来たのでたのむ。彼も父の行方へをさがしてゐるらしく彼にも依頼して居いた。暑くなったので橋の下へすべり降りて寝ころびやぶれかぶれになってねる。午后二時頃眼をさましのどがかはいたので竹原の警防団の人に水をのませてもらふ。もう母が向へに来ておられはせぬかと大声にて母の名を呼ぶ……悲しくなった。自分も十九才を最期かと思ひ、種々の思ひにふけり。橋の上に出てねていた。するうちに向より特警の腕章をつけた軍曹を先頭に二人の人が来た。よく見れば青年学校の教員吉田(馬鹿者)なり。それなり其の人に事情を話した。そしたら、よし連れて帰ってやると云われ、同伴の数本これはよくしっているも一人知らない人が背負って大本営跡まで行、命令受領されしかるのち西練兵場へ出た。あの辺の兵舎も全部焼けていた。元の野砲の所で、一名の米兵を真ぱだかにして手足をくくり棒切で通行人にうたしていた。自分は足のためなぐらなかった。練兵場で一休して、八丁堀の所へ出る。空手押車がなげてあったのでのせてもらった。金網がひいてあってゴム輪がなく、八丁堀より大正橋まで帰り、川手の昇さんと話ていたら堤がいたので自転車の荷台へ乗して家まではこんでもらふ。少し破損したけの吾家へ帰った。嬉しくて鳴きたいようだった。煙石も無事でかへってゐた。中尾のお母さんにみつかり砂糖を入れたお茶のみ、中尾さんまではっていった。暗い玄関でろうそくのあかりをたよりに金川のおぢさんと左脚へ治りょうしてもらひ、ゆかたをきしてもらひ、静かにめをつむっていたら、お母さんと克之が帰られた。自分をさがしに行かれて。

八月八日 水曜日 晴天
もう今日からは、自分ではって行かなくても、水がのめる。中尾へ兵隊さんが帰られたので自分は家へ帰る。今日は大河校の軍隊へ行く。いたくていたくてていかん。母の苦労。自分のためにかくものくらう。自殺してしまひたひ。

八月九日 木曜日 晴天
今朝暁よりソ連満州国へ不法起境す。宣戦布告を発す。五郎兄さんは張り切っておられる事だらう。よいよ生きるか死の大戦なり。大国難にそうぐうせり。今日とても大河校へ行く。小池を見た。彼は無傷なり。自分もつくづく脚の負傷がくやしい。

八月十日 金曜日 晴天
久保さんの親類の山口と云ふ技師補の人につれられて大正橋の所に行き手続を取り製鋼所までトラックにゆられて行く。大変と足へこたへた。工場でもたいした手当はせづ帰る。トラックがこないので五時半頃まで待つ。松田工場長、坪井係員、石原伍長や工友にたくさんお世話になった。大正橋の所で手ぬぐい一本、米食の弁当などもらふ。

八月十一日 土曜日 晴天
昨夜は大変にうづいてねむられなかった。今日始めて久保の女の人にしてもらふ。病院勤だそうだが少々荒らぽい。煙石が遊びに来てきんしを十本呉れた。

八月十二日 日曜日 晴天
もつべきものは親友である。今朝も朝食前だと言って遊びに来た。学校で田坂に合ふ。彼も元気で無傷なり。海音寺潮五郎の小説も皆読んだ。小便はさほどくるしまぬが大便は苦しい。

八月十三日 月曜日 晴天
昨日は府中の特警隊の人が調らべに来てぶどうを三房呉れた。美味なり。同じく昨日かんづめを三個にさつまいもの氷らしたのをもらひおいしかった。田舎へ帰る相談ばかり。今日も久保のにみてもらふ。

八月十四日 火曜日 晴天
今日まで先月からの日記を帳に記す。小松一郎さんがこられ、連れて帰ってやると云はれた。今日も度々空襲に入る。泉本三樹の「少年才時記」を読む。山内部隊長殿はとうとう戦死されたそうだ。田舎に帰りたくもなくなった。大変面白くない事だらう。

