●はじめて「原子爆弾」なるものを知ったのは、太平洋戦争開戦の翌年だったか雑誌(週刊朝日か科学朝日?)の中綴じの見開き二ページに二色刷りで掲載されたのを見たときである。理論上開発可能な未来の兵器、その一発で優に戦艦を轟沈できるなどの説明がついていた記憶がある。すでにお袋など竹槍訓練にかり出されていた頃のことである。
●次に「原子爆弾」を聴いたのは、一九四五年(昭二〇)の八月十七日。まだ敗戦も知らず「ソ・満国境」の琿春(ホンチュン)北方の山岳の急造陣地で関東軍の一等兵としてソ連軍と戦闘中だった。敵の包囲はせばまり、連隊本部のある谷間に、軍属、看護婦、国境で生き残った丸腰の兵士などが続々逃げ込んできた。一兵士の私にも明朝あたりソ連機の集中爆撃と砲撃、次いで戦車がこの谷間に侵入するだろうことはわかった。山岳といっても山頂は裸、谷に低木が生えているだけの地形、二日とは持つまいと思われた。逃げ込んできた報道関係者らしい人を下士官兵数名が囲み情況を聞いていたが「広島」なる言葉に私は聴き耳を立てた。「広島は一発の爆弾で全滅した…」。一発の言葉に私は「原子爆弾」を直感したが、まさかとも思った。
広島の母と弟たちは…。街の中心に比治山がある。いかなる爆弾にしろ迂回する爆風や破壊力などある筈がない。山の死角に入って運がよければとも考えた。だがそのときの私は、死に直面しどう対処すべきかで頭はいっぱいなのに思考は停止、被爆地広島に思いを馳せる余裕などまったく無かった。
●ソ連軍の捕虜となった私は、その年の十月下旬、極東シベリア・ハバロフスクの北方約六〇〇粁のバム鉄道建設要員として連行され、それまで予想だにしなかった生活に入った。
戦闘と飢えにより衰弱した体での労働、零下五〇~六〇度の厳冬(マローズ)、敗戦でさらに狂暴化した帝国陸軍の「真空地帯」に翌年二月ついに倒れ、瀕死状態で十数粁はなれたゴーリン病院に入院した。「入院したら殺される」という風評どころか病院の医師や看護婦たちは実に親切であった。
実は昨年ゴーリンを訪う機会があり、当時の看護婦リージャに会うことができた。聞けば病院勤務者のほとんどはナチ占領地のウクライナやベラルーシなどから戦後シベリア送りとなった人達とのこと。日本の陸軍病院と異なるこの人間的な病院のおかげで、白樺の若葉の美しい六月に入ると戸外の散歩もできるほどに健康をとりもどした。
情報は抑留日本人向けに発行される『日本しんぶん』だけで、そのころ『廃都広島』と題した小さなコラムが載った。『四十三万の都市が十三万に激減し、その多くは周辺の家々に住んでいる。七十年間草木も生えぬといわれた廃墟の地にも雑草が芽生えはじめ、帰って来た住民は焼跡にバラックを建て住んでいる』といった内容であった。
そのころプラウダかイズベスチヤに小さく載った広島らしい写真を見たことがある。被爆した広島へ馳せる思いはその写真のように不鮮明なままで常にもどかしく不安であった。
