私の家に一冊のノートがある
右さがりの文字が一杯に埋まつた
日記帳がある。
原子爆弾のサク裂に片足をくだかれ
その片足は腐れはてて
死!その日まで書きつゞけた
弟の日記帳がある。
その日記帳を撫で撫でして
老いた母はたゞおろおろと泪をながし
ニユーギニアから還つてきた兄はそのときだけみせるけわしい眉で黙り
生き残つた幼い弟は
死んだ弟のお古の服から
顔をゆがめてその日のおそろしさを語る。
八月六日 月曜日 晴
広島大空襲さる記憶せよ!
例によつて兵舎に帰り(防衛召集なるものによつて、十八才の弟は幟町小学校の臨時兵舎に入り、夜は壕掘りと街の橋々で、空襲を恐れて市外に逃げようとする市民をバケツ防火をさせるために阻止する役割をさせられ昼間は臨時兵舎に帰つてはねむつていた)朝めしをすませ富士木と一諸に上半身裸で昨日母からとゞけられた煎り豆をかぢりながら警戒警報に入つたのでゲートルを巻いて横になる。
九時頃ででもあつたか、フト大きな爆発音に夢を破られて眼をひらくと、ものすごい勢で天井の材木や瓦が顔の上に落ちてきた。よろよろと立ち上つた者もいるが皆顔を真つ赤に染めている。自分も生あたゝかい液体が額から流れ、立ちあがろうとするのだが下半身を材木でおしつけられて出られない。
中国新聞社は四階目あたりが猛烈に燃えている。空は土色に覆われ太陽は橙色に染つてみえる。
「とうとうやりやあがつた!」と思う。
左の足がやけつくように熱い。誰がゞ材木をのけてくれたので少し軽くなり這い出して敷ぶとんの下に枕代りに入れていた上衣をとりだし裸の上に着る。左の足の裏は材木でぶち割られてどくどくと血を吹き出している。藤原が布切れを腿に巻きつけ棒切をさし込んで締めつけてくれたが血は止らない。ひとまず校庭に出る。二階で寝ていたのだがくずれているのでらくに外に出られる。校舎は全部つぶれて数人の負傷者がゴロゴロところがつている。校庭にねころんで燃え上る広島を見ながらいろいろと思いにふける。そばを泣きわめく者、助けを呼ぶ者、うめく者が通る。
やがて中隊長が片手を胸に垂つて大声で「負傷者はどうにかして北え向かつて逃げよ!こゝも今に燃えだすぞ!」とゆうので道路に出てビツコをひきひき放送局の前を通り泉庭前を通り白島線の電車路にそつてゆくと向方へはゆけぬとゆうので家と家の間、―片方の家はさかんに燃えていたが―一気にかけぬけて河岸に出た。すると向岸に洲があつて草が生えているところがあり、そこえみんな材木をかゝえては泳いで渡つていた。自分も渡ろうと思い岸をすべり降りて水の中え入つてみたが脚の傷が千切れるほど痛むので仕方なく水ぎわに這い上つてねころんだ。
さいわい引潮である。対岸も猛火につゝまれている。トキワ橋のたもとの消防署がばりばりと音をたてゝ河えくづれ落ちた。若い見習士官がひどく火傷している。男も女もみるもむざんな姿、まんぞくに衣服を着けている者はない。潮がだいぶ引いたので河岸づたいにトキワ橋の下え行く、あまり熱い風が吹くので上衣を脱いで河に漬けては頭からすつぽりかぶる。
こんどは風向が変つてきて寒くなる。左手の鉄橋の上には貨物列車が停車して四台転覆していてその一台が燃え上つた。
もう何時なのか、大分火勢がおとろえたらしく青空が輝きだした。
「四国!」と呼ぶ声にふり返つてみると堤、中尾が歩いて帰つてゆく。うらやましい。足の傷さえなかつたらとうらめしくなる。
夕ぐれがくる。知つた人が来たらなんとかしてもらおうと思う。橋の上に這い上つてゴロリと横になつてねむる。日がとつぷりくれて火災が磯のかゞり火のように闇の中で四方で燃えている。ながい一日。
八月七日 火曜日 晴
軍靴の音が頭にひゞくので眼をさましてみれば昨日の空襲はうそのようにカラリと晴れている。自分は橋の上にねている。顔にながれた血がほこりと一緒にかわきぬれた上衣も血と泥で雑巾のようによごれている。足が腐りだしたらしく臭い。橋本とゆう五郎兄さんの同級生をみつけてたのんでみたが駄目、すこしすると水木がきたので家えの連絡をたのむ、彼も父の行方をたずねているらしい。
