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弟の日記 
四国 五郎(しこく ごろう) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1965年 
被爆場所 幟町国民学校(広島市幟町[現:広島市中区幟町]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九四五年八月ソ連軍との戦闘で捕虜となり、抑留。

一九四八年末復員して同居。広島市役所に就職。

峠三吉を中心とする詩サークル「われらの詩の会」に
参加し、原爆詩集表紙、原水爆禁止詩画等を製作。毎
年八月六日を中心に広島で平和美術展を開催するため
に努力している。

弟よ
あれからもう二十年たってしまった。

わたしが復員してしばらくは、おまえによく似た年かっこうの少年に出合うと、どきっと胸を突かれ、生きているはずはないと知りながら、それとなくその少年に近よって顔をたしかめたものだ。もちろん、おまえではないことは、はじめからわかっているのだ。それでも十七・八歳の坊主頭のおまえによく似た少年を見つけると、やはりたしかめてみたくなった。やはりそうしないではいられなかった。そして、そのたびに言いようのない悲しみに襲われたものだ。

弟 四國直登は昭和二年生まれ。二人の兄が召集され戦地に行ったあと、母と末の弟(当時八歳)をかかえて日本製鋼所で働く。昭和二十年六月第一回の警備召集をうけ、八月六日原爆投下時、幟町小学校臨時兵舎(爆心地から約一キロ)で被爆。翌日夕方市内霞町の自宅にたどりついたが、八月二十七日夜半苦悶のすえ死亡。時に十八歳。

弟よ
あきらめのわるいとしよりのくりごとのように思うか。このわたしをわらうか。いや、おまえはわらいはしないはずだ。おまえは、死のまぎわまでこの兄に会いたかったはずだ。せめて、ひと目でも会ったうえで、せめて、おふくろや幼い弟をこのわたしに託してから死にたかったはずだ。わたしには、それがわかる。なぜだかが、よくわかる。

男ばかりの五人の兄弟の中で一番ながくいっしょに生活できたのは、おまえとわたしだったし、したがっていちばん仲よしでもあった。

あの戦争の時代に、男の兄弟がいつまでもいっしょに遊んだりけんかをしたりして育ち、いつまでもいっしょに暮らせるなどということは、どだい無理な望みであったし、ずっと戦争の中で育ったわたしらには、戦争にゆかないですむ人生というものは想像することさえできなかった。長男から順番に兵隊にとられるので、家族全員が食卓にそろって飯が食えるということは、かつてなかった。いつもおふくろの手で陰膳が供えられていた。茶碗に白く盛りあげた飯が一ぜん家の中にいつも供えてあるのは、悲しい眺めだった。いつも家の中に死の心配があった。

長男が戦死し、次男がニューギニアあたりで音信がと絶え、次いでこのわたしが、現役兵として満州へ渡るまで、三つしか年の違わないおまえとは、とにかく兄弟の中でいちばんながくいっしょに暮らすことができた。とにかく、いっしょに学校へ行ったり、いっしょにいたずらをしたり男の兄弟としての生活があった。おまえはこの兄を絶対に信頼していたし、わたしにとっておまえは、なにごとによらずうちあけられる気のおけないたよりになる部下だった。そうしていつの間にかからだだけは、わたしよりも大きくなりかけていた元気のよいおまえが、復員してみるともうこの地上にはいないとは信じたくないではないか。原子爆弾にやられて、今までの歴史の中のそのどこをさがしても見つけることのできぬ悲惨さと苦痛のなかで死んでしまったとは、信じたくないではないか。

弟よ
しかし、あれから二十年たってしまった。おまえが生きた短い一生よりもながい時間がたってしまった。だから、いまは忙しい毎日に、直登という弟がいたことさえ忘れているときがある。幼いころのわたしとおまえとの記憶もうすれてゆき、さだかでなくなる。

だが、突然、おまえのことがまざまざと、まるで昨日のできごとのように目の前にひきもどされることがある。まるで心臓を切りひらき、ひき裂いてみせるように再現される。

弟よ、それは、もう年老いたおふくろが、そのながい人生の中の楽しかった思い出を片すみに押しやり消し去ってしまい、やがて記憶の中に唯一の座をしめてしまったこと、つまりおまえの死についておろおろとおふくろが語るとき。

もうひとつは、ほら、このわたしの手の上にずっしりと持ち重なりするおまえの日記帳だ。

ひどく右さがりのおせじにも上手とはいえぬ文字で、十三歳のときから十八歳で死ぬるその日まで、十冊あまりの大学ノートにぎっしりと書きのこしたおまえの日記帳だ。

三人の兄をすべて戦場につれ去られ、のこされたおふくろと幼い弟をかかえて、生活の中心になって働き、少年の当然の権利である将来への夢もゆるされず、さかんな食欲さえも満たされぬまま死をむかえたおまえの日記帳だ。

