●昭和20年1月~6月
1月中旬に科学学級の入試テストが実施される。下旬にその結果が発表されたが私は不合格だった。2月中旬より付属中学2年生は三菱重工祇園工場に学徒動員となり、自宅から通勤する。当時中学校は5年間であったが私達昭和18年入学生から4年間となり、3年生以上は昭和19年9月頃より、すでに学徒動員となっていた。
約1ヶ月間はハンマーのたたき方、旋盤の取り扱い、ネジ切り等の実習を受け、その後ケガキ、旋盤、シェーバーフライス盤等の現場作業につく。私はケガキ作業をすることに決まる。その内、部品も不足がちになり、避難用防空壕から掘り出した土のモッコ運びが主作業になる。
4月頃からクラスの半分位の単位(20名)が1週間交代で勉強をしに学校に行く。3クラスあるので6週間に一度学校に戻ることになる。夜間空襲警報発令があると学校に駆け付け、防備に付かなければならない。そのうち夜間空襲警報が頻繁となると、昼間は家で寝ている状態で、勉強をした記憶はない。
●昭和20年7月
7月1日頃より8月6日まで、三菱重工祇園工場の機械(旋盤、フライス盤、ボール盤等)を可部町東方の山腹防空壕に疎開させる作業を行う。堺町の自宅から可部町の山へ、時には疎開予定の五日市から、通う。8時頃可部駅に集合、隊列を組んで軍歌を歌いながら行進し山腹の農家で点呼を行う。
一旦山を下り祇園から機械を積んだ馬車を待つ。この馬車を全員で引っ張ったり後ろから押して防空壕の前まで導くのが我々の仕事だ。
●7月15日頃天満川以東横川~江波線間の強制立退きが決まり、我家も取り壊しとなる。早速荷物の疎開がはじまる。私も7月25日頃から3日間休暇となり、リヤカー等で、売買契約が出来た己斐の家、五日市の家、己斐の伊藤医院、八幡の青木薬局等へ荷物を運ぶ。
7月30日頃後始末のため一時借りた、土橋電停前の植木家離れに、身回り品だけ持って引っ越しする。この頃、姉和子も神戸女子薬専より1週間ぐらいの休暇を貰って帰る。
●昭和20年8月1日~5日
1日頃より堺町方面の建物取り壊しが始まる。堺町3丁目39番地の我が家は3日、4日には、総て壊された。8月5日夜私は動員先より植木家離れに帰り父、姉、私の3人でタ食、母は五日市に残っているはずだった。
夜9時頃から、父と私は植木家の親子に手伝って戴き4人で、壊された我が家の残骸の中より棟柱、床柱を掘り出し近くの倉庫に運ぶ。12時頃までかかり、植木家離れで3人床につく。
●昭和20年8月6日
朝6時半頃土橋電停より横川に向かう。横川駅で付属中学3年の同級生と共に電車にて可部へ向かう。8時前可部駅着、8時頃可部町東方にある山腹の農家の庭先に着き点呼を行う。本日は、何故か先生(菊池先生)が来られない。何をしてよいのか分からないまま「ワイワイ」していると、「B29だ」の声、見上げると飛行機雲の先にB29が見える。
一瞬物凄い閃光がはしる。『バァシー』私は農家に走り込む。恐る恐る出て見ると(その間約30秒)広島市上空と思われる方向に日の出の太陽の大きさの光り輝く物体が浮かんでいる。みんなで「なんだ、なんだ」と騷いでいるうちに、光り輝く物体は風船の様にどんどん大きくなり、3倍位になると四方八方に放射線を出しはじめた。
その瞬間『ズドン』天地を揺るがす爆音がした。地に伏せる者、家に飛び込む者、私も農家の畳の上に土足のまま飛び込む。やがて、恐さに体を震わせながら出て見ると、火の玉は吹き飛び、代わってきのこ雲が回りの煙を吸い込む様に天高く昇って行くのが見えた。外にいた人の話では、爆音後間もなく爆風が来て柿の木が揺れ動いたとのことだった。
閃光からさく裂まで少なくとも2分から3分あり、その間に火の玉は直径500メートルから1500メートルまで膨張し、十日市~紙屋町間に始まり天満川~八丁掘間の上空に約6000度と言われる火の玉が光り輝き、2分間位物を焼き人膚をじりじりと焼き尽くしたのではなかろうか。
何か起ったか分からないまま、先生は来られないし生徒だけで途方にくれる。
広島市と思われる方面は物凄い煙をあげて燃えている。ふと見上げると真上の空(約200メートル)に、パラシュートが北西方向に向かって流れている。爆弾でも落ちて来るかと、ひやひやしながら頭上を去るのを家の中で待つ。(これは可部町亀山の山中に落下)10時頃、みんなで相談して現地で解散、気になる家路につく。
可部駅で広島市が全滅らしく、電車は動かないと分かり不安は募るばかり。気を取り直し徒歩で広島へ向かう。八木、緑井と広島に近付くにつれて頭、手、足に包帯を巻いた人達が反対方向に去って行く。市内にいる父と姉がせめてこの人達程度の怪我であればと、祈りながら歩く。
古市を過ぎる頃から、火傷をした人、リヤカーに乗せられた人達が増え、悲惨な様子が思われてくる。祇園付近で私方の店の番頭(当時徴用で大芝の工場で被曝)吉川さんと出合い、市内は火の海で横川から向こうには入れない等を聞く。父、姉はどうしているのか、生きていてくれと祈るだけだ。
