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被爆体験について 
髙橋 信枝(たかはし のぶえ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所 広島貯金支局(広島市千田町一丁目[現:広島市中区千田町一丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子商業学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
もう七〇年以上も前のことですが、当時のことは今でも鮮明に覚えています。人からよくそんな昔のことを覚えているものだと驚かれるほどです。

被爆当時、私は一四歳、広島女子商業学校の二年生で、旧姓を石崎といいました。私には四人いとこがいて、そのうち同い年の一人が進徳高等女学校へ進学することを羨んだ私は、広島で就学したいと両親を困らせた末に、広島女子商業学校へ入学したのです。

入学する前は、安芸郡音戸町(現在の呉市音戸町)の田原という田舎に家族で住んでいました。一家は、父・栄蔵(五四歳)と母・コシン(四七歳)に、十三かそこら年の離れた異母姉・アキエ、それから4つ年上の姉・加賀美と一〇離れた弟・泰晟の六人家族でした。

●広島へ移住
昭和一九年三月、音戸にある田原国民学校を卒業した私は、女子商への入学を期に広島の南観音町へと移り住みます。その頃、私より先に広島に出ていた上の姉が、観音国民学校で給仕の仕事に従事していましたので、当初は、第二国民学校のすぐ傍にあるお宅に姉と二人で間借りしていました。

その後、第二国民学校から少し南西に下った福島川の近くの家が、疎開で空き家になるということで、そちらの家を借りることになりました。

●女子商での生活
私たちの学校生活は、今にしてみれば大変厳しいものだったのでしょうが、当時はその厳しさがごく当たり前のことでした。また、私自身は、父が非常に厳格な人でしたので、校則や授業の厳しさがあまり苦にはならなかったように思います。授業には、体操という科目があり、手旗信号となぎなたを懸命に練習したものです。中でも手旗信号の訓練は一番多く、今でもイ、ロ、ハ、ニ、と手が動きます。

●学徒動員と二人の友人
戦時下ですから、楽しいことという思い出らしい思い出もない学校生活を送っていました。戦局が厳しくなった昭和二〇年には、学校での授業は中止され、二年生の私は、千田町にある広島貯金支局へ学徒動員されました。

動員先は住んでいる地域ごとに割り当てられたので、観音から女子商へ一緒に通学していた二人の友人と共に通うことになりました。一人は、大崎下島の豊田郡御手洗町出身で、観音の親戚の家に下宿していた大島幸さん、もう一人は、観音の親戚を頼って大阪から疎開してきていた松島節子さんです。

●広島貯金支局
広島貯金支局に動員された学生は、全員で四〇~五〇人くらいいたでしょうか。正職員の皆さんと同じように朝の八時三〇分から夕方の五時まで、原簿庫で作業をしておりました。作業の内容は単純なもので、名前や住所、番号が書かかれた原簿の出し入れ、整理整頓です。毎日の事務で必要な原簿を職員さんが使って、戻ってきたその原簿をあいうえお順に並べて収めるということをしていました。

私たちは、与えられた任を果たそうと精いっぱい手や足を動かすわけですが、仕事をしている大人から見れば、まだ小さい子どもらがちょろちょろしているくらいにしか思われていなかったかもしれません。しかし、私の命を救ってくれたのは、この貯金支局への学徒動員でした。

●八月六日
原爆が投下された当日も、私は貯金支局へ行くためいつものように家を出ました。あの朝は、先に発つ私を姉が手を振って見送ってくれました。通学のときと同じようにして観音本町で落ち合った私たち三人が、貯金支局の建物の中に入ったのは、午前八時五分ごろだったと思います。もし、この時間に少し手前の鷹野橋辺りにいたなら、助からなかったことでしょう。

仕事が始まるのは朝の八時半からでした。三階にある自分の机に着き、印鑑を持って、出勤簿を押そうとした瞬間のことでした。辺りがピカッと光ったかと思うと体が宙に浮き、一寸先も見えない真っ暗闇になってしまったのです。意外に思われるかもしれませんが、その時、音は聞こえませんでした。

貯金支局は、鉄筋コンクリート四階建ての頑丈な建物でしたが、窓の開口部が大きかったので、窓ガラスが飛散し、多くの人がけがをしました。私は、爆心地の反対側にあたる原簿庫の方にいたので、全身にガラスの破片を受けたり、大やけどを負ったりせずに済みましたが、それでも両足はガラスの切り傷とやけどを負いました。