それは、人間の死ではない。みちあふれた十八歳の生命力をひき裂いて奪い去る死だ。その死によって中断されてしまったこの日記帳だ。よろこびや悲しみや、恋や、やがて愛する妻や子や、ながい人生が記録されるはずの余白を、あまりにも多くの余白を残したまま断ち切られてしまったおまえの日記帳だ。

弟よ
わたしがナホトカから舞鶴へ、そして復員列車で広島駅のホームに降り立ったのは真夜中だった。出迎えてくれた兄と末の弟には、わたしの顔がわからず、わたしにも兄や弟がひと目で見わけられなかった。「おお、五郎!」わたしがぶらさげた荷物の荷札の名前で兄はわたしの名を呼んだ。たしかにそこには十年間も会わないでいた兄の顔があった。兄弟が顔を忘れ、荷札でそれとわかるとは。弟よ、悲しくもこっけいではないか。しかし、もう兄弟や親子が戦争でひきはなされることはあるまい。いつも兄弟のうちだれかが戦争でひき出されて欠けていたが、これからは、いっしょの生活がはじまる!わたしはそのとき、心から生きて帰れたぞ、戦争は終わったぞと感じたのだ。だが、直登、おまえはなぜ迎えに来てくれない?わたしの疑問に、兄は言いにくそうにこたえた。「直登はピカで死んだぞ……」「直登が死んだ、直登が死んだ」

弟よ、わたしがどんなにおどろき、どんなに悲しみ、どんなにくやしく思ったかわかるか。おまえのために、シベリアからどんなにたくさんの土産を用意して帰ってきたか、おまえにきかせるための戦争体験、おまえに語るための捕虜労働、おまえに自慢したい反軍闘争のはなし、おまえにおしえるためのロシア民謡の数々。そしてなによりもおまえに見せたくて持ちかえった十数枚のスケッチ。

歯がぬけたように建ちならぶ真夜中のバラックの街をぬけて帰りついたわが家で、おふくろからおまえの死のもようをきいた。おふくろの話は途中でとぎれ、涙でぬれ、せきあげてふるえた。

そして、おふくろがとり出してくれたのがこの日記帳だ。おまえの日記帳だ。

弟よ
わたしは、いまもわすれない。おまえの日記をよみ、しらじらと夜の明けてゆく復員第一日目の朝考えたことを。

弟よ、舞鶴に上陸したとき、わたしは、わたしにとって戦争はこれで終わったと考えたのだ。悲劇はすんでしまった、これからは、ささやかでもみんなを幸福がとりまくだろう。そのためにこそ、そのたたかいのためにこそ、シベリアでの経験は生かされねばならぬと。

しかし、悲劇はけっしてすんではいなかった。おまえの日記に書きのこされた死にざまから、おふくろの口から語られるピカの正体から、悲劇はわたしの周囲をもとりまいているし、数年ぶりに見る変わりはてた広島の街を、消えのこる朝の霧のように悲劇がよどんでとりまいているに違いないのだ。

弟よ
わたしは、帰国第一日の日記の最後にこう書きしるした。「五郎よ、直登の死に対する悲しみを怒りと憎しみに転化させよ!これからの人生で方向を見失いかけたときは、これを読みかえせ、五郎よ!直登の日記を読め!」と。

一九四五年(昭和二十年)
七月九日 月 晴
仕事から帰宅してみると警備召集が来ている。四国二等兵となっている。

七月十日 火 曇
広島駅にて大石を待ち、銃を受け取って部隊(幟町小学校あとの臨時兵舎)へ行く、遅刻のため説諭を受けた。前週部隊の人より申し送りを聞く、昼食後東大橋へ行きタコ壺式防空壕を掘る。今度の召集は七日間らしいと皆のうわさなり、特別守則の暗記に勉める。

特別守則
一、此の橋梁哨は何々橋梁哨なり
二、此の橋梁哨は、人および車の交通整理に任じ当橋梁を確保す。
三、此の橋梁は、人および小車の通行を許し、牛馬車および自動車は、その通行を禁止す。
四、市外方面へ出る者はこれを許す。
  市内方面へ入る者は公務者の外これを制止す。

七月十一日 水 曇雨
地区司令長官 陸軍中将 冨士井末吉閣下
中国第三二〇三部隊 陸軍大佐 山内二男麿殿
〃          副官 陸軍中尉 橋本弘殿
〃       第一中隊長 陸軍中尉 坂本茂殿
〃   第一中隊第二小隊長 陸軍准尉 戸光稔殿
ゆうべは九時頃より大正橋梁の警備につく。橋の東側紡績工場の方へ煙石と自分が配備された。小雨が降る。十時頃より小隊長と分隊長と計四人が大正橋の下のコンクリートのくぼみでねる。