又暑くなつてきたので橋の下にすべり降りてねころぶ。やぶれかぶれな気持。午后二時頃目をさまして通りかゝつた警防団らしい人にたのみ水を飲ましてもらう。
もう母が迎えに来てくれるのではないかと大声で母の名を呼んでみる。悲しくなつた。十八才を最后にこのまゝ死んでしまうような気がする。いろいろ思いにふけりながら又橋の上にねる。向方から特警の腕章をつけた男が来るのでよく見れば青年学校の教官吉田(馬鹿者)なり、つれて帰つてくれとたのむが駄目だとゆう。同伴の一人にやつとたのんで家とは反対の方向、西練兵場のところまで背負つて行つてもらう。兵舎は全部無くなり元の野砲隊のところでアメリカ兵を真つぱだかにして手足をくゝり棒切れで通行人に撲らせていた。自分は足の痛みにそんな元気はすこしもない。
又ここでゴム輪のとれた車のかげに這い込み横になる。屍体の臭が方々からする。自分の足もそれと同じ臭いがする。このまゝ死ぬるような気がする。堤が自転車で来たので荷台に乗せてもらつて家え帰る。家は破損しただけで焼けてはいない。石段を這つてのぼつていたら中尾のおばさんにみつかり家えつれていつてもらう。砂糖の入つたお茶を飲ませてもらう。うまかつた。
暗くなつた玄関でロウソクをたよりに金川のおぢさんに左足の治療をしてもらい浴衣を着せてもらう。静かに眼をつむつてねていたら自分をさがしに行つていたお母さんと克之(末の弟当時八才)が帰つて来た。十年ぶりに母子が会つたような気持
八月八日 水曜日 晴
もう今日から這つてゆかなくても水が飲める。大河の学校え母に手押車を押してもらつて治療にゆく、痛い、母の苦労、自殺したい。
八月九日 木曜日 晴
ソ連に宣戦布告、満州で戦争がはじまつた満州にいる五郎兄さんはどうしているだろう。小池は無傷だそうだ、つくづく自分の足の負傷がくやしい。
(この日記は原文のまゝである。この日記のうち 八月六日、七日の日付のものはおそらく家にたどりついて 八日に書いたものと思われる。死ぬる日迄毎日大学ノートに少いときは二三行多い時は一頁あまりかきつづけ足の傷がだんだん悪くなることや、手当の方法も知らずただあれこれと心配する母のことや次々と死んでゆく友だちのことを悲しみ自分は火傷をしていないからきつと大丈夫だとゆうことや……しかし病状はだんだん悪くなつてゆくのだが、自分では死は意識していなかつたようである。日記帳の欄外に、東久邇内閣の顔ブレだとか残念残念という文字日々にやつれ日々に力を失うというような言葉がらく書してあるそして死ぬる日に近づくにしたがつて文字も文章もみだれている日記の八月十日から二十二日迄のものは割愛する)
腐つてゆく片足は
部屋中に屍臭をふりまき
母は大豆と米をえりわけて
掌一杯のかゆをつくり
幼い弟は不平もいわず母と大豆を喰らう。
長男はニユーギニヤ、次男(私のこと)は満州
老いた母には想像もつかぬただ遠い彼方
最后に受取つた便りを仏壇にあげ
生きて還つてくれ…生きて還つてくれと…
おろおろと、しかし、おろおろ泣いてばかりはおれぬと。
ほどこすすべもわからぬ足の腐る弟を手押車にのせ
今日は彼処、明日は何処と医者をさがしてあるき
ぐつたりと疲れて帰る母の躯は
いつの間にかむくみはじめる。
やがて幼い弟にも原子病は襲いかゝり母子三人手押車を押して
よろめき、よろめく、
あの日、息子をたずねて気狂いのようにあるいた街に
るいるいところがつていた屍体の色が母の脚に
あゝ髪の毛のぬけてゆく息子の頭に…
死なせてはならぬ、死んではならぬと…
弟は
腐つてゆく足で這いまわつて
やつとなおしたラヂオが
無条件降服をつげ
ポツダム宣言をつげ
連合軍の上陸を告げるのをきゝ
どうなるとも知れぬこの躯母のからだ
ただ残念だ残念だと日記に書き。
痛みのうすれにうとうととする夢の中で、召集されて、これもまた生死も知れぬ兄と語り
ひきゆがんだ屋根を漏る雨に眼をさまし、
母子三人フラフラと這いまわつて
やつとみつけた押入れのすみに雨をよけて夜を明かす
長男と次男が還つてきてくれたらと
闇の中に目をひらいて母が祈れば