しかし、思いもよらない突然のことに、恐ろしいと感じる余裕もありません。気づくと周りには痛みを泣き叫ぶ人、恐怖のあまり「お母ちゃん、お母ちゃん」と母を呼ぶ人があふれていました。私も心細かったのですが、「こんなことに負けてはいけない」、「お母さんはここにはいないのだから呼んだってだめだ。絶対に『お母さん』とは言うまい」と強く思い、決して弱音を吐くことはしませんでした。いつも携帯している救急袋がどこかへ飛んで行ってしまったので、私は何も持たないまま、外へ出るため階段に向かいました。

●貯金支局からの避難
貯金支局の上階で被爆した人たちは、ずるずると血で染まった階段をはうようにして下り、一階にある出口一カ所に押し寄せました。多勢が同時に出口に向かったので将棋倒しになりましたが、人波に紛れて私も外に出ることができました。周囲は薄暗く、まだ人の顔ははっきりと見えません。建物からかなりの人数が出てきた頃にようやく顔が見えるようになっていきました。そういった中で、友人が「あれは人の足ではないか」と気づきます。飛ばされたのでしょうが、頭から溝に突っ込んで、両の足だけが逆さに立っているのです。けれど、そのような光景を目の当たりにしても、驚けないほど、何が起こったのか分からず、混乱するばかりでした。

そうした人々の惨たらしい姿があちこちにあるのです。一年生の時に同じクラスで、似島から来ていた友人は、首の辺りをガラスで切っていました。「石崎さん、連れて逃げてくれ」と彼女に頼まれましたが、女子商の新宅先生に「ここは私がするから、とにかく宇品方面に逃げなさい」と促されたので、手を貸すことはできませんでした。

先生には宇品方面に逃げるよう指示されましたが、私は姉のことが心配で、友人二人と、まず観音へ戻ろうとしました。橋は使わず、川底の浅くなった元安川を渡って、吉島町の辺りにたどり着いた時のことです。反対側から歩いてきた若い男の人に「この先に行くことは到底かなわないから、引き返しなさい」と言われました。その男性は、酷いやけどを負っていて、定かではありませんが、すぐに亡くなってしまわれたでしょう。

●ポンポン船とお産
私たちは、仕方なく来た道を引き返すことになり、先生の言われた通り宇品方面に向かうことにしました。その道中、御幸橋の手前の千田町三丁目に面した京橋川で、被災者を乗せているポンポン船を目にしました。傷の程度で分けられていたのではないかと思いますが、兵隊さんたちが、まだ小さな子どもを親御さんと別の船へと連れていくのです。後から考えると、あのポンポン船は被災者を似島へ運んでいたのではないかと思います。

何より印象深かったのは、親子が引き離されていく中で見かけたお産です。臨月を迎えた様子の女性がそこまで逃げ延びてきたものの、建物は皆壊れてしまっています。晴天で雲一つない、陰も何もない場所でしたから、兵隊さんがトタンを集めて、突貫作業でぼろぼろの小屋を作りました。陣痛が来て、その女性は無事子どもを出産しましたが、生まれてきたお子さんは女の子でした。あの時はまだ誰も戦争に負けたとは思っていません。当然のように男の子が望まれていたのです。あのような悲惨な状況下で、懸命にお産に耐えたお母さんと生まれてきた女の子に、拍手も万歳もありませんでした。

●御幸橋での出来事
御幸橋は、実際に目にしなければきっと分からないでしょうけれど、そこにはあまりに凄惨な光景が広がっていました。死に絶えた人と辛うじて生きている人が折り重なるように山となり、「水、水…」と手を伸ばしているのです。その時、私は逃げることでいっぱいいっぱいでしたから、手助けなどできるはずもなく、それが今でも悔やまれます。何より忘れられないのが、橋を渡ろうとする私の足をつかんだ人のことです。私は「お姉ちゃん、あんたらどこにいて、そんなふうに歩けるのか」と言って足をつかまれました。聞かれたことにどう答えることもできず、足を離してもらっただけのことですが、とても忘れがたい出来事でした。

●御幸橋から千田廟公園へ
今のようにビルはありませんから、御幸橋を渡ったすぐの所からでも、町が燃えているのがよく見えました。皆、爆心地の方角である鷹野橋の方向を見ていました。鷹野橋の辺りから今の平和公園の辺りまで、木造の建物が全て燃えているのです。