七月十二日 木曜日 雨
六時頃荒神橋の小隊本部に集合のうえ兵舎に帰る。昨夜の勤務で大分疲れた。朝食は味噌汁なり。はじめての軍隊生活、かたくるしい感あり。十一時まで睡眠、夕立のような雨が降りしきる。今夜の勤務が心配なり。もうみんな家に帰ることを話している。十六日頃には召集解除になろう。自分ら三分隊が食事当番なり、午後古谷少尉の内務令の学科あり。

七月十三日 金 晴
今朝一時すぎ警備のすきに抜けて家へ帰る。母から慈愛のこもった大豆をたくさんもらい、靴をはきかえて帰る。煙石君にコンブなどもらう。雨のあとの銀砂をまいたような星が輝く。荒神橋の歩道へ二人でねころんで星を見ながらねる。朝部隊へ帰り、家から持ってきた新聞を読む、なにも見る物がないので引っぱりだこなり。午後荒神橋の所の防空壕作業に行く。

七月十四日 土 好天
今朝は煙石が不寝番に立哨中ねむっているところを小隊長にみつかり説諭を受けた。彼は、三回にわたりミソをつけた。ひとの地下足袋をはいていてそれが盗難品だったためタコをつられ、二は立哨中不心得にも寒いため不服を言って見つかり、三は、このたびの誤ちなり。

七月十五日 日 曇
昨夜は部隊長の視察あり、十一時頃起床と同時に空襲あり、荒神橋の配置につく、解除になってからの昼食は二時頃なり。明日はひる頃召集解除なり、われらの喜び言語に絶するものあり。

弟よ
警備召集をうけて橋のほとりで寝たり起きたりしているところを読むと、わたしは、いつかみたドイツ映画の『橋』というのを思い出す。その映画では、戦術的にまったく必要でない橋の警備を命じられた少年兵たちが、一途にそれを守り、いつまでもしりぞかないで全員死んでしまう話だ。悲しい話だ。しかし、おまえの日記には、くよくよしたところがみじんもない。なにひとつ楽しみのない戦争の中の青春は、そまつで不足な食事や、召集中にぬけ出て煎り豆を食べる話や、仲間の失敗や、上官の批判や、それらでたんねんにいろどられる。それはユーモラスでさえある。

召集解除になると、末の弟の疎開のだんどり、おふくろの汽車のキップの手配などにかけまわる様子が記録され、連日のように来襲する艦載機のことが書かれている。やがておふくろの居ない留守中に次の警備召集がくる。

七月二十七日 金 晴
今日はもうお母さんのお帰りにならねばならぬ日だが、事故がおきたのでなければよいが。毎日の食事のやりくりにもうんざりした。荒谷君とも遊びあきた。工場に行く方がよっぽど面白い。ひとりで夕食をたべていたら警備召集がきた。てんてこまいで支度をする。いそがしいこと限りなし。

七月二十八日 土 晴
今朝はお母さんが留守なので大変いそがしい。荒谷さんへあとを依頼して部隊へかけつける。このたびは人数が多い。
七月二十九日 日 晴
ゆうべは一度も空襲がなくてよかった。東警察署をとりこわした跡へ古畳を引っ張り出してきて寝る。一晩に二回立哨するようなり。ゆうべ煙石と自分は大ミソをつけた。Mと行動を共にしたらろくな事はない。こんどの分隊長は、はなはだ悪し。

七月三十日 月 晴
今朝戦友たる春貝地がわるいところを見られ、もう少しで営倉に入れらるところだった。リューセン分隊長は食事の小さいことまで一々こごと言う女のタチの悪いヤツみたいな男なり。

七月三十一日 火 晴
分所たる警察跡には古本がたくさんある。トルストイやドストエフスキー全集などから西洋の犯罪事件の写真などまである。富士木にロマンスを聞く。彼の身の上もまたあわれなり。午後防空壕へ砂盛り作業。民家の風呂屋へ行く。

八月一日 水 晴
三日には家へ帰れるという嬉しいうわさがひろまる。今日とても土方なり。戦友富士木、彼は天才的なり。モッコかつぎの極意を心得ている。また楽器を得意とし西洋の唄も上手なり。

八月二日 木 晴
日毎に軍規はきびしさを増す。今日も中隊長より刑法の教育あり。三日に解除になるのが七日にのびたので皆うんざりなり。

八月三日 金 晴
朝非常検査あり、腕時計をなくした人がおるらしい。私物検査あるも、わが二小隊は異常なし。今日も土方なり。夕方兵器支廠の一等兵某、脱走せりと。

八月四日 土 晴
午後は例によって土方なり。夕方富士木と京橋筋へ行きマンドリンの本と線を買う。消防自動車のガレージの所で水泳。夜半頃非常呼集あり。自分も小さな失敗あり。緊張せねばいかん。