●翌一九四七年(昭二二)一月四日付「日本しんぶん」に、近着のサンデー毎日からの転載として広島の写真とそのキャプションが出ていた。その一枚はまぎれもない本通りの下村時計店だった。一階は完全に潰れ、二、三階だけがかしいで残っていた。上半身裸の男性が手前で作業をしており、地面には雑草か野菜が伸び、背景にはバラックらしい小屋数軒、海の方まで見透せた。もう一枚は、大きな木柱が写り「五月廿七日建之広島供養会」の墨書が読みとれ、供花もあった。後方に幾人かの人影、川をへだててバラックが並んでいる。まさしくそれは広島だった。「原子砂漠広島は甦ると謳ってあるが果して「原子砂漠」はいつ復興するのだろうか。この砂漠は甦りはした。この故郷を荒涼たる砂漠たらしめ、そしてなおかつ復興をさまたげつつある人民の敵が何であるか。人々は目ざめたのだ。そして軍国主義の廃墟の上に、自らの手で産業復興を闘いとれと民主統一戦線の旗がひらめいているのだ…」とある。
私の被爆広島のイメージは、その情報で少しづつ具体化していった。
●その翌年一九四八年(昭二三)十一月九日深夜三時広島駅に下車した。私は広島の地上に立った。四年前の十月関東軍へ入隊するためこの駅を夜半出立し、ちょうど四年目に帰ってきた。入隊の朝、涙を一杯ためて見送る母に、「だいぢょうぶ。絶対生きて帰るから」とまったくの空約束をしたが、その約束をこれで果たせた。少年航空兵に志願したいという弟を叱り「絶対お前は生き残りお母さんを見てくれ。兄さんも必ず生きて帰る。二人で一緒に絵を描こう。絵を学ぼう。と約束したこともこれで果せる。一番上の兄は「日中戦争」への従軍日記を残して死んだ。私はその兄から十三歳のとき日記を書けと指導され、軍隊も戦争も抑留中も日記を書き続けて今持ち帰った。これを素材にして忠君愛国でない自由な立場で軍隊と抑留を書いてやる!広島に帰って来た喜びが胸底から突きあげてきた。
●驚いたのは十年もアジアの各地を転戦し、最後は濠北派遣部隊で音信不通、死んだとばかり思った次兄が生きており、私を迎えに駅まで来たことだった。二重の喜びだった。同時にその兄の口から、弟が原爆で死んだことを告げられた。弟が死んだ!私は呆然として引揚者のためのバスの窓から深夜の広島を眺めたが見えるのは暗黒。時おりライトにうかぶのは異形の街。広島だと実感したのは破壊されているがまぎれもなくT字形をしている爆心の相生橋だけであった。
宇品町の屋根瓦も塗り壁も、畳も無いバラック。母と次兄夫婦と末弟の住む家に帰り着き、生き残った家族全員がそのことを確かめあった。母は泣いていた。私は弟の死の実感がたしかになるにつれ、怒りが増し、弟の死にざまが知りたかった。悲しみにゆすぶられ、うまく話せない母は、弟の書き残した日記をとり出した。
ああ弟の日記。この日記は、長兄が私にしたと同様に、十二歳になった弟に私が教えて書かせたものである。「絶対に休んだり、止めたりしないこと。自分の初志を故なく自分で破ることは、われとわが心を恥かしめることだと思へ!」長兄の言の受け売りを弟は素直に受けとった。一九四五年(昭二〇)八月六日も、頭髪が抜けた日も、下痢と吐血も、苦しみ抜いて息をひきとったその日まで日記を書いた。
それは弟から私にあてた遺書でもあった。
(弟の日記)
八月六日 月曜日 晴天
広島大空襲さる 記憶せよ!