八月十五日 水曜日 晴
もう晴天の日和が二十日ばかり続き不思議な位なり。幸なり。壕雨でも降ったら市内には満足な屋根をした家無いので天のめぐみかも知れない。今日は一度も警報が鳴らぬ。夕方頃より変な噂を聞。事実でなき事を祈る。

八月十六日 木曜日 晴天
朝早く学校へ行かれて十五番の券をもらって帰れたので早く診てもらへた。工業室へ行き衛生兵の人に診てもらふ。少し荒かった。スターの本を荒谷がかへした。煙石が遊びに来ない。自分は腹具合が悪くていかん。今日中で四回も大便へ行く。水をのまない事にしよう。足は以前と余り差はない。

八月十七日 金曜日 晴天
今朝受診番は二十九番なり。行って少し待つと優しい衛生兵が自分の所まで来て診て呉れた。午后奥本重壮伍長殿がおみへになって種々雑談の上帰られた。彼は背部傷と書いていた。不思議なり。お母さんが復具合が悪くていかん。心配なり。

八月十八日 土曜日 曇り夕立
今朝はお母さんが腹具合が大変悪く、下痢されたらしい。すっかりやつれておられた。今朝の診察券は八番のを貰らってかへられたので早く軍医中尉の人に診ていただく。今朝少しと夕方涼しい。夕立が降った。雨もりがしていかん。「彦六捕物控」、栗嶋狭衣「寛永御前試合」などひまつぶしに眼を通す。近頃煙石が近づかん様になった。

八月十九日 日曜日 晴天
今朝は克之が起きるとすぐ行って呉れたが二十九番なり。克之やお母さんに大変世話やかす。自分で足をやられて歩行出きないのが残念なり。大分手当をしてもらふのになれた。午后克之を相手にラジオを治ほす。広島でない、隣県放送が入る。雑音の入りがよい?田舎からは来てくれぬ。小松の一郎さんと言ふ人は頼むにたらぬお人なり。月日のたつのは誠に早い。此の日記帳、一年でひまをやらねばならぬ。淋しい事ばかりあった。兄の死、自分のけが、日本の大事。

八月二十日 月曜日 晴天
遊びたい盛の弟が朝早く朝食も取らづに学校へ診察券をもらひに行って呉れる。可愛想なり。今朝は早く五番なり。清水と治療に行くたびに合ふ。彼は大分良くなっている。食事に注意せねばならぬ。足が立たんので老いた母に大変な御苦労をかける。残念なり。「鈴木内閣総辞職」十五日附の新聞で発表さる。五ヶ月で総辞職するに至った。同日、四国宣言を御受諾。大詔を親しく御放送。無念なり。神風特攻隊やいかん。

八月二十一日 火曜日 晴天
新内閣発表(十八日附新聞)
  内閣総理大臣兼陸軍大臣 大勲位功一級陸軍大将 東久邇宮稔彦王殿下
  外務大臣兼大東亜大臣 正三位勲一等 重光葵五九才 元外相 (大分県)
  内務大臣 正四位勲二等 山崎巖 五二才 元内務次官(福岡県)
  大蔵大臣 従三位勲二等 津島壽一 五八才 元蔵相 (香川県)
  海軍大臣 従二位勲一等功三級海軍大将 米内光政 六六才 前海相元総理大臣(岩手県)
  司法大臣 勲三等 岩田宙造 七一才 貴族院議員(山口県)
  厚生大臣兼文部大臣 正五位勲三等 松村謙三 六三才 衆議院議員(富山県)
  農商大臣 従五位勲三等 千石興太郎 七二才 貴族院議員(新潟県)
  軍需大臣 正三位勲二等 中島知久平 六二才 衆議院議員(群馬県)
  運輸大臣 従四位勲四等 小日山直登 六〇才 (福島県)
  国務大臣 従二位勲一等公爵 近衛文麿 五五才 元総理大臣(東京都)
  国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁 従三位 緒方竹虎 五八才 前国務相 (福岡県)