「兄さん」「兄さん」と
傷の痛みにうなされて弟がさけび
幼い弟はその小さな躯にさゝえきれぬ原子病と空おそろしさに泣きつかれてひとりねむる。
八月二十三日 木曜日 晴
五郎兄さんが草履ばきで帽子の階級章もつけず玄関に現れ自分に漢和辞典の文字を暗記したかとたずねる。「暗記していない」とこたえると強い声で叱り茶色のジヤケツに青いシヤツを縫いつけた。こんな夢を昨夜みた。連合軍が神奈川県に上陸を開始、赤痢患者が多数発生したそうだ。足は痛む。正月には歩けるようになつて餅が喰べたい。
今にしてみれば、いかなる言も空し。兄が恋しい、満、五郎、兄さん、兄さん、兄
八月二十五日 土曜日 曇風強し
B29の飛ぶ音がする。昨夜から下痢をはじめ六回も大便をする一杯のおかゆを喰べれば五六回も便所にゆく。母が夜中に井戸まで水をくみにゆき寝ないで頭や足を冷してくださる。世界中で一番よい人、ゲンノシヨウコをのんでみる。カイロで腹をあたゝめてみる。原子爆弾の性質をきく。風が強くなる。
八月二十六日 日曜日 曇後大雨
下痢、頭熱、足熱、くるしい。口の中は歯や舌が真つ黒く焼けている。母にヒゲを剃つてもらいぬれタオルで躯をふいてもらう。鏡をみれば顔も躯も土色になつて自分でもおそろしくなるような姿になつている。又車を押してもらつて学校え治療に行つたが医者は一人もいなくなり、女学生と産婆さんだけがいる。話にならぬ。便所え一人でゆけない。猛烈な暴風、ねるところがなく雨、いる――ろうかでした(原文のまゝこのあたりから文字が乱れ、意味のわからぬ言葉が入つている)
八月二十七日 月曜日 ふつたり止んだり
今日は腹具合が少しよいが、足が激痛、朝食はおもゆ、昼もおなじ、足が痛い、足が痛い、ゆくのを中止――
日記はこゝで切れており、二十七日の文字を眼を閉ぢて書いたように大きくゆがんでゆくのを中止――と書いてプツンと切れている。その夜足の痛みは更にはげしくなり、母は医者を医者をと走りまわつたが、当時往診してくれる医者など一人もなく、弟の枕元で「医者が来るまで、元気を出して、元気を出して」と母がさけべば弟「ウン」「ウン」と返事だけははつきりしていたが、まもなく死んでしまつた。翌日そばの学校で毎日何十となくつみあげて焼かれる屍体の中の一つとして母の手で弟は焼かれた。
ニューギニアから兄が、シベリアから私も復員して還つた。母はその度にこの日記を前にしてこのことを語り泣いた。
私の家に一冊のノートがある。
右さがりの文字が一杯に埋まつた日記帳がある。
原子爆弾のサク裂に片足をくだかれ
その片足はくされはてゝ
死!その日まで書きつゞけた
弟の日記帳がある。
その日記帳を撫で撫でして
老いた母はたゞおろおろと泪をながしニユーギニアから還つてきた兄はそのときだけみせるけわしい眉で黙り
生き残つた幼い弟は
顔をがめてその日のおそろしさを語る
二十万の肉親を失つた
ヒロシマの人々のだれもが持つている
深い悲しみと憎しみと怒りが
この日記帳にある。
「残念!残念!」と書いて死んだ弟よ
お前はなんにも知らなかつた、
なぜ?誰に?何うして?死なねばならないかも……
弟よお前は知らなかつた
もうお前はなんにもいわない
しかしお前の書いた日記帳は
その右さがりの文字の一つ一つはことばになつて
私を母を、兄を悲しませる、怒らせる!読みかえすごとに悲しみはあらたになり読みかえすごとに怒りは大きくなる。
この悲しみが消えないように
戦争を憎む気持は決して消えない
平和をまもるためには生命をすててもよいと
弟よお前の日記から悲しみと怒りがわき、勇気が湧く
弟よ、お前をふくめて
ヒロシマの二十万のかえらない人々は百万千万の悲しみと怒りをのこした。そこからはやがて百万千万の勇気が湧く
この悲しみの消えないかぎり
この怒りの消えないかぎり……
出典 われらの詩の会編『われらの詩 一二』 われらの詩の会 一九五一年 二~五頁
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま記載しています。】 |