八月五日 日 晴
午後一時から三時まで土方。その後演芸会あり。漫談、万才、寸劇なり。やや面白し。夕方大正橋梁哨へ行き実地演習を見る。お母さんと弟の克之が来てくれていて、トマト、ムスビ、大豆などをくださる。ありがたく感謝していただき戦友とたべる。もう明後日は家へ帰れる。

弟よ
軍隊の経験があるわたしにはよくわかる。かんたんに「タコをつられた」とある背景には、すさまじいビンタがあること「ちょっと失敗した」という言葉は、目もくらむげんこを意味し、「説諭をうける」とはどういうことであるか。

しかし、適当に警備の勤務をサボってぬけ出しては家から煎り豆をとりよせて食ったり、新しい戦友と親しくなりマンドリンを習ったり、与えられた条件のなかで若者の日を送っている。

弟よ、おふくろのはなしによれば、おまえが警備召集中末の弟をつれて田舎へ疎開したところ、小学校二年生の末弟は、どうしてもおふくろとはなれて田舎の学校へゆくことをいやがり、またいっしょに広島へ帰ってきてしまったのだそうだ。おふくろも、育てあげた長男を失い、二男三男を戦場にとられ、またおまえを警備召集された今は、どうせ死ぬるにしても、わかれわかれよりは、いっしょの方がよい、じゃあいっしょに広島へ帰ろうということだったらしい。大正橋の哨所へ面会に行っても、息子にもっていってやれるのは、煎り豆、庭でとれたトマト、それに大豆入りの握り飯でしかない。

働き手のほとんどを戦争にとられ、別れた者、かろうじていっしょに暮らしているがいつひきはなされるかも知れぬ親子、兄弟、夫婦たちの、つつましい生活、食べ物も衣料も不足し、すべてを戦争にささげてしまって、お互いの愛の表現は、そのまなざしと言葉以外に他の方法も持たぬ市民たちのうえに向かって、原爆搭載機は発進したのだ。

八月六日 月 晴
広島大空襲さる! 記憶せよ!

例によつて兵舎へかえり朝食をすませ、富士木といっしょに上半身はだかになり大豆をかじる。一度警戒警報が出たのでくつ下をはきゲートルだけしてねむった。九時頃ででもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られて目をひらくと、ものすごい勢いで天井の材木や瓦が顔の上に落下してきた。戦友の中にはよろよろと立ちあがった者もいるが、皆顔面を真っ赤に染めている。自分も生暖い血が額から流れおちるのがわかった。立ち上がろうと思っても下半身を材木で押しつぶされたようでぬけ出られない。中国新聞社の四階目あたりが猛烈に燃え上がっている。空は土色に覆われ太陽は橙色に染まって見える。「とうとうやりゃあがつた!」と思う。左の足が焼けつくように熱い。だれかが材木をのけてくれたので少し軽くなり、はい出して敷きぶとんの下へ枕の代わりに入れていた上衣をとり出し、裸の上に着る。左足の裏を見れば材木でブチ割られてどくどく血を吹き出している。藤原が布きれを腿に巻きつけ棒切れを通して締めてくれたが、血は止まらない。ひとまず校庭に出る。二階で寝ていたのに校舎がくずれてしまったのでわけなく校庭へ出られる。校舎は、全部つぶれてしまっている。数人の負傷者がごろごろと校庭にころがっている。自分も校庭に寝ころんで燃え上がる広島を見ながら、いろいろと思いにふける。周囲は泣きわめくもの、助けを呼ぶもの、うなるもの、中隊長が左手を胸につって大声に「負傷者はどうにかして北へ向かって逃げよ、そうしないと今に燃えだすぞ!」と、どなって走り去る。出てびっこをひきひき放送局の前を通り泉庭前を通り、白島線の電車の線路にそってゆく。すこしゆくと「向こうには行けんぞ」と叫ぶ者がいるので家と家との間の小路を、その片側の家はばりばりと音をたてて燃えていたが、その間を一気にかけ抜けて河岸に出る。河の向岸には中洲があつて草が生えている。そこへ皆は材木をかかえて泳いでいった。自分も向岸へゆかねばと思い石垣をすべりおりた。水の中へはいってみたが左の足の傷が痛んで脚がもげそうなり。仕方なく河べりにへたりこんだ。さいわい引き潮なり。前方も一面に猛火につつまれている。ああ憎むべき米鬼、常盤橋のたもとの消防署がばりばりと音をたてて河の中へくずれ落ちた。若い見習士官でひどく火傷している人がいる。男も女も見るも無惨な人々の群れ。満足に衣服を身にまとっている者はいない。潮が大分引いたので河岸伝いに常盤橋の下へ行く。あまりも熱い風が吹きつけるので上衣を脱いで河につけてぬらし頭からすっぽりかむる。しかし、間もなく風向きが変わったので反対に寒くなった。すこし河上の鉄橋の上には貨物列車が停車していて四台あまり転覆しており、その一台目から燃え上がった。もうなん時頃であろうか……だいぶ広島の火勢もおとろえたらしく青空がかがやきだした。四時頃かも知れぬ。「四国!」と呼ぶのでひょいとふり返って見れば、堤、中尾両友なり。両友は今から歩いて帰っている。うらやましかった。夕方がやってきた。焼け原を夕焼けが美しく照らす。知った人が通ったたらなんとかしてもらおうと思い、橋の上に出て路上にごろりと横になりねむる。日はとっぷりと暮れる。美しく磯のかがり火のように闇の中を四方が燃えている。長い一日。