私たちは、海の方へ向かって京橋川に沿って歩きました。宇品町(現在の南区宇品御幸一丁目)にある千田廟公園にたどり着くと兵隊さんがいて、乾パンをくださいました。壊れた水道から水を飲むこともできました。そこから私と大島幸さんは二人で、船で島に帰ろうと宇品へ向かいます。公園まで一緒に逃げてきた松島節子さんは、家族が観音にいるので、宇品へ向かっても仕方がないということで、そこで別れることになりました。

●船中での一夜
そういった痛ましい場面をいくつも目の当たりにしながら、友人と二人、宇品まで歩きました。宇品には凱旋館という建物があったそうですが、私はその大きな建物を見てはいません。ただ当てもなく宇品のあたりをうろうろとしているところを兵隊さんが拾ってくださったのです。私たちは、六日の夜を軍の船で過ごしました。私たちの他にも大勢の人が集められたので、ホテルか何かのように広く感じた船はあっという間にぎゅうぎゅう詰めになりました。一晩過ごす場所にありつけたことがありがたいばかりで、イワシのように皆が雑魚寝で眠りましたが、苦にもなりませんでした。朝には、アルミニウムの入れ物で、おみそ汁と麦飯をよばれました。本当においしくて、何よりありがたかったです。

●八月七日
翌朝、音戸町早瀬の方面に向かう番船が出ると知り、私はその便に乗せてもらうことにしました。残念なことに、友人の大島幸さんが、御手洗町に帰れるような番船は出ていませんでした。彼女は、広島駅方面へと向かったのですが、その後どのように逃げ延びたのかは存じません。

番船で移動した私が早瀬に着いたのは午前一一時ごろで、そこから田原まで三〇分ほど歩きました。音戸町の人たちはいまだ広島の惨劇を知りませんでしたので、血で黒く汚れ切った私を見て、一体何事かとそれはもう驚いていました。私の姿に、慌てて昼ご飯を食べるのを止め、駆け寄って来てくださった人もいます。私の左足には太ももと脛にガラスの切り傷、右足の脛にはやけどでできた水膨れがありましたが、「痛い、痛い」とは言いませんでした。今の時代とは違い、あの頃は皆、気丈で我慢強かったのです。

ようやく田原の家へと帰り着いてから後のことは、あまり覚えていません。やっと家に戻って来られた、家族に会えたという安心感から、放心していたのでしょう。家に帰って、家族に会った時のことだけは、なぜだか覚えていないのです。ただ、一週間か一〇日くらいだと思うのですが、血塗れで真っ黒く汚れた服を勝手口にほったらかしにしておりましたら、父に「こんなもの焼け、焼け」と言われ、一緒に焼いたことだけは覚えております。

●姉の捜索
私は幸いにも被爆の翌日に音戸町の実家へ帰ることができましたが、長姉のアキエは戻りませんでした。ですからその次の日には、姉を含めた行方不明の親族を捜しに父と共に広島へ入ったのです。当時は、隣組があり、いざというときには西へ逃げるということになっていましたから、姉も己斐から井口の方へ逃げているだろうと考えていました。

しかし、アキエが働きに出ていた観音国民学校に行くことさえ大変な状況だったこともあり、私は貯金支局の近くにある井原産婦人科という親戚の病院で、待っているよう父に言われました。姉や他の親戚のことはとにかく父に任せるしかありません。私は、もしかしたら病院へ何かしら連絡があるかもしれないと思って、宇品までの見通しの良い一本道を行ったり来たりしながら、連絡係のようなことをしておりました。

●被爆した姉
観音町で被爆したアキエは、草津の病院で見付かりました。建物の中にいたのだと思われますが、割れたガラスがたくさん突き刺さっておりました。あの頃は混乱の真っただ中で、医療道具も薬品も足りず、治療らしい治療をしてくれる所はありません。とうとう最後には四、五か所、ガラスの上から肉が盛り上がり、体の中にガラス片が食い込んだままになってしまいました。その上、放射線の影響で髪が抜け落ち、生えてきても抜けてしまうということを何度も繰り返しました。そのため、姉は被爆後三年くらい三角巾を被っていました。

当時、宇品にあったABCC(原爆傷害調査委員会)は、そういった症状が出た姉を迎えに来ていました。その後、ABCCは比治山に移転しましたが、姉の送迎は、一〇年間くらいは続いていたと思います。