長束まで来ると、逃げて来る人の行列はぼろをひきずった幽霊の様だ。(この人達は、足をひきずりながらでも歩ける人だった)五日市へ帰る成宮君と2人で疎開先の五日市へ向け山手方面に入る。汽車の線路上を己斐川ぞいに歩きはじめた頃から雨になる。枕木の一本一本から煙が出ている。
現在のノートルダム清心の下まで来ると、川縁がれんこん畑となり畦道に入る。全身ずぶぬれになりながら道が見えない程たくさんの人々が倒れている。
右から左から「水をください、水をください」の声。どうすることも出来ないまま、せめて踏まない様に通り抜ける。あちこちに生きているのか死んでいるのか、分からないまま雨の中に倒れている。
己斐の町に入ると家々は全壊にちかい状態だが、雨のためか燃えていない。
途中己斐駅前の伊藤医院に立ち寄り、父姉の安否を尋ねるが何も分からない。このあたりでは倒れた人を見かけない。
午後2時頃だろうか、高須を過ぎるあたりで雨も止み、間もなく濡れたシャツ、ズボンは乾いてくる。草津まで来ると、被害は割合小さく倒れた家はない。婦人会の人達か水を注いでくださる。(白いシャツが汚れなかったので、黒い雨の後通ったと思はれる)
草津から新道(2号線)を通り五日市町に入ると、静かで所々窓ガラスが割れている程度だ、ここで成宮君と別れる。午後4時前、楽々園の疎開先に着く。可部さんから母は今朝6時一番電車で市内に立ち、まだ誰も帰って来ない、と聞きがく然とする。
途中の様子から、父と姉に万一のことがあっても母だけは大丈夫だと信じていたのに、何んとしたことだ。
可部さんのところでは恒雄(荒神町の家)、淑恵(建物疎開で土橋町)の2人が帰らないとのこと。待っても待っても、誰も帰って来ない。
日が暮れても停電で、電燈はつかないしラジオも聴けないので、情況が分からない。9時頃表の方で人声が聞こえ、姉が帰って来る。(連れの男の人は土橋の光道館から逃げ、土橋電停付近で姉と一緒になり火の中をくぐり川の中で火を逃れて来た)
姉が最初に言ったことは「お父さんもお母さんも、だめよ」だ。母は五日市から帰るとアンマさんを呼び、父は堺町2丁目の三浦散髪店に行き、姉は土橋電停前の植木家の離れでアンマをとる母と並んで、植木家孫娘(管野矩躬子さん―5才)に本を読んでいた。
閃光と同時に建物の下敷きになり、姉は孫娘を連れて這いだすことが出来たが、直ぐ火が回って来て母を助け出すことは出来なかった。母は柱の下敷きになったらしく、呼んでも弱々しいうめき声だった。火があちこちからあがり出し、ふと気付くと孫娘がいない。探しているうちに、火が迫り男の人に助けられて一緒に逃げたとのこと。
姉は手足にかすり傷程度で火傷もなく、私は姉が生きていた、生きていてくれたと大変嬉しかった。その夜は父、母を思い泣きあかした。
●8月9日
可部の淑恵ちゃん、父、母を探しに伯母さんと市内に出る。宮島線の電車は6日夕方から動いているが、市内電車は全滅だ。まず己斐国民学校に行くと、そこら中死んだ人、うめく人、水を求める人で歩く場所もないくらいだ。
学校を出た所で、大八車に中学1、2年生の殆ど裸の男女死体10体位を積み重ね焼場に行くのに出会う。なんと無残なことよ。
己斐橋、福島橋が焼けたか壊れたかで通れないので、電車の鉄橋を渡り土橋まで来る。川には死体が無数に浮き、手先足先のない馬も浮いている。建物疎開の場所には黒く腫れあがった死体がいたるところに転がっている。焼け跡の臭い、死体の臭い、群がる蠅、うじ、我慢出来ない。まだいたる処がくすぶっており、熱くて手の付け様がないので帰る。
伯父さんは、6,7,8,9日と娘を探し回り、やっと今日、古江まで逃げ古田医院で6日死亡し、火葬になったとわかる。恒雄さんは無事に帰る。広島駅付近の家は大破したが、潰れることなく逃げだせ数時間後に焼失したらしい。
(己斐駅前で罹災者証明書を発行してくれる)
●8月15日
朝から度々正午12時に重大発表があるから全員ラジオの前に集る様にと放送がある。どうせ士気昻揚のため全国民玉砕せよとの話位に思う。12時天皇陛下の玉音放送で、ポッダム宣言を受諾したので国民は堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍ぶ様にと、放送がある。日本は負けた。
姉の様子が変だ。かすり傷が膿み、髪が抜け、体がだるくて起き上がれない。
●8月18日
京都から来ている藤山さんと、父母の遺骨を探しに行く。植木家跡で2つの遺骨をみつけ、金歯から母を確認する。他はアンマさんのだ。
三浦散髪店跡で二つの遺骨をみつけ、歯型、サイフの口金、ベルトの金具、レンガの下になり焼け残った腰に付着するズボンの布切れから父を確認する。
他は散髪店の主人だ。焼け残った腰部を木を集めて焼く。
帰ってみると姉の様子が急変している。火の中を逃げ回った恐怖が頭に焼き付いているのか、そのうわごとばかり言う。
●8月19日
夜中、一時 姉 死亡。たった1人生き残ってくれた姉も死んでしまった。
私一人残して皆んな死んでしまった。どうすればよいのだ。
|