八月七日 火 晴
軍靴の音が頭にひびくので眼をさまして見れば昨日の空襲はうそのようにカラリと晴れている。自分は橋の上に横になっている。顔を血潮がながれてかわき、ほこりにまみれ、帽子も無く上衣はぬれて泥だらけ、ズボンは血まみれになり足が腐りだしたのか臭い。橋本という五郎兄さんの級友が通る。彼にたのんでみたが駄目なり。しばらくすると大河の水木君が来たのでたのむ、彼も父の行方をさがしているらしく駄目なり。そのうち暑くなったので橋の下へすべり降りて寝ころび、やぶれかぶれになって寝る。午後二時頃目をさまし喉が乾いたので竹原の警防団の人に水を飲ませてもらう。もう母が迎えに来てくれるのではないかと、大声で母の名を呼んでみる。悲しくなつた。自分も十八を最後にこのまま死んでしまうような気がする。いろいろ思いにふけりながら、また橋の上にはい上がってねころぶ。向こうから特警の腕章をつけた軍曹を先頭に二人の男が来る。よく見れば青年学校の教官吉原(馬鹿者!)なり。つれて帰ってくれとたのんだが駄目だという。同伴の数本という人ともう一人の知らない人が「よし、連れて帰ってやる」といい背負ってくれる。家とは反対の方向の西練兵場から大本営跡までゆき、命令受領をしてきた練兵場へ出る。このあたりの兵舎は全部焼けてしまっている。元の野砲の所で一名の米兵捕虜を真っ裸にして手足を柱にくくりつけ、棒切れで通行人になぐらせていた。米兵は死んだようになっている。吉原がおまえもなぐれというが自分はなぐらなかった。足が痛くてそれどころではない。練兵場で一休みして八丁堀に出る。空の手押車が投げだしてあったのでそれに乗せてもらう。金網が敷いてあってゴム輪がない。八丁堀から大正橋まで帰り、出会った川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台へ乗せて家まではこんでもらう。すこし破損しただけですんだわが家へ帰りついた。嬉しくて泣きたいようだった。石段を這ってのぼっていたら中尾のおばさんに見つかり家につれていってもらう。砂糖のはいったお茶を飲ませてもらう。うまかった。煙石も無事に帰っていた。ローソクの灯りをたよりに金川のおじさんが左足の治療をしてくださる。浴衣を着せてもらい静かに目をつむっていたら自分をさがしに行っていたお母さんと克之が帰ってきた。十年ぶりに母子が会ったような気持ち。

八月八日 水 晴
もう今日からは自分で這ってゆかなくても水が飲める。大河校の軍隊へ治療にゆく、傷が痛くて痛くてたまらない。母の苦労、自分のためにかくもの苦労をかけてすまぬ。自殺してしまいたい。

八月九日
今朝暁よりソ連軍が満州国に侵入、ソ連に宣戦布告、満州でも戦争がはじまつた。五郎兄さんは張り切っておられることだろう。いよいよ生きるか死ぬかのところにきた。きょうも大河校へ治療にゆく。小池をみたが小池は無傷なり。つくづく足の負傷がくやしい。

弟よ
原爆で足に負傷し二日目の晩に家にたどりつき書きしるしたと思われる六日、七日の日記には、被爆時の様子はあまりくわしくない。広島大空襲さる!とは書いてあるが、女や子供をふくめ四十万人もいたであろう広島市民の上におとされたのが原子爆弾であるとは、おまえには思いもよらなかったろう。

おふくろの話によれば、明日はおまえが警備召集から解除になって帰宅するから、おまえに食べさせようと、ほうろくで大豆を煎っておられたらしい。当時間食として空腹の足しになるものといったら煎り豆くらいのものだった。そのほうろくの中がパッと明るくなった。「おや?」と思った次の瞬間、大きな海鳴りのような音とともにおふくろのからだはよろけ、柱時計は飛び、畳ははね上がって部屋を突きぬけたとのことだ。「こりゃあ大変だ」とあわてておもてに飛び出すと、末の弟の克之が「おかあさん!」と叫んでしがみついてきた。その二人の目の前で近所の藁屋根が突然ぱっと炎をあげて燃えあがった。おふくろにとってもだれにとっても、これは想像を絶するできごとだったのだ。