●二人のいとこ
姉は、負傷しながらも生き延びましたが、私より三つ上の井原一則さんと、私と同い年だった井原良子さんという二人のいとこは原爆によって命を落としました。

一則さんは、修道中学校を卒業し、広島文理科大学の物理学教室に勤めていました。大学の廊下で四、五人の友人と話をしている最中に原爆が炸裂し、ガラスの破片を胸に受けた一則さんは、広島赤十字病院へ運び込まれました。病院では、友人のどなたたかが、倉橋島から来ている人だからと、一則さんの郷里へ連絡をしてくださったのですが、捜索のため家族は皆、広島へ出てきていましたから、繋がりません。そこで、書置きを残してくださったのです。親戚と一緒に一則さんを捜していた父は、一則さんがどこへ行ったか分からず、ずっと捜していましたが、一則さんは当日の夕方四時に息を引き取っていました。

●良子さんとの別れ
一方、良子さんは、原爆投下の前日に南観音町の私と姉の家に遊びに来てくれていたのです。私は、その日偶然、女子商の友人と楽々園に出かけており、会うことはできませんでした。姉から、良子さんが、帰るときに後ろを振り返って、私がいないので、寂しそうな格好をして帰ったと聞かされました。その明くる日が、八月六日だったのです。

南竹屋町の進徳高等女学校に通っていた良子さんは、建物疎開作業に従事するため、校庭に集合している時に被爆しました。仁保町本浦(現在の広島市南区)の方まで逃げ、一週間ほどは命を繋いだようですが、私たちが彼女を見付けた時には、すでに亡くなっていました。兵隊さんは、あまりに多くの亡骸を焼かねばならず、順番を待つうちに、むしろを被せた良子さんの遺体にはウジがわきました。枕元にあった水筒にもウジが行ったり来たりしているのです。良子さんのお母さんがそんな水筒を抱き抱えて泣いているのを、私の父が「そんなものは持って帰るな、持って帰るな」と言いつけたために、結局、遺骨だけを引き取って帰ることになりました。

●八月一五日
終戦の日、八月一五日はちょうど、良子さんのお葬式で、私は、親戚や近所の小さな子どもの子守をするのに、将棋をしながら、きゃあきゃあと声を上げて遊んでいました。大変に不謹慎ではありましたが、子どもですから、ご飯がたくさん食べられることが、嬉しいばかりです。白いご飯が食べられると喜んでは、また声を上げていました。すると「お前ら大きな声で騒いでから、今、放送聞いたか。日本が負けたんぞ」と怒鳴られ、その言葉に子ども心にも驚きました。あの放送の後、戦争に負けた、負けていないと大人たちが大声で言い争っているところを見て、聞いたことを、いまだに覚えています。

●被爆後の生活
原爆が投下され、壊滅状態になってしまった広島の女子商へ行くことは難しく、私は地元の高等科がある学校へ二か月ほど通いました。女子商は廃校とはならず、向洋の兵舎を利用し再興され、さらにその後、段原へ復帰しました。呉市の警固屋という町に一家で引っ越した私は、段原に移転した女子商に通い直しました。八月六日に一緒に逃げた友人のうち、大島幸さんは女子商へ戻ることはなく御手洗町の学校へと進学しましたが、松島節子さんとは学校で再会することができました。

私には、両足の傷跡を除いて被爆による目立った外傷はありませんでしたが、当時、学校に復学した女生徒の中には酷いケロイドに苦しむ人もいました。心にも体にも深い傷を負いながら、懸命に復学されたのです。彼女は、焼けただれた頭や顔を隠すために、防空頭巾を被って、マスクをして、色眼鏡をかけて、それでもずっと学校に来ていました。ただ、もう誰とも話をしません。かわいそうで、とても見ていられませんでした。私たちの方から話しかけてあげられたらよかったのに、何も言えなくて、腫れ物に触るようにして、卒業していかれました。

卒業後は、就職難でしたので二年ほど和裁を習い、呉で少し勤めました。その後、結婚して、今こうして広島に移り住み、もう六〇年弱がたとうとしていります。

●平和への思い
戦争に対する思いや平和へのメッセージというと、涙が出て、もう何も申し上げることがありません。今があまりに平和で、平和過ぎて、何も言えないのです。大東亜戦争を知る私たち昭和一桁の者にとっては、今の時代はもう本当にもったいなくて、ぜい沢で、こんなにもなると、ただ亡くなった方々がかわいそうに思います。それだけしかありません。


  

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