例によって兵舎(幟町小)に帰り朝食をすませ富士木君と一諸に上半身はだかになり大豆をかじり、一度警戒に入ったので足袋をはきゲートルだけして寝た。九時でもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られ眼を開くと思い出すもすごく、瓦などが顔の上に落ち、天井の材木が我々の体を押しつぶさんと上から押えつけている。友の中にはよろよろと立ち上ったのもいるが、皆顔面を真紅にそめている。自分も生温い液体が額を流れ落ちるのを感じた。自分は出られないのである。中国新聞社は、四階あたりが猛烈に燃えている。上空は土色に覆われ、太陽は橙色に染って見える。とうとうやりあがったと思う。左足が焼けつくように熱い。誰か材木をどけてくれたのか少し軽くなったので這い出し、敷蒲団の下へ枕の代わりに入れていた上衣をとり出し、裸の上へ着た。左足の裏を見れば材木でぶち割られ、どくどくと血潮を吹き出している。藤原がぼろぎれを股に巻きつけ棒切れで止血してくれた。ひとまず校庭に降りた。二階で寝ていたのに崩れていて、わけなく出られる。校舎全部潰れている。数人の患者がごろごろところがっていた。自分も校庭に寝ころんで燃えあがる広島を見ながら思いにふける。泣きわめく者、助けを呼ぶ者、唸る者。左手を胸につった中隊長が大声で「患者は北に向って逃げよ、今に燃え出すぞ」と言われたので道路へ出て、びっこをひきひき放送局の前を通り、泉庭前を通り白島線電車の線路にそい行くと、向うへは行けぬと言うので家と家との間の小さい道(片側の家はバリバリと燃えている)を一気にかけ抜けて河岸に出た。すると向岸に洲があり草が生えていた。そこへ皆材木をかかえて泳いでいる。自分も向岸へ行こうと思い石垣をすべり下りた。水中に入って見たが左脚の傷が痛み脚がもげそうなり。仕方なくほとりにへたりこんだ。幸いに引潮なり。
前方も一面に猛火に包まれている。嗚呼憎むべき米鬼。常盤橋の根元の消防署がばりばりと音をたてて川へくずれ落ちた。
若い見習士官などひどく火傷している人、見るも無残な人が多い。満足に衣服を身にまとっている者はいない。潮がだいぶひいたので河岸伝いに常盤橋の下へおりた。あまりにも熱い風が吹くので上衣を脱いで川で濡らし頭にすっぽりかむったが風向きが変わり反対に寒くなった。すこし上の鉄橋のうえには貨物列車が停車していて四台余り転覆して一台目から燃え上った。もう何時であろうか…だいぶ広島の火勢もおとろえたらしく青空が輝やきだした。四時ころかも知れぬ「四国!」と呼ぶのにヒョイと振りかえって見れば、堤、中尾両友なり。両友は歩いて帰っている。うらやましかった。
夕暮れが訪れだした。焼け原を夕焼は美しく照らす。知人が通ったらなんとかしてもらおうと思い橋上に出て、橋のたもとにごろりと横になり眠りをとる。日はとっぷりと暮れる。美しい磯のかがり火のごとく闇の中を四方で燃えている。ながい一日。
八月 七日 火曜日 晴天
軍靴の音が頭にひびくので眼をさましてみれば、昨日の空襲は嘘みたいにカラリと晴れている。自分は横になっていて顔を血潮が流れ、ホコリにまみれ、帽子も無く上衣もぬれてほこりにまみれ、ズボンは血まみれになり足は腐りだしたのか臭い。橋本といって五郎兄さんの級友なり。彼にたのんだが駄目なり。すこしすると大河の水木が来た、父の行方をさがしている彼にも依頼しておいた。
暑くなり橋の下にすべり降りて寝ころび、やぶれかぶれになって眠る。
午後二時頃眼をさまし喉がかわいたので竹原の警防団の人に水を飲ませてもらう。もう母が迎えに来ておられはせぬかと大声にて母の名を呼ぶ…。