弟よ、おまえは、お母さんにすまぬと書いた。おふくろは、そのとき瞬間に生命を失わなかった市民のだれもがしたように、このできごとの真相がわからぬまま、とにかくおまえの身の上を心配し、爆心から周辺にのがれ出る人々に逆行してたずね歩き、気違いのように名前をよびつづけた。たすけを求める声、わが子や親をよぶ声、炎、死体は焼け、のがれるすべもなく生きたまま焼け、水を求めて河岸までのがれ、そこで折り重なって息絶え、おふくろは末の弟の手をひき、そのひとつひとつをたしかめ、おまえをさがしたのだ。

弟よ、おまえは、もうお母さんが来てくれるかも知れぬと母の名を呼んだと日記に書いた。おふくろもそのころ常盤橋にほど遠くないところで炎を避けながらおまえの名を呼びつづけていたのだ。

弟よ、しかしおまえは二日目の夕方には、おふくろのもとに帰れた。とにかくおふくろのそばに帰れたことだけでも、せめてよろこぼう。

弟よ、おまえの痛む脚を撫でてやることができ、おまえに肩をかし背負ってやり、元気づけてもやれるわたしは、ちょうどその頃、満州とソ連との国境の陣地で死闘をくりかえしていた。関東軍司令部も高官連も通化あたりに引きさがり、ソ連軍は満州ふかく進入しているにもかかわらず、国境陣地の部隊は、まったく無駄な戦闘をし、数千数万の兵士たちが死んでいたのだ。岩肌のたこ壺からたこ壺へ銃をさげて這いまわっていたわたしには、おまえの苦しみや炎の広島がなんで伝わろう。ただ、おまえの苦痛のさなか、せめてわたしも死のそばを這いまわっていたことで、おまえの許しを求めよう。

八月十日 金 晴
久保さんに大正橋のところまでつれて行ってもらい手続きをすまして製鋼所までトラックにゆられて行く。大変足にこたえる。工場でもたいした手当はしてくれない。帰りのトラックが来ないので夕方までかかる。松田工場長、坪井係員、石原伍長や工場の友だちにずいぶんお世話になった。大正橋のところで手ぬぐい一本と米の飯の弁当をもらう。

八月十一日 土 晴
ゆうべは大変傷がうずいてねむられなかった。今日は、久保さんの妹さんに手当をしてもらう。病院勤務だそうだが少々手荒い。煙石が遊びに来てきんしを十本くれる。

八月十二日 日 晴
持つべきものは親友である。今朝も朝飯前だといって遊びに来た。学校で田坂に会う。彼も元気で無傷なり。小便はさほど苦しまぬが大便は苦しい。

八月十三日 月 晴
府中の特警隊の人が調査に来てぶどうを三房くださった。美味なり。毎日お母さんと田舎へ行く相談ばかり。今日も久保さんに診てもらう。

八月十四日 火 晴
今日も度々空襲警報が出る。歳時記を一冊読む。山内部隊長殿はとうとう戦死されたそうだ。

八月十五日 水 晴
もう晴天の日が二十日ばかり続き不思議なくらいである。しあわせなり。雨でも降ったら満足な屋根の家は市内にはひとつも無いので大変なのだが、天のめぐみかも知れない。今日は一度も警報が鳴らぬ。夕方頃からへんなうわさを聞く、事実でないことを祈る。

八月十六日 木 晴
お母さんが朝早く学校まで行かれ十五番の券をもらって帰られたので早く診てもらえた。工業室で衛生兵の人に診てもらったのだが手荒である。腸の調子がわるくなる。四回も大便にゆく。水を飲まないことにしよう。足はちっともよくならない。

八月十七日 金 晴
今朝受診券は二十九番なり。待っていると優しい衛生兵の人が自分のところまでやってきて診てくださる。午後奥本伍長殿が来られ、いろいろ雑談の上帰られた。お母さんも腹具合が悪くなられた。心配なり。

八月十八日 土 曇夕立あり
お母さんも腹具合がわるくなり下痢されるらしい。克之も下痢して二人ともすっかりやつれてしまった。今日は、軍医さんに診てもらう。久しぶりに夕立が降る。涼しくなったが、雨もりがひどくていけない。

八月十九日 日 晴
朝起きるとすぐ克之が券をとりに行ってくれるのだが、二十九番なり。お母さんや克之に大変世話をかける。足をやられ歩行できないのが残念なり。克之を相手にラジオをなおす。修理はしたが広島放送局はやられたので隣県の放送なり、雑音ばかりなり。ノートが一ぱいになったのでこの日記帳は今日でおわり。この日記帳になってからの一年間は寂しいことばかりであった。兄の死、足の負傷、日本の……