大体以上の如き人なり。敗戦の今日、我が忠勇無比な特攻隊は無念に思ひむぜひ泣いて居る事であらう。幾多の玉砕の将士、ラバウルの勇士、無念で有る。精神、正義の皇軍も物量の前にはくっぷくのやむなきにいたる。今日は十七番なり。級友野村の母より食肉一斤をもらふ。自分の足もはっきりとしない。今日新聞が五枚位一辺に来る。夕食後。本家の肇さんがこられた。

八月二十二日 水曜日 晴天
昨夜は本家の兄さんがこられ、種々談合しれた。当分情勢を見る事にした。昨夕は久し振りににぎやかであった。やはり血続でなければ駄目なり。親切が身にしみる。八時帰郷された。煙石が来て例によって煙草を十本余り。学校連れていって呉れ背負ったりめんどうをみてくれた。自分等より一級下の三浦が高等二年より市商へ行き、甲種予科練へ入り、今二等飛行兵曹になり陸軍で言へば軍曹位なり。出世している。白衣を着て帰郷したらしい。自分の足は、余り変りはない。暑い。やり切れない。内藤さんが空襲により、死なれたらしい。

八月二十三日 木曜日 晴天
五郎兄さんがぞうりばきで、帽子もかぶらずもちろん帯剣もせず階級章もつけづに玄関に現らわれた。そして、自分に字角字引の事を暗記したか、と問ひ、していないと答へると、叱る。茶色の裏附のシャツに青色のジャケツを縫ひ付けた。こんな夢を昨夜見た。昨夜おそくに松本君が訪れて来た。足が痛む。ラジオの報道によれば二十六日ごごろより連合軍が加奈川県へ上陸開始するらしい。種々の注意事項あり。又広島に赤痢病者が増したので生水生物を食さぬ様、福屋ビルが病舎に当てられたそうだ。種々のデマが飛ぶ。今日初めて午后より手当を受けに行く。少しも変らぬ。悪くはならぬらしが良くもない。来年正月には歩けて、ぞうにを祝はれたらよいが、一日中ねておると変なことばかり頭に浮ぶ。兄が恋しい。満、五郎。

八月二十四日 金曜日 晴天
昨夜おそく松本が来て種々雑談の末ギターの件を話す。彼の意図は空襲で破損した故少しく話を下げてくれとの事。満ざら呉れぬ気では有るまい。昨夜より下痢しだして三回大便に行く。朝食を白米のおかゆを一ぱい食した丈なのに四回位も大便に行く。やはり午后治療に行く。熱をはかってもらひ、注射を一本してもらふ。帰宅して少しは腹具合がよかった。母が色々と古前に行き粉薬など買って来てもらふ。鏡で自分の姿をうつしてみると死人の様に土色になり無生毛が生へて、見られた顔ではない。松田のおばさんがこられてお母さんと話しておられた。

八月二十五日 土曜日 曇天風強し
今日は敵機の飛来する日なり。正后頃よりB29数十機。ロックヒードP38も飛来す。自分は昨夜下痢のため六回も大便をする。母の慈愛。夜半に遠く井戸水を吸みに行かれ。不寝にて頭部及脚部を冷してくださる。世界で一番よい人。今朝よりげんのしょこをのみはぢめる。腹具合良くせねばいかん。梅ゆを少しとかひろばいにて腹を温めている。今夕方にかけて猛烈な風が吸き出した。二百十日にしては早いし。雨のふるらん事望む。

八月二十六日 日曜日 曇り後大雨
下痢、頭熱、足熱。三方総攻撃に当、疲労増大し、口中は歯や舌が黒く焼けている。一晩中で六回位便所に行く。今日治療をしられる兵隊さん、皆解除になり、女学生と歯医者君にさんばさんなり。話にならぬ。今日そうとうの風が吹く。猛烈な爆風雨入りねる所が無てよはった。ろうかでした。

八月二十七日 月曜日 ふったりやんだり
今日は腹合は少しよいが足が激痛す。朝食はおもゆ昼も同じ。足がいたい。今日はがっこうへ行くのを中止。

一九四五年(昭和二〇)八月二十八日 火曜日
午前二時頃 苦悶の末死亡(五郎)


※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二〇年(一九四五年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。

  

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