悲しくなった。自分も十九才(満十八歳)を最後かと思い種々の思いにふける。橋の上に出て寝ていた。すると向うより特警の腕章をつけた軍曹を先頭に二人の人が来た。よく見れば青年学校の教員吉田(馬鹿者)なり。その人に事情を話した。すると、よし連れて帰ってやると言われ、同伴の数本これは知人なり、もう一人知らない人が背負ってくれ大本営跡まで行く。命令受領された後西練兵場へ出た。あの辺の兵舎も全部焼けていた。元の野砲の所で一名の米兵を真っ裸にして手足をくくり棒切れで通行人に打たしていた。自分は足の傷のため撲らなかった。練兵場で一休みして八丁堀まで出る。空の手押車が投げてあったので乗せてもらう。金網が敷いてありゴム輪が無く、八丁堀から大正橋まで帰り川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台に乗せて家まで搬んでもらう。
すこし破損しただけの我が家へ帰った。嬉しくて泣きたいようだった。煙石も無事に帰っていた。中尾のお母さんに見つかり砂糖の入ったお茶を飲ませてもらい中尾さんまで這って行く。暗い玄関で、ろうそくの灯りをたよりに金川のおぢさんに左脚の治療をしてもらい浴衣を着させてもらい静かに眼をつむっていたら、お母さんと克之が帰られた。
自分を探しに行かれていたのである。
八月 九日 木曜日 晴
今朝暁よりソ連、満州国へ不法越境す。宣戦布告を発す。五郎兄さんは張り切っておられることだろう。いよいよ生か死かの決戦なり。大国難に遭遇せり。今日も大河校へ行く。小池は無傷なり。自分はつくづく脚の負傷がくやしい。
(以後、弟は放射能のことはまったく知らず、傷が痛み、体調の悪化を記し、母と弟(小学生)が手押車で治療所の学校へ行くこと、ご近所や友人知人のことを記している。自分の為の母の苦労に自殺したいと書く。十四日に被爆以来の日記の記載完了を記す。十五日は敗戦の事実をうわさで知ったらしく、それとなく記入。母の放射能による下痢等の症状衰弱の様子を書く。自分も下痢をはじめる。二十日に十五日の新聞を入手して讀む。翌日東久邇内閣閣僚名、ポツダム宣言等記入。)
八月二十三日 木曜日 晴
五郎兄さんが草履ばきで帽子も帯剣も無く階級章も着けず玄関に現れた。そして自分に字画、字引の事を暗記したかと問い、してないと答えると叱り、茶色の裏付シャツに青色のジャケツを縫い付けた。こんな夢を昨夜見た。
おそく松本君が訪れた。足が痛む。ラジオの放送で二十六日ごろより連合軍の神奈川県に上陸開始を報ず。種々注意事項あり。広島に赤痢患者が増加、生水生物を食さぬよう注意あり。福屋ビルが病舎に当てられたそうだ。種々のデマが飛ぶ。今日初めて午后より手当を受けにゆく。傷はすこしもよくならぬ。来年の正月には歩けて雑煮を祝えたらよいが。
一日中寝ていると変なことばかり頭に浮かぶ。兄が恋しい。満。五郎。
(欄外に、自分は切に祈る神仏先祖の加護、広島爆撃は原子爆弾。今にして見ればいかなる言も空し。
翌日は、日々にやつれ日々に力を失なう。と書く。鏡を見て、死人のように土色なり、翌二十五日は正午よりB29数十機、P38も飛来、憎んでもあきたらぬ敵機上空を堂々飛来すと書く。母の慈愛、夜半に遠く井戸水を汲み寝ないで看病してくださる、世界で一番よい人と書く。翌二十六日は、下痢、頭熱、足熱腔中歯や舌がまっ黒に焼けている。治療所の医師衛生兵除隊。残るは女学生、歯科医、産婆さんだけ。大雨のために寝るところ無し)。
八月二十七日 月曜日 ふったり止んだり
今日は腹具合は少しよいが足が激痛す。朝食はおもゆ。昼も同じ。足が痛い。今日はがっこうへ行くのを中止(乱れ乱れた字なり)
一九四五年(昭二〇)八月二十八日 火
午前二時ころ弟四国直登苦悶の末死亡 当時十八歳。
考えてみると私の人生をきめたのは、シベリアから広島に帰り着き、夜明けまでに読んだ弟の、この日記だったような気がしてならない。 <画家・詩人>
出典 原爆と文学の会編 『原爆と文学 一九九六年版』 原爆と文学の会 一九九六年 六六~七〇頁
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま記載しています。】 |