八月二十日 月 晴
遊びたいさかりの弟が朝めしも食べずに学校へ診察券をもらいに行ってくれる。かわいそうなり。治療にゆく度に清水にあう。彼はだいぶよくなっている。食事に注意せねばならぬ。足が立たないので老いた母に大変ご苦労をかける。残念なり。

弟よ
日記帳の余白に次々と書きのこした死んでいった友だちの名前、友だちの死をいたむ言葉。自分は火傷をしていないからけっして死にはしないと、自らをなぐさめる言葉を書きのこした弟よ。

おふくろが手押車を押し、八つになる末の弟が前からひき、医者をさがしてほうぼうをあるき、治療を施すすべもない原爆症とも知らぬまま、やがておふくろと末の弟にも原爆症状があらわれ、やつれ果てた母子三人が手押車にまつわりついてよろめきよろめき医者をたずねあぐむ。弟よ、母にすまぬと口惜しがる弟よ。大豆と米をえりわけて手のひら一杯のかゆをつくり、不平もいわず自分は大豆だけ食らう弟とおふくろに、すまぬとひとりで泣いたか、弟よ。それとなくうわさをきいた日本敗戦のことを日記に書きあぐんだ弟よ。そして唯一の心だのみは、二人の兄が戦地から帰ってくることだった弟よ。

八月二十一日 火 晴
新聞が五日分一ぺんに来る。十五日付で四国宣言(ポツダム宣言)受諾、鈴木内閣総辞職、大詔のご放送があったらしい。精神力も物量には屈服のほかなし。阿南陸相自殺。停戦状態。幾多玉砕の将兵。足は、はっきりしない。野村(級友)のお母さんより食肉一片をいただく。東久邇内閣成立。敗戦の今日、今後はどうなる。

八月二十二日 水 晴
本家の兄さんがこられ、いろいろ談合する。当分情勢をみて、戦地の兄さんたちが帰ってくるのを待つことにする。どうぞ生きて帰ってくれ。久しぶりに家の中がにぎやかであった。親切が身にしみる。煙石が例によって煙草を十本あまり持ってきてくれる。学校までつれて行ってくれ、背負ったり、かかえたりめんどうみてくれる。暑い。やり切れない。あのよい人だった町内会長の内藤さんは県庁で死なれたらしい。にくむべき米鬼なり。

八月二十三日 木 晴
五郎兄さんが、ぞうりばきで帽子もかぶらず帯剣もせず、階級章もつけないで玄関にあらわれた。そして自分に辞典の文を暗記したかと問う。まだしていないとこたえると、強い声で叱り、茶色の裏付のシャツに青色のジャケツを縫い付けてしまった。こんな夢をゆうべみた。足が痛む。ラジオ報道によれば二十六日頃より連合軍が神奈川県へ上陸を開始するらしい。また、広島に赤痢患者がふえたので生水や生物を食べぬようにとのことなり。福屋ビルが病舎にあてられる。種々デマが飛ぶ。足はわるくも良くもならぬ。来年正月には歩けてぞう煮餅を祝いたいものだ。一日中寝ているといやなことばかり頭にうかぶ。広島の爆撃は、原子爆弾なりと、原子爆弾の説明あり。今にして思えば、いかなる言も空し。兄が恋しい。満、五郎兄さん。


八月二十四日 金 晴
ゆうべから下痢がまたひどくなる。三回大便にゆく。朝食は白米のおかゆ一ぱい食べただけなのに四回くらいも便所へゆく。午後治療にゆく。熱をはかってもらい、注射を一本してもらう。母が古前へ行き粉薬などいろいろ買ってきてくださる。足がわるいのに便所通い。日々にやつれ、日々に力を失う。赤痢なんぞや。鏡に自分の顔をうつしてみると死人のような土色なり。無精ひげが伸びて見られた顔ではない。

八月二十五日 土 曇風強し
今日は敵機の飛来する日なり、正午頃からB29数十機、ロックヒードP38も飛来す。にくんでもあまりある敵機、上空をゆうゆうと飛行す。ゆうべは下痢のため六回も大便をする。母が夜半に遠く井戸水ををくみに行かれ寝ないで頭や足を冷やしてくださる。世界で一番よいひと。今朝からげんのしょうこを飲みはじめる。腹具合をよくしなければいけない。梅湯をすこし飲む。懐炉灰で腹を温める。夕方にかけて猛烈な風が吹きはじめる。こわれている家を暴風がゆさぶる。雨が降らないよう祈る。

八月二十六日 日 曇後大雨
下痢、頭痛、足熱、くるしい。口の中は、歯や舌が真黒く焼けている。母と弟に車を押してもらい学校に治療に出かけたが、医者や兵隊は皆解除で一人もいなくなり、女学生と産婆さんがいる。話にならぬ。一晩中六回便所、一人でゆけなくなる。猛烈な暴風、雨が吹きこむ。ねるところがない。いる――ろうかでした――(原文のまま、このあたりから文章も文字も乱れ、わからない言葉がはいっている。)

八月二十七日 月 雨ふったり止んだり
今日は腹具合がすこしよいが、足が激痛。朝食はおも湯、昼も同じ。足が痛い。ゆくのを中止――

弟よ
おまえの日記はここで切れる。ぷつんと。目を閉じて書いたように文字は大きくゆがみ、ゆくのを中止――と書いて切れる。おまえの人生も断ち切られる。断ち切られて終わる。

弟よ。頭髪もぬけ失せ、やせおとろえたおまえは、生きている証しのように激しい足の痛みを訴える。母は、「医者を、医者を」と走りまわったが、当時往診してくれる医者など一人もなく、ただ、枕もとで「お医者さんが来るまで元気を出して、元気をだして――」と母がいえば「ウン」「ウン」と返事だけは、はっきりと残して、それなり死んでしまった。

死んでしまったおまえ、やはり髪もまばらに抜けおち、下痢にやせ衰えたおふくろと末弟とだけに見守られながら死んでしまった弟よ。

弟よ
あれからもう二十年たってしまった。

おふくろもすっかり老いこんだ。兄も私も末の弟も、もう中年になり、おまえの甥や姪たちが遊びたわむれている。鉄道草のおだんごや大豆かす入りの飯を知らぬ若者や子供たちが育ち、ビルがならび高級車が路上を埋める。弟よ、おまえたちが求めて得られなかったものが、今はすべてある。

しかし、おまえがほんとうに求めて止まぬもの、すこし斜視の目をまばたきながらこのわたしに話しかけてくる言葉、このわたしに求めて止まぬもの、人間が、血へどを吐き、毛髪がぬけおち、ケロイドにひきつり、目鼻も、男とも女ともわからぬ程に焼けただれ、または、からだの奥ふかく骨髄をおかされて生命を失うことのない世界。人間がすべてしあわせな生と安らかな死を保障された世界。おまえが求めて止まぬものは、まだこの地上にはない。

弟よ
わたしがおまえに誇りをもって告げられることは、まだない。死んでいった人々に、生き残った者が、頭をあげてこたえることはまだできない。平和を願う人々、原水爆禁止を願う世界の良心は、まだ果たされてはいない。

原爆が数十万の人々の生命を焼き去ったこの日本列島に原子力潜水艦の寄港を許し、いまだにベットのうえで日夜原爆症と戦いたおれてゆく人々の絶えないこの日本列島から、原水爆搭載機がベトナムに向かって飛び立ってゆく。

弟よ
わたしはいまベトナムの母子像を描いている。

幼い息子を抱き、娘をひきよせ、怒りと決意に光る瞳をもつベトナムの母子像を描いている。おまえを奪ったものへの憎しみと怒りをわたしはこの母子像にぬりこめる。

侵略者にたいする勝利の確信にみちみちた母子像を! そして、なによりもまず母子を解きはなちがたく結び合わせている愛を、ひと筆ひと筆ぬりこめる。

弟よ、おまえが死んでから二十年、描き続けている母子像の、その絵具の重なりの中に、わたしはおまえの日記の一行一行をぬりこめる。

人間のさまざまなつながりの中で最も根元的なものである、母と子のつながりを絶ち切ろうとするものへの怒りと、けっしてそれを許さない母子の愛情をわたしは絵のテーマとして選んだ。おまえの日記帳がわたしにそれをさせた。母子の喜びの姿も、悲しみや怒りの姿も、原水爆と切りはなしては描けない。

弟よ、母子像を描き続けて今わたしはベトナムの母子像ととりくむ。

弟よ、おまえが日記の中から話しかけてくること、おまえの怒りや悲しみがわたしの絵にどれだけぬりこめられるか見ていてくれるか。

弟よ
おのおののしあわせが、おのおのの生活が、おのおのの生命が、おのおのの祖国が、いかなるものにもおびやかされず、はずかしめられることのないために、そのためにわたしは母子像を描き続けよう。

この地球上のどの地点ででも、人民の平和のために流された血潮は、このわたしの胸からしたたったと同じ痛みを痛み、おまえの悲しみと同じ悲しみに胸を締められ、同じ怒りを怒るために、弟よ、おまえの日記帳をわたしの日記帳のうえに重ねよう。

日記は、他の人にわかりにくいまったくの私的メモの部分
を除き、かな使い等を改めたほかは、すべて原文のままで
す。なお、日記中の( )内はわたしの注記です。


出典 広島県被爆者の手記編集委員会編 『原爆ゆるすまじ』 新日本出版社 一九六五年 二一~四二頁

【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま記載しています